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まぼろしのアムステルダム要塞(マナド)

Fort Amsterdam dalam kehancuran di Manado

中村高太郎
2024-7-17
2024-7-21 (追記)


 上の写真:19世紀のころマナドにあったアムステルダム要塞 (出典:Periplus Adventure Guides "SULAWESI Indonesia" p182)

Fort Amsterdamは、かつてインドネシアの北スラウェシ州にあるメナドに存在した要塞です。この要塞は、オランダ東インド会社によって建設され、1658年に完成しました。Fort Amsterdamは、当初はオランダの植民地支配を強化し、商業的な利益を確保するために建設されました。

要塞は、当初は木製の構造物でしたが、後に石造りの要塞に再建されました。その主な目的は、周辺地域の貿易活動を監視し、防衛を強化することでした。また、オランダの植民地支配を確立するための拠点としても機能しました。

しかし、現在ではFort Amsterdamの残骸は残っておらず、要塞の建物は解体されて商店が密集したエリアになっています。


まだ要塞が残存していた時点の高解像度の航空偵察写真(オレンジの腺で囲った箇所にアムステルダム要塞がありました。)

私のマナドの家の隣に1935年生まれのおじいさんが住んでいました。(2021年に亡くなりました。) 以下は、そのおじいさんから2017年ごろに聞いた話です。

「今では跡形もないが、まだ若い頃は、要塞(フォートアムステルダム)の一部が残っていた。」という話をされていました。 おじいさんの話では、「戦後も、しばらくは残っていた」そうですが、「急速に取り壊されて跡形もなくなっていった」との事でした。

要塞はオランダの植民地支配と密接に関係ある為、マナドでは、住民の心理がフォートアムステルダムを取り壊す方向に動いたのかもしれません。 一方で、マカッサルのフォートロッテルダムの場合は、史跡として残すほうに動いたのだと思われます。 勿論、規模やサイズや立地、地域ごとのオランダの政策や住民感情も大きく動いたのかもしれません。

何れも要塞の性格上、海沿いに建設されていますがフォートロッテルダムの場合は、ロザリビーチの付近は魚市場などでにぎわっていましたが、行政や議会・裁判所などが集中している市内中心部からは少し離れています。(要塞も都市もマナドよりも大きいですから・・・) 一方でマナドの場合、要塞の敷地も都市も非常にコンパクトです。市場はもとより行政機関の議会などのあった市内中心部(現ZeroPoint交差点付近)から200mも離れておらず商業地域としても有望だったのではないかと思います。だから前述のような住民感情で植民地時代の物は(サイズも小さいことだし)さっさと取り壊して、市内中心部から離れてなく立地もよいので商店街として開発しようと・・・あくまで想像ですが・・・


フォートアムステルダム跡地付近の商店街

もし要塞が残っていたら、、 -まぼろしのアムステルダム要塞を現在のマナドに再現- (Googleストリートビューに当時の要塞の写真をカラー化し合成、要塞はライデン大学 KITLV デジタルアーカイブより)

現在は、フォートアムステルダムの跡地は、Pasar45(通称は45とだけ言う)というエリアで商店街になっていて、お向かいがJumboスーパー(Googleストリートビューに当時の要塞の写真をカラー化し合成)ーマーケットになっています。 このPasar45というエリアは、マナドの庶民の足であるAngkot=Angkutan kota(マナドでは通称 Mikro とか Mikrolet と呼ばれる)の行き先がPasar45になっていれば、Jumboスーパーマーケットの前の道に到着となります。(余談ですがマカッサルでは、Mikroでは通じないそうです。Pete-Peteというらしい。※マカッサルに限らず、マナド以外ではMikroでは通じないと考えたほうが良いカモ。) 話が脱線しかけましたが、とにかく、この辺りには、要塞の壁や基礎の一部なども一片のカケラも全く残っていません。本当に要塞があったのか?と思うぐらいです。 そして、Jumboスーパーマーケットの前の道ですが、記念碑があります。

「The Landing of Worang's Batallion Memorial」(ウォーラン大隊上陸記念碑)となっています。 このHein Victor Worang少将は第5代北スラウェシ州知事と第13第マナド市長にもなっている人物です。

記念碑はフォートアムステルダム跡の記念碑ではなく、オランダとの独立戦争でウォーラン大隊がマナドを攻略したことを記念する記念碑です。
おそらくこの場所が要塞の出っ張り部分の近くに相当すると思われます。
つまり記念碑はオランダの植民地支配の象徴である要塞を攻略して第二次世界大戦後も再びオランダが植民地化しようとするも撃退し真の独立を果たしたという事を誇示しているのでしょう。(ちょっと言いすぎか?)
現在では、全く要塞の跡形もなくなっていて指摘されなければ全く分かりませんが、実際この記念碑からJumboスーパーマーケットへ抜ける際は、道が不自然に曲がっており、要塞の出っ張り部分であったことを「あぁなるほど」と想像させます。

〇 以下にフォートアムステルダムの事が説明をされているインドネシア語のページがあります。

インドネシア語ページ

それで、このページに出てくるフォートアムステルダムが記された古地図を現在の衛星画像と合成して、位置関係を確認してみました。

古地図と衛星写真との合成

昔の地図とはいえかなり正確に現在の道路と一致します。 要塞の突き出た部分は、現在の道路部分までかなり突き出ており、当時の道路は狭かったことが窺えます。(道が広いと敵が押し寄せてきた時に防ぐのが困難ですから、狭い道にし、かつ、わざと突き出るような形にすることで死角なく攻撃できるような要塞の設計なのでしょう。)

〇さらに当時の要塞があった時の写真と現在の同じ場所での写真を比べてみました。

当時の写真(疑似カラー化)と現在のウォーラン大隊上陸記念碑(手前)と交差点(右折)とJumboスーパーマーケット(奥) 現在のPasar45の要塞跡は2階建ての商店街(といいますか、実体は小汚い店舗が密集したエリア)となっていますが、要塞であった時も要塞に立つ歩哨のサイズから2階相当の高さで、小さな要塞と言えども道を曲げて居座る存在感(圧迫感)は十分にあったと思います。

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