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堀内落下傘部隊長

Horiuchi Toyoaki Komandan pasukan terjun payung di Manado, tahun 1942

川戸孟紀(海軍司政官)
昭和十七・三・三 晴
復刻版公開 2024-4-21

メナド・ラングアン

今日は内地ではお節句の日か、体の調子も大分良くなったので、佐久間中隊長の好意で六十粁程山の上のラングアンという村に駐屯ずる落下傘部隊を訪問した。

メナド市の中心にある軍の本部から二粁も走ると、もう椰子林の中にはいる。亭々と高く伸び茂る揶子の木、強い陽光と白雲映える緑陰の濃い椰子林、その中を貫く立派な舗装道路。内地へは見られなかった新型のグリーンのシボレーが矢のように走り抜ける初めて見る珍しい光景の快適なドライブである。やがて右に左にカーブしながら登る。椰子と雑木の山林が続く、約三十の後急に停車。戦斗の現場である。両側に立つ真白い標柱が目に入った。

故海軍三等兵曹今吉文雄戦死の地

故海軍一等水兵富永行一戦死の地

初めて見るこの標柱の前に、落涙も拭わず脱帽、敬礼数刻。やがて、黙々と走り進むうちに又しても停車。

故海軍三等兵曹中本順吉戦死の地

不幸、敵弾に斃れた部下の霊に涙して額つく姿の中隊長。五十日前の掃討作戦の際、異国の草も青きこの山の中に、異国の鬼とした三人の若い兵士の姿か。側々として胸を打つ。

標高約六五〇米の高原地帯にあるラングアン村の落下傘部隊本部に案内され、隊長の堀内中佐に紹介された。本部と言っても小さな木造住宅である。玄関を入って直ぐのちいさい部屋にくつろいでおられた隊長(司令と呼んでいた)は、眞黒い豊かな髭伸ばしておられる一六九糎程の立派な体格の、にこやかなお顔の方であった。カーキ色の長袖のシャツとズボンで、ネクタイを付けず、素足にスリッパという姿に驚いた。水足で足が痛むので、こんなかっこうをしていると申された。民政委員として派遣されて来た角田事務官であります、と挨拶すると、「今夜は泊まって下さい、明日は、ソンデルという村に宣撫に行くので一緒に行きませんか」とおもてなしに恐縮した。奥の部屋に澤山の白布の箱が安置されているのが目につくので、話の切れ目に「拝ませて下さい」と言って中へ入った、去る一月十一日に、此所の飛行場に日本軍の最初の落下傘降下作戦を行った時の、副官以下三三柱の英霊ある。「自分の身代りになった」沢山の部下の遺骨を守りながら司令は一人この家に寝泊まりしているという。

暫くしてその飛行場(カカス飛行場)を見に行った。本部から二粁もあったろうか、廣い畑と縁の連なる地帯である。土万滑走路の小さな新しい飛行場である。滑走路の端に近い部分に数十本の椰子の木がある。その中に隠れるようにトーチカがあり、ニ先に三つ四つのトーチカが見える。椰子の木の下が、整地され、きれいな砂を敷つめて、その上に大き右が「落下傘部隊」べてあり、その後に三十二柱の墓標が立ち並んでいる。「墓標の後の高い椰子の木に落下傘がひっかかったままで戦死した者と者をた」案内の兵隊が説明するのも、今はウソのような激戦の跡である。

それにしても、トーチカがずらりと並んで火をふいている何の遮蔽物もない飛行場にフラフラと落下して来たのに、これだけの犠牲でよくもトーチカを潰し、占領出来たものである。四、五人入れるトーチカの銃眼から機関銃で打ちまくっていたオランダ丘は、予想もしなかった突然の降下部隊の沢山の日本兵が、バタバタ倒れながらも、次々とピストルを乱射したがら鬼のように突進して来るのを目の前にして、、射撃を止めて逃げ出したという。

隊長と住民

本部へ戻ると、「散歩しませんか。今日は市場が開かれているので賑やかだから行ってみましょう」と案内して下さるというネクタイをつけ戦闘帽をかぶり普通の服装をされたが、足は矢張り素足にサンダルをはいて痛そうに歩かれる。中隊長外二、三の随行者は、皆、長靴をはき、皮の肩帯を着装してピストルを吊った海軍陸戦隊の制服姿であり、自分だけは卵色がかった麻の広服に白いヘルメット帽姿である。部洛の端の方に二百メートル程行くと広場があって、大勢の人が集まっている、二、三十棟小屋が出来ており、荷車や牛車や七、八百人の老若男女が集まって、野菜類、果物、肉、農具、衣類、酒、タバコ、料理などを持ち寄って、賣ったり買ったり食ったりし、、楽しそうにざわめいている。

その雑踏の中を縫うように歩き廻る司令を、男も女も老人も子供も笑顔で迎え、挙手の礼をしたり、拇指を立てて「ジョートー」と叫んだり、走り寄って体を二つに折って深々と最敬礼をしたりして、尊敬と親愛の情を表している。司令も笑顔で応援に忙しい。こうして数百人の住民が珍客を迎えて喜び、司令は民衆から敬愛される王者の喜びを味わっているような光景を、しげしげと眺めながら、王道楽土の民衆と善政を施す王様との触れ合う光景を想像しつつ、今日は良い所を見せて貰ったと私は喜んだ。

降下戦闘中の心境

その夜は、本部で御馳走になった。司令が白布の箱に納められている部下達と一緒に食事をしているような晩餐であった。

「さっきのパッサールでの村人の喜びようは只事ではないと感じましたが、どういう訳でしょうか」と司令に聞いてみた。「或日突然、神兵天より此地に下り来たって、三百五十年の植民地支配からインドネシヤ人を、解放してくれた如き日本軍。その軍人が最高責任者以下一兵に至るまで、、正に神兵の名に背かず住民に恐怖や不安を全く感じさせない善良な重隊であることが、良く解ったからでしょう」との説明であった。「畑のキュウリ一本でも取ってはならぬ。

婦女子を怖がらせることをするなと厳命し、兵隊全員がそれを守っている」とも言われたが、成程と肯けた。異民族の宣撫統治の模範的実例を見せて貰ったような感動を受けた。

また歴史的降下作戦の状況を隊長自身の口から聞くことが出来たのは、誠に幸いであった。『その日、昭和十七年一月十一日はフィリッピンの基地から飛び立ってメナドへ近づいた時、雲が一面に蔽っていて、目指す高地の飛行場が見えないかも知れないと心配になった。雲の中を飛行し、目的地の近くと思われる位置まで来たが雲のため全く見えない。旋回して探してみたが見つからない。作戦を中止して引き返そうかとおもったがその直後に、雲の切れ目が出来て飛行場が見えたので、、超低空で突っ込んで降下を敢行することが出来た。全く天祐と思った、司令は第一番機に搭乗していた。飛行場の端に近づいた瞬間に第一番に飛び降りた。続いて副官等が次々と降下した。着陸までの数分間、目の下の椰子の茂みの端のトーチカから狙い撃ちされたが、不思議に無事に着陸できた。左前方五、六十メートルのトーチカからはどんどん撃ってくる。着陸した場所に雨水の流れ跡の、体の厚みくらいの凹みがあったのでそこへ伏して、鉄兜で少し掘って深くし頭を低めに左右の降下状態を見上げていた。次々と降下している彼等も、「第一番に降下し着陸している司令がトーチカから集中射撃を受けているのを自見下ろしながら、「司令が危ない」と自分の事を忘れて気が気でなかった」、と言う。そのうちに着陸した者が、集中射撃に身を曝しながらピストルと手榴弾でトーチカに突っ込み沈黙ざせてくれたので、自分も其所へ走り寄り指揮をとった。よくも此の最初のトーチカを早く取ってくれたと感謝にたえない。もう一度あのような危機を脱して攻略を成功して見ろと言われてもして出来るかどうか解らない。後続の副官達が沢山やられたのに第一番の自分が無傷だったには、天祐というか奇跡というか、それ以外の何物でもない。』

『この降下中から集中攻撃を受けている間の自分の心境は必ず勝たねばならぬという重い任務だけが頭にあって、怖いとか死ぬということは全く意識しなかった。ビュンビュンと来る弾の中で恐怖も死も感ぜず空の気持ちで、指揮する事だけを考えていた。

重い任務を持つ時何物も怖くない。任務を持たぬとき入間は弱い。

死を恐れぬひとときの心境に部下全体を導くために隊長として苦労した。そうして訓練していると戦闘の時の困難な状況が死の恐怖心を忘れさせてくれるものだ。』

『思い返せば、落下傘隊長に命ぜられてから毎日が死との直面であった。危険な降下訓練と事故の続発であった。降下の一回一回が死を賭しての極度の緊張であった。敵の居ない所への安全な降下をするには、大きな傘でゆっくり降りれば良いが、敵前降下なるとそれでは滞空時間が長くなり、良い射撃目標になるのでかえって危険である。従って、滞空時間を出来る限り縮めるために超低空から然も小さい落下傘で早く且つ無軍に降下する方法を探求した。一定の武装をしての急速降下であるから着地時の衝撃が相当に大きい。このむつかしい危険な短時間の降下の「技術と着地衝撃」に耐える運動神経と体力つくりが基本訓練となった。海軍体操の創案者であり萬能スポーツマンである自分が隊長に選ばれたのは、この為であったと思う。』

『体力つくりは主として海軍体操によって行った、それも自分の声で号令をかけてやってきた。副官などにやらせてはダメである。隊長と隊員全体との人格の接触を自分の声がする。録音の声でもダメである。顔を見合い声をかけて人格は反映される。こうして、隊長と隊員全員とが一体となって猛訓練をやって、体力、精神ともに立派な部隊を育成してきた。』

感動

このような司令の話を二々感銘ふかく聞いた。『司令の貴重な御体験に基く尊いお言葉を承り、また昼間はパッサールでのインドネシア民衆の歓喜の姿を見て、非常に成動させられました。今後はこの地をインドネシアの住民を、司令がなさいましたように、立派に指導し統治してゆくのは自分達民政担当者の任務です。司令殿が、落下傘部隊の全員が、死を賭して占領された如く、僕も身命を捧げてこの重任を果たす覚悟であります。』と胸を叩かんばかりに申し上げた処、堀内司令も目を指で拭い乍ら聞いて下った。「司令は毎界一の落下傘隊長ですね」と申し上げると、『世界一の隊長はどうかと思うが、世界一年配の落下傘隊長である事は確かですよ。ドイツでは三十五才以上の者は乗せていない。自分は今四十三才である。まだ何でもやれる。昨年も陸上百米競争と水泳の競技会で優勝した。百米を十二秒フラットでまだ走れる。今度の降下でも一番先に降りた。』と申された。この「萬能スポーツ青年」の司令には驚き入りました。「勇将の下に弱平なし」とは堀内部隊のことか。

宣撫の日

七・三・四 晴小雨

今朝は六時から七十分間、司令の号令で隊員全部が、体操している様子を見学したが、リズミカルに流れるような、力強い躍動美に見とれてしまった。兵士の殆どが二千五・六才の体格の良い粒よりの選手のようであり、堀内司令が手塩にかけて鍛え上げた日本一、世界一の落下傘部隊のように見えた。

朝食後、部隊を率いて車で宣撫に出発した。ソンデル村の広場に、近隣から集まった千人程の群衆を前にして、通訳を介して凡そ次のような演説をされた。

小雨のばらつく中で、インドネシアの人々は喰い入るように壇上の司令に注目し、解り易く話しながら途中で「解ったか」と念を押す度に、群衆から何度も大声で応答があった。

大群の人出で悪くなった道を 頬の濡れるにまかせ狂喜して近寄る長い人垣。

その中をゆるゆると進む自動車の列。
サヨナラ!
日本バンザイ!
バンザイの絶叫

拇指を立て、「日本ジョートー」と絶叫する者、目を皿のようにして車上の人の目を追う者。
濡れる椰子の木の下の草葺の家の前に白い上衣をきちんとつけて最敬礼する老人。

両手を高々と上げで見送る母親達の笑顔、ニッポンインドネシヤ、ナカヨシと大声をあげる者ベランダに並んで恭しく頭を下げる一家族老若男女狂喜する椰子の林の中の村。

後日、メナドに立ち寄られたウラベ参謀(セレベス全島の攻略作戦を計画実行された陸戦隊の権威)に、この日の模様を話しところ、「マカツサル方面でも熱狂的な歓迎を受けている。この日本への期待に果して我々は添い得るかと思うと恐ろしくなるくらいである。」との言葉に、改めて胸を打たれた。

ラングアン出発

昭和十七年四月二六日 晴

いよいよラングアン出発の朝、別離の時である。村の眞中の通りに長い列をなした約三十台のトラックには既に兵隊も乗り終わり出発を待っている。両側の数千人のインドネシア人の人垣に取り囲まれた車の列。手を上げて挨拶する者、泣いている「村長、娘達、おばあさん達。」天より降り来たった神兵の如き珍客を迎えて百日余、その敬愛する兵士たちとの別離の間際の僅かの時間を、車上の兵士の手を一人でも多く握ろうと狂人の如く走り廻る娘達の眼、手、体の動き、両側から差し伸べられる無数の手と兵士の手で釘づけされたようなトラックの列。司令が先頭車に立って、いよいよ出発である。のろのろと動きだした。バンザイ、バンザイの嵐、どの顔も泣きながら、バンザイ、サヨナラ、バンザイの絶叫。正に感激のクライマックスの数刻。

司令も兵士も後ろ髪を引かれる思いで手を振り振り離れていく。あゝ何と美しい別離の光景か。一緒にこの光景を眺めていた軍医長の言葉

『天下逸品の兵隊なればこそである。これもまた堀内司令の人格の現れである。』と。

その夜、メナドの橋本部隊本部でのささやかな送別の会食の席での、二人の司令のやりとりが面白かった。
堀内司令が、『今夜はゆっくり眠れるな。ゆうべは、でっかいのと一緒だったので、ベットからおっこちそうになった』と笑う。

それは、『昨夜は、堀内司令を迎えにメナドからラングアンまで行った橋本司令が堀内部隊本部に泊まったが、メナドの本部の大きな建物とちがって小さな民家なので、部屋もベットも足りない。そうは言っても司令の一言で、橋本司令のための一室は確保できるのに、それには誰かを動かさねばならなくなるので、「お前、オレと一緒に寝ろ」「よいとも」という調子で、堀内司令のシングルベットに、一七五糎の大男の橋本司令と筋骨逞しい一六九糎の堀内司令と一緒に寝た』というのである。

橋本司令も笑いながら、『手を伸ばすと何か気持ちが悪いと思ったら堀内の髭だった』とやり返す。(堀内司令は十五糎程のゆたかな髭をたくわえている。)生死を共にして来た二人の司令、片や音に聞こえる帝国海軍落下傘隊長、片や金遇勲章を二つも貰っている海軍陸戦隊の猛者で、共に油の乗り切った海軍中佐の、この美しい友情に、聞く者一同、笑いの中にも秘かに感銘を覚えたひとときであつた。

メナド出港

昭和十七年四月二七日

今日は堀内部隊が、何処かへ転戦のためメナドから出港する。いよいよ最後の別れである。午后、港に出てみると少し波が高い、兵隊はもう沖の船に乗船し終わって、隊長の乗船と出港を待っているという。岸から四、五十メートル離れたあたりを二隻のボートがゆっくりと移動しているのを、大勢の人が見守っている。

何だろうと思って尋ねると、小一時間前誤って水に落ちた一人の兵隊を錨を曳き廻しながら探しているという。波が高いといっても一メートルくらいのもので大したことはないのに、海軍の水兵さんがこんな岸辺で水没するなんて、そんなバカな事がどうして起きたのか、不思議でたまらない。沖がかりの船に乗るための艀が、びたっと接岸できるが、今日は岸との間が 1メートル余りあって、歩み板を渡して艀に乗り移っていた。波の度に艀が上下に動くので少し注意を要するが、子供でもない限り危ないという程ではない。それなのに何の弾みか歩み板から落ちてしまい、岸と艀の何十人もの兵士の助けの手も僅かに届かぬ所で、あっという間に濁り水の中に見えなくなってしまったと言う、嘘のような突発事故であった。完全武装の重みが災いして、大事な銃を捧げたまゝ、(その銃の先にでも誰かの手がもう五十センチでも伸びで掴んでくれられ、ば助かったのに)沈んでしまったという。何人かの戦友達がすぐに裸になって潜り、更にその他の村人達が、最後のお別れに近寄って棒で探したが、これ又不思議に見つからない。水深は三、四メートルで僅かな流速のある約六十米幅の河口港のために流されたらしく、どうしても探せなかった。そして、少し下流の方まで錨を曳き廻して探し続けているところである。

危険な特殊技術を要する落下傘降下にも、激しい弾丸の雨の中にも、無事に生き抜いてきた逞しい兵士が、岸からニメートルと離れていない艀に乗り損なって水死するとは、何ともにくたらしい不運な気の毒な事故であることか。

やがて堀内司令も港に姿を現した。出港間際のこの悲しい突発事故に心を痛めている司令は、探し続けているボートの作業を見ながら、「せめて遺体を見届けてから行きたいと思って待っていたのだが・・・・・・何とかして探して下さい」と、見送りの中隊長に重ねて依頼している。

そこえ、昨朝のラングアンでの送別だけで満足できずにトラックで山を下ってきた郡長、村長その他の村人達が、最後のお別れに近寄ってきた。司令の白手袋の手を握る六尺男のモゴット郡長は、やがて堪えられなくなって司令に抱きついて男泣きをしている。抱きつかれたまゝの司令は、胸に顔を埋めた群長の頭を見下しながら、ハンケチを持っていく眼も濡れくきた。泣きはらして眼を赤くした少女が狂ったようにこみ上げながら、司令の前に腰を二つに折って挨拶している。三十名ほどの若者がかたまって、「堀内司令を称える歌」を涙を流しながら歌い出した。司令の眼も赤く濡れている。側に立っている僕等に「別れるということは実に辛いものですね」「五十の親爺に泣かれるのには実際まいる。本当にウソがないですからね」と言われた。美しい別離の光景である。

いよいよ司令も乗船する。「いろいろ貴重な御教訓を頂いて有難うございました。武運長久をお祈り申し上げます。」と申し上げる自分の目にも熱いものを催してきた。「どうぞしっかりやって下さい。」と言うやさしい言葉の勇将堀内中佐の目は、高僧の目の如く澄んで濡れていた。鼻水をハンカチでかみながら、ランチの方え歩き出された。


勇将の目に涙あり別離の日

三日前、メナドの橋本司令に挨拶に来られた際、民政部事務所まで態々ご挨拶に寄って下さった堀内司令にお願いした書

於メナド民政部

海軍中佐堀内豊秋
昭和十七年四月二十四日

が、良い記念となった。大事に保存してある。

誠の一字我に与えて何処えか 征きし司令の まぶたにうかぶ

家郷を思う

父の命日

(付記)
川戸孟紀(旧姓角田)

元海軍司政官
元農林省営林局長
元中国、四国農政局長

解説

昭和17年1月11日に実施された海軍横須賀特別陸戦隊(部隊長・堀内豊秋中佐)によるランゴワン飛行場降下作戦については、これまで新聞報道、戦記本など数えきれないほど多くの活字媒体で紹介されてきた。私自身は決して読書に熱を上げるタイプではないが、それでも生まれてこの方、目の前に現れた落下傘部隊(または堀内中佐)に関連する書物は両手両足の指だけでは足りないのではなかろうか。何となく、忘れた頃に未知の落下傘部隊本が現れるという感じがする。直近では鎌倉の脇田さんが(此処に紹介している)「堀内落下傘部隊長」という掌編(リポート)をメールで送ってくれた。短いが深みのある内容で一気に読んだ。

昭和17年1月11日、帝国海軍の陸戦隊が当時蘭印とよばれていたセレベス島(スラウェシ島)に進攻した。空挺部隊(落下傘部隊)の降下と水際上陸をうまく組み合わせた進攻作戦は順調に進んで、勝負は即日に決した。残敵掃討を入れても2,3日内に片付いて、300年余も続いたオランダの植民地支配は終了した。万歳を叫んだのは日本兵だけではない。誰よりも熱狂したのは地元住民であったはずだ。悔しさに泣いたのはオランダ王国の皆さんであった。

メナドを中心とする北セレべス一帯は帝国海軍の管理下に置かれることになるが、地域分担があって、トンダノ湖周辺のミナハサ高地一帯は、空からとび降りてきた堀内部隊がそのまま警備担当部隊となった。戦闘部隊である堀内部隊が占領地を警備するのは、もちろん治安が落ち着くまでの一時的な措置であった。

本書の書き出し日付は昭和17年3月3日、桃の節句となっている。1月11日、落下傘部隊の降下からまだ2か月もたっていない。ランゴワンの飛行場周辺はまだ硝煙の臭いが消えていないような時期である。日本軍は占領地統治の準備を整えて、すでにメナド市に民生部をかまえていたようだ。この掌編の執筆者川戸(角田)孟記も民生部の司政官として着任した。着任間もない川戸(角田)司政官は、たぶん着任の挨拶も兼ねてランゴワン駐留の落下傘部隊長堀内中佐を訪問することとなった。その時の堀内部隊長の様子や現地住民の様子に感銘を受け、驚きをもって記述したのがこのリポートということになるであろう。さらにその約1か月後の堀内部隊転出時の様子も書き添えられた。堀内中佐の肉声や現地住民の歓声が聞こえるような、非常に臨場感あふれる描写によって、私は82年前の現場に引きずり込まれた。

堀内部隊はランゴワンの集落で借り上げた一軒の民家を部隊本部とした。その本部に安置されていたのは、あとは本文を読んでいただければわかることであるが、武人堀内豊秋の本質はそこに集約されているのである。

北スラウェシ日本人会
長崎節夫



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