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北スラウェシで綿花栽培に挑んだ宮地貫道のこと

脇田清之


晩年の宮地貫道

戦前、還暦を過ぎてから北スラウェシで綿花の栽培に尽力し、また北スラウェシ在留邦人の子弟の教育のため、マナドに日本人学校を設立、運営に尽力した宮地貫道(本名:利雄、1872~1953)についてご紹介します。

宮地利雄は、明治5年(1872年)に土佐に生まれ、明治30年(1897年)に札幌農学校(北海道大学の前身)を卒業しました。丁度日清戦争(にっしんせんそう、 1894-1895)の終わったあとです。在学中には、新渡戸稲造の薫陶をうけています。

明治から大正期にかけて活躍した教育者・歌人、下田歌子の支援により明治35年(1902年)に上海に翻訳・出版を行う作新社を設立し、その社長として、数多くの和書を中国語に翻訳して出版するなど、日本と中国の架け橋として活躍しました。

また大正3年(1914年)、上海日日新聞を創刊し、上海における邦字三紙の一つとして、社主として自らも健筆を振るいました。

しかしその後、日中関係の悪化に伴い、日本の軍部からの圧力が高まったため、中国での活動を辞し、昭和9年(1934年)、還暦を期に上海日日新聞を退き、北スラウェシで農場を開き、本業の農学の技術を生かして棉花栽培を始めます。しかし太平洋戦争に入り綿花工場は米軍の爆撃を受けて灰燼に帰しました。

当時、南スラウェシが自転車の販売など個人企業が主体であったのに対し、北スラウェシには商社などが進出していました。昭和12年にはマナドに日本の領事館も開設されています。因みにマカッサルに領事館が出来たのは昭和16年、太平洋戦争勃発の直前でした。

1914 年(大正 3 年)から 1945 年(昭和 20 年)の日本敗戦まで、日本は南洋群島を約30 年間にわたり統治していました。北スラウェシは南洋群島と距離的に近く、日本との往来もパラオ経由の定期船が利用できました。マナドはインドネシア(当時の蘭印)の東の表玄関でした。

生い立ち

宮地貫道は土佐の宮司の家柄を継ぐ下級士族の家に生まれました。一時は軍人を目指し、日頃兵書を読み、戦略を研究するのが好きだったそうです。当時北海道では開拓事業が行われていて、本州から多数の移住民が送り込まれていました。貫道も一家の都合により札幌に移り住み、開拓事業の現場監督の役に就きました。

一般の人達より2~3年遅れますが、1897年に札幌農学校を卒業します。在学中に日清戦争(1894~1895)がありました。この大きな歴史の流れが貫道のその後の人生に大きな影響を与えたようです。

在学中は全期間を通して、当時教授を務めた新渡戸稲造の薫陶をうけました。因みに卒業論文は『北海道における亜麻作と気候および土壌の関係』でした。

日中の架け橋として

貫道は農学校を卒業してから、東京、上海へと拠点を移します。中国語を学び日・中翻訳事業にも関わっていたようです。1902年(明治35年)頃刊行された『政法類典』の共訳者となっています。

1902年に上海に翻訳・出版を行う作新社を設立し、その社長として、数多くの和書を中国語に翻訳し、出版しました。1914年には上海日日新聞を創刊し、上海における邦字三紙の一つとして、社主として、また自らも健筆を振いました。

1931年(昭和6年)9月には満州事変が、また1932年(昭和7年)には上海事件が勃発します。1931年1月19日の上海日日新聞には、貫道が陸戦隊で支那事情について講演した記事が掲載されています。日支(日本-中国)国民性の相違について、「日本は少しも支那を知らず、且つ知らないことすら知っていない・・・国家的に発達した日本は、個人的に発達した支那の国民性をよく諒解することが緊切である・・・」。意思疎通の難しさ、外交関係改善の方策などを説いています。

しかし戦況が進むにつれて、講演や新聞論説で主張した貫道の主張が国策と合わず、貫道は孤立を深めたようです。貫道の活動も妨害されるようになります。新聞論評の執筆を中止し、講演活動も止めていますが、軍部から何らかの指示があったのかも知れません。

セレベス(スラウェシ)島へ


当時のマナドの通りの風景

1934年(昭和9年)、すでに還暦を過ぎていた貫道は上海日日新聞を退き、農業技術者としての道を歩み始めます。セレベス島で農場を開き、棉花栽培を開始しました。セレベス島の農場で陸地棉の優良種を見出して、これを宮地棉と名づけました。宮地棉栽培の成功を基に『棉花国策』を自費出版するとともに、国内における棉花栽培の教育・普及活動に尽力しました。

貫道が棉作というテーマと出会った経緯は「ふとした因縁」としか述べられていません。貫道はセレベス島やニューギニア島で、元来熱帯植物である棉花を栽培することを考えたようです。おそらくは札幌農学校における亜麻栽培に関する卒業研究の経験も、この課題に着手する動機となったものと思われます。

現代は、木棉(もめん)、羊毛、麻、絹などの天然繊維のほかに、ナイロン、アクリル、ポリエチレン、ポリプロピレン、ポリエステルなど石油原料の多様な人工繊維が溢れているので想像しにくいですが、これらの人工繊維がなかった当時、棉は非常に重要な位置を占めていました。

1933年(昭和8年)後半から貫道は南洋進出の準備を始め、2名の先発隊を北セレベスに送り出し、1934年(昭和9年)2月には自ら現地に赴きました。横浜を発ってから、サイパン島、テニアン島、ヤップ島、パラオ島を経由して17日後にセレベス島北部のマナド港に到着します。マナドはインドネシアでは地理的に日本に一番近い港です。

このときの事情が外務省調査部の資料『セレベス島産業振興策』として残されています(1934年12月、国会図書館蔵)。当時の日本は、世界有数の紡績・綿業国でしたが、国内では原料棉を供給できず、専ら米国や印度からの輸入に頼っていました。実際に棉花の輸入額は、日本の全輸入品総額の三分の一を占めていましたが、国際情勢の悪化により、その輸入価格の高騰が見込まれていたのです。

一方、当時のセレベス島は、主産物のコプラ(椰子胚乳の乾燥物、コプラ油の原料)やひまし油の価格大暴落によって、不況に喘いでいました。

レンベ島とレンベ海峡を隔てた島陰、ビトゥン東部に約三百町歩(約300 ha)の未開地を、10年契約で中国人から借り受けることができました。ここで棉作を進めることとして、2ヵ月間滞在して開墾事業を開始しました。

この場所で若干の棉花種を栽培したところ、初年度にして米棉種で良好な棉花が得られ、明るい見通しが得らました。


ビトゥン農園における綿作の風景


 ビトゥン農園における宮地貫道(左)

貫道が1934年8月に再渡航して収穫した試料を日本に持ち帰り、豊田紡績工場で糸に紡いだ結果、40番手の(細い)糸が得られ、繊維は米棉よりやや細く、米棉以上の収量が得られるという有望な見通しが得られました。

この結果を現地の蘭印の官憲に報告したところ、「協力する」との方針が内示されて、事業化の見通しが得られました。最初は懐疑的であった現地人も、男女ともに数多くが応募してきて、低廉な賃金で大量の労働力が確保されたそうです。

ビトゥンでの綿作への挑戦

貫道によると、熱帯地における棉作では、害虫を避けることができず、最初から殺虫準備をしておくことが重要とのことです。新たに開拓した地での初年度の棉作では、熱帯地特有の害虫被害がほとんどありませんでしたが、二年目からは害虫の被害がひどくなります。これは外部から侵入する害虫のほかに、初年度の樹幹・枝葉などに宿った害虫の卵が翌年に繁殖するためであり、収穫後の棉樹を悉く焼却すること、種子の消毒をすること、害虫が小さいうちに殺虫剤を散布することなどにより、累年する虫害を防がなければならないようです。

実際、ビトゥンではこれを実施することにより虫害を防ぐことができました。貫道はブラジルでの棉作者の言を引用して、「虫害は棉作事業者の怠慢により起こる」と注意を促していました。

2年後の1936年(昭和11年)には、収穫量の多い陸地棉の優良品種が得られ、その種子を大量に産出することに成功しました。これを最初は「ビトン棉」と呼びましたが、後に「宮地棉」と名づけます。

この品種は繊維が細長で強靱であり、紡績業者から高い評価を得ました。このように短期間で優良品種を得たのは、米棉から得られた種子のうちから、良好な形質のものを選び出して、良好な環境で栽培を行ったことによるものと思われます。

貫道は、この宮地棉の種子を日本へ持ち帰り、国内の希望者に無料配布しました。これを栽培するために、東京・調布に棉作地を併設する宮地棉作講習所を開設して、自らも国内で試作を進めるとともに、棉作教育を始めました。

二葉商会・柳井氏との出会い

セレベス島における綿花栽培プロジェクトの推進に当たっては、初期段階から南洋拓殖株式会社(略称:南拓)系列の二葉商会(社長:柳井稔)との良好な協力関係がありました。

柳井は1928年に南洋開拓の夢を抱いて、夫人とともにメナドにわたって二葉照会を設立し、社員3名でコプラ、コーヒーを中心に貿易事業を広げ、雑貨の輸入や、メナドの南約20キロにあるトンダノ郊外のシンドラン農園でコーヒー栽培も手がけていました。

当時、柳井はセレベス産業協会会員、メナド商業会議所副会頭などを務めていました。セレベス島での経験の浅い貫道にとって、柳井は心強いパートナーだったようです。

メナド小学校校長として

1937年(昭和12年)頃のマナドの状況が、1939年(昭和14年)8月、南洋庁長官官房調査課発行の『ミナハサ事情』(国会図書館蔵)に残されています。これによれば、メナドの面積は約15,000平方キロメートル、当時の人口は約38万人、ほとんどが現地人です。外国人は中国人が約1万人、オランダ人が約2,500人、日本人が372人、その他東洋人が約1,000人でした。セレベス島には日本から女性の移住がなかったこともあり、現地には混血児(日系人)が多かったようです。そして彼らには教育が施されていませんでした。

メナドでは、日本人会(会員数191名)の事業として、1935年(昭和10年)より小学校が経営され、貫道はこの小学校の校長を務めます。1936年(昭和11年)に外務省より建築費として2,500円、教育費として600円の補助金を受けて、貫道の借地一町歩(9,917.36 ㎡)の中に校舎が建築され、1937年(昭和12年)に完成しました。これら当時の記録が外務省の外交史料館に残されています。


建築中の日本人学校校舎

「ミナハサ事情について(2)第10章 在留邦⼈および邦⼈拓殖事業の現況」には次のように書かれています。

第10章 在留邦⼈および邦⼈拓殖事業の現況

左に昭和13年8⽉調べによるメナド在留邦⼈名簿を掲げる。 本会(メナド⽇本⼈会)の事業としては現在、⼩学校を経営している。校舎は邦⼈・宮地貫道⽒の借地⼀町歩中に建築し、昭和11年、外務省より建築費として2,500円、教育費とし て600円の補助を受けた。⽇本⼈⼩学校の概略は次のとおりである。

校長  宮地 貫道    上海日々新聞社長兼棉作業
主任  上野 訓導    ⼀灯園托鉢⽣ 無給
助⼿  山田やす子    女子大出

児童  19名。内6名は学校に寄宿


 メナド日本人小学校開校式の写真と思われます

一燈園は1904(明治37)年、西田天香によって創始された団体です。一燈園の托鉢生がここで教育に従事していたことは、北海道開拓時代からの同志であった貫道と天香との深い絆を感じます。一燈園宣光社の主旨から、校長の貫道も無俸給であったと思われます。経費は日本人会および外務省から毎月一定額が支出されていました。児童の大多数は現地人を母とし、ほとんど日本語を解さないため、教育上、また財政の面でも難しさがありました。そこで貫道は一部の優良児を日本へ送り,将来の現地教育担当者として育成することを目指しました。


日本の学校へ送られたセレベスの児童達 

ゴロンタロに綿花工場建設、その後空襲で焼失

1939年(昭和14年)貫道は二葉商会に対して、宮地棉原種の使用権、有形財産、それまで6年間に開拓した栽培地(借地権?)を委譲しました。委譲の条件として原種の使用を求めていて、この熱帯の棉作地が(内地に対する)優良な種子の供給地として機能し続けるように配慮しています。

その後、貫道はセレベス・本邦間を往復しつつ、国内各地に宮地棉種子を配布して棉花の栽培・教育を始めます。

二葉商会はメナドの西200キロにあるゴロンタロに棉花工場を建設し、日本向けの棉花輸出拠点としましたが、後に米軍の空襲で焼失して総てが灰燼に帰しました。

二葉商会の柳井稔は、太平洋戦争勃発後は日本海軍に協力し、一時期メナド市長を務めましたが、日本敗戦後、1947年3月17日、BC級戦犯としてメナドで処刑されました。

終わりに

本稿は、木村達也著『宮地貫道伝 -信念と気骨の明治人-』(2018年9月発行、全138頁)の一部を、著者の許可を頂いて抜き書き編集したものです。本稿では割愛させていただきましたが、日本における女子教育の先駆者であった下田歌子、池袋に亡命中だった孫文や蒋介石らとの交流、当時の対支国策論など見どころが多いです。

この本は、Amazon や三省堂書店よりオンデマンド出版で入手できます。

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