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長崎 節夫 Nagasaki Setsuo
去った5⽉、鎌倉在住の脇⽥清之さんを通じて、オーストラリア在住の柳井佐代⼦様からメールの連絡が⼊りました。要旨は以下のとおりです。
柳井さんの祖⽗・柳井稔⽒は太平洋戦争以前からメナドを拠点に商社活動をされて、 開戦と同時に海軍軍属として徴⽤され、⽇本軍占領中のメナドで⼀時はメナド市⻑を務めた。敗戦と同時に連合軍に拘留され、いわゆるメナド軍事法廷(オランダ管轄)で死刑判決を受けてメナドで銃殺刑に処せられた。その後遺⾻は遺族の元にはもどっ ていない(どこにあるのかわからない)。柳井稔の孫である私はようやく⼦育ても終わって時間に余裕もできたので、今回、祖⽗の⾜跡を訪ねて歩いてみたい。
その後、柳井佐代⼦さんから柳井稔関連資料(おもに、戦前の⼆葉商会、戦中の南洋拓殖関連の資料)や、稔⽒が内地のご家族にあてた⼿紙や写真などが脇⽥さん経由で送られてきました。また、脇⽥さん⾃⾝がネットで発掘した関連資料も追加されました。
さらに、メナド在住の本会会員中村さんが得意技を発揮して、メナドやその近郊の
戦前の写真など、⼤変貴重な関連資料を何点かネットで⾒つけ出しました。
このように、準備万端とは⾔えないまでもある程度の予備知識ができたところに、
柳井さんがご主⼈同伴でメナドにやってまいりました。
柳井さんと私たち(中村、⻑崎)が待ち合わせ初対⾯した場所は、メナド市役所前
の広場の横⼿にある Ananas という名のパン屋(兼・軽⾷レストラン)でした。ここ
の敷地は昔の在メナド⽇本国領事館の跡です。すぐ横には柳井稔⽒の住居がそのまま
の形で残っています。
80年前(蘭印時代)に祖⽗⺟が建て佐代⼦さんの⽗親もそこで⽣まれたという旧
柳井家を⾒つけることが、今回の旅のメインテーマだということは聞いていました。
しかし、当初はその場所がなかなか⾒つかりませんでした。
佐代⼦さんの祖⺟(稔の妻)が戦後30年ほど経ってから、昔の⼆葉商会の関係者
と共にメナドを訪問したそうです。そのときに書かれた⼿記に「ティカラの家を訪ねた」という記述があって、家がティカラ地区にあったということはわかりました。しかし、最後の訪問からでもすでに40年経過しています。40年前と今ではティカラ
地区も⼤きく様変わりしているはずです。柳井家はまだ残っているというより、取り壊されて別の家が建っている確率のほうが⼤きいでしょう。
探す⼿がかりとしては、上記の祖⺟(柳井稔⽒ご婦⼈)の⼿記のほかに、佐代⼦さ
んが祖⽗柳井稔について記した⼀⽂があって、その中に昔の写真がありました。室内
(応接間)でのご家族や会社(⼆葉商会)関係者との記念写真、庭で家を背景にした
写真など数枚ほどです。
私はほとんど諦めていましたが、中村さんはグーグルアースの映像で現在のティカ
ラ地区の住宅をしらみつぶしに古い写真と照合したようです。ある⽇「柳井家が⾒つかった」と地図つきでメールが⼊りました。佐代⼦さんがメナドに⼊る直前のタイミ
ングでした。現在のグーグルアースに写るある家と、古い記念写真の家の特徴(家の
外形とか窓の配置、窓枠上部の空気抜き等)が⼀致している家があるとのことです。
そういうことで、この旧柳井家らしい家の近くのパン屋兼軽⾷レストランを柳井さ
んとの最初の待ち合わせ場所としたわけです。パン屋さんで初対⾯の挨拶と軽い雑談のあと、柳井家と思われる家の前まで⾏きました。徒歩で1分もかかりません。道路から家の様⼦をうかがうと、空き家ではないようですが⼈の気配がしません。佐代⼦
さんと中村夫⼈が庭に⼊って声をかけると、50 歳くらいのミナハサ⼈らしいご婦⼈
がでてきて、快く招き⼊れてくれました。
あらためて佐代⼦さん所持の古い写真と家の内部を照合してみると確かに同じ家です。
昨年(2016年)85歳で亡くなられた佐代⼦さんの⽗親がこの家でうまれたそうですから、建てられてから86年以上を経過している勘定ですが、内そと共に古い
記念写真そのままです。こういうこともあるのかと、少し驚きました。われわれも古
い記念写真と同じアングルで記念の写真を撮りました。
祖⽗・柳井稔が植えたという庭のマンゴの⽊も樹齢相応の⼤⽊になっています。家
の内外が80年以上も前と変わらない状態で残されていることに少なからず感激しましたが、佐代⼦さんご本⼈の感慨はまたひとしおであったことでしょう。佐代⼦さ
んは戦後の⽣まれですからナマの祖⽗とは接していません。この場所に来るのも初めてです。しかし、彼⼥はこの家で祖⽗の体温をしっかり感じたはずです。
※ グーグルストリートビューの画像と、当時の写真で、家の構造物の(縦⽅向の)⽐率をコンピュータで虱潰しに⽐較・照合するという⼿法で発⾒に⾄りました。(中村) ※元柳井邸は、戦後、軍施設(官舎)となっており、幹部の⾃宅兼事務所として使われているようです。その関係で、写真などを公開することが出来ず残念ですが、⼀⽅で国の所有物となったため現在まで残っていたのであろうと思います。内部の作りも、 本当に当時の写真と同じままです。しかし、当時の写真で壁にかかっている絵画など 内装品は、数年前のマナド⼤洪⽔の時まで実際に写真と同じものが、あったそうですが、洪⽔で無くなってしまったという事です。あと数年前に訪れていれば・・・とこの点は、残念です。(中村)
柳井稔⽒を含むメナドの戦犯刑死者の処刑場がどこであるか、⼿元に届いたいくつ
かの資料では単に「広場で、ヤシの⽊にくくられて」と、つかみどころのないものば
かりでした。
柳井⽒の処刑(銃殺)は1947年、ちょうど70年前のできごとです。⽬撃者が
⽣存していることも考えられません。私の⾝のまわりの⾼齢者で当時のことを知って
いるかも知れない⼈といえば、⼤岩富さんです。しかし、70年前といえば富さんは
まだ⽇本に滞在中です。半分以上はあてにしないで処刑場の事を尋ねてみました。
富さんは太平洋戦争開始直前(10歳のとき)、⽇本を取り巻く情勢が険悪になってきたのを⼼配した⽗親によって⽇本に帰されました。緊急避難です。そのころ、メ
ナド在住の⽇本⼈の家族はほとんど帰国しています。富少年より少し先に、柳井稔⽒
のご家族(奥さんと⼦供、つまり佐代⼦さんの祖⺟と⽗親)も帰国しています。(*
このことは、佐代⼦さんから提供された稔⽒の⼿紙資料でわかりました)
さて、⽇⽶開戦直前に⽇本に渡った富少年は敗戦後しばらくしてからメナドに戻りま
した。1952年、10年ぶりです。オランダとの独⽴戦争も⼀段落して世の中が少し落ち着いてきた時期です。
トミさんは⽇本軍のメナド占領中も、メナドで⽇本⼈が戦犯処刑されたときも⽇本に住んでいます。その彼がなぜ処刑場を知っていたかというと。
当時、⼤岩家はトンダノ川がメナド湾にそそぐ河⼝の近くにありました(今でも⼀
族が住んでいる)。メナドに戻ったばかりの富さんは、ある⽇思い⽴ってティカラ地区に住んでいた幼馴染を訪ねようとしました。⾃転⾞でティカラ地区にさしかかると、
歩いていた⾒知らぬおじさんに声をかけられました。おじさんはいきなり、「⽇本の
トゥアンたちがここで銃殺された。髭のトゥアンもここでやられた」と、そばの原っ
ぱを指さしたそうです。ヒゲのトゥアンというのはたぶん落下傘部隊の堀内⼤佐とのことです。
しかし、どこの誰とも知らないおじさんが何故、トミさんを⾒ていきなり、「⽇本⼈がここでやられた」といったのだろうか。わたしの疑問に対する富さんの答は「⽇
本から帰ってきたばかりで、たぶん⾊もまだ⽩く、⽇本⼈にみえたのではないか」ということでした。戦前・戦中と、メナドにはかなりの⽇本⼈が住んでいたわけですから、そのおじさんも⽇本⼈を⾒慣れていて、富さんの姿かたちから⽇本⼈の匂いだか
雰囲気だかを感じ取ったと思われます。
富さんの不思議な体験が、70年後の今、貴重な証⾔となってとびだしたというこ
とになります。⽇本⼈戦犯の処刑場がどこにあったかと問う私に、「メナド市役所前
の広場の横」と即答してくれました。翌⽇、さっそくその現場まで同⾏していただき
ました。(ビトゥンから⾞で2時間もかかります。富さんごめんなさい)。あの⼀帯は
私もこれまでに何度も通っていますが、70年前の惨劇の跡であるとは夢にもおもい
ません。跡地には図書館、学校などいくつかの建物が建っていて、昔、原っぱであっ
たという姿は⽚鱗も⾒えません。その⾓地には図書館だという建物が建っています。
そうとわかればあの建物の外壁の真っ⾚な塗装は、処刑された⽅々の⾎の⾊であったかと納得できました。
あの⾚い建物は、当事者(役所)はそれと知らずに建てたわけでしょうが、あれは
⽇本⼈刑死者27名の慰霊碑であると思います。
会員の皆さん、そばを通りかかるときは⼀瞬でいいですから合掌しましょう。
柳井家跡と処刑場跡の概略図
また、参考までに次ページに(まだオランダ統治中)昭和 14 年当時のメナド市内 と⽇本⼈の住居を⽰した地図を「ミナハサ事情/南洋庁⻑官々房調査課編(1939 年出 版)」より引⽤しました。 この図書は、国会図書館にも所蔵されオンラインで閲覧可能(2017 年 8 ⽉現在) です。当時の⽇本⼈の活動やミナハサ地域(北スラウェシ)のことが良く書かれており、⼤変貴重な資料です。
ティカラ地区の処刑現場からテーリン墓地にむかいました。刑死者の遺体は近くの
テーリン墓地に葬られたといくつかの⼿記に⾒えます。処刑現場から⾞で10分、真
昼の炎天下のテーリン墓地につきましたが、70年前に刑死者の遺体がこの墓地のど
こに埋められたか、全く⼿がかりはありません。この⽇は、墓地内にある堀内⼤佐の
墓の跡に⼿を合わせただけで引き揚げました。(後⽇、佐代⼦さん、中村さんと共に
線⾹を持参して、この墓地のどこかに眠っているかも知れない刑死者⽒の霊に線⾹と
たばこ、ジュース、ヤシ酒を供えた)
「眠っているかも知れない」と書いたのは、処刑されたあとの遺体がここまで運ば
れたことはほぼ間違いないのですが、そのあと遺⾻がどうなったかわからないからです。しかし、遺⾻が仮に⽇本に還っているとしても、この墓地の⼟は刑死者の⾎が染
みているのですから、遺⾻の在りかがわからない以上、柳井稔⽒(ほか20数名の)
お墓はここだ、と⾔っても間違っているとは⾔えないでしょう。
ある記録によると、⽇本⼈刑死者の遺骸はこの墓地に葬られたあと、遺⾻はあとで
掘り出されて墓地内に適当にばらまかれたとあります。もともとキリスト教徒の墓地
であるテーリン墓地は埋葬式で、狭い⽤地がすぐいっぱいになります。無縁墓とみる
とすぐに取り除かれて新しい墓をこしらえてしまいます。地元の住⺠でもない⽇本⼈
戦犯刑死者が埋葬されていて管理者もいないわけですから、墓⽤地の欲しい⼈に真っ
先に⽬をつけられても不思議ではありません。「遺⾻がばらまかれた」ということは、
⼗分にあり得ることです。
しかし、そのなかで堀内⼤佐の場合は事情が違っているようです。 埋葬された遺骸(または遺⾻)をばらまかれる前に、⽣前の⼤佐と⾯識のあったある地元⺠が⼤佐の墓をこしらえて遺⾻を移した。(あるいは、⾯識はないが⼤佐の⼈徳を伝え聞いていた⼈物が、ということかも知れません。)その後、遺⾻は無事に⽇本の遺族がもち還ったそうです
堀内⼤佐の墓の跡は今も残っていますが、管理する者もなく荒れ放題で、正⾯に新
たに誰かの墓が造られ、正⾯⽞関を塞がれた状態になっています。遺⾻はすでに⽇本
に還っているわけですからもはやお墓でもないといえばそれまでですが。
(*本稿では気軽に「刑死者」と書いていますが、戦犯刑死は正式には「法務死」と
いうそうです。戦に負けたために勝った相⼿から適当に犯罪⼈として指名され、弁護
も思うようにできない適当な裁判で簡単に銃殺とか無期とか判決されるわけですか
ら、「戦犯」とか「刑死」とか本来使⽤すべきではないと思います。しかし、「法務死」
と⾔われても、いかにも六法全書的な⾔葉でわれわれ庶⺠の⽣活からかけ離れた感じ
がします。故にあえて、「刑死」と書いています。)
⼿元に、ある⼿記のコピーがあります。
題名は「⼤崎⼤佐の思い出」、筆者は元興南組・⾦⼦啓蔵。経歴はよくわかりません。
(前略)
戦後18年もたった昭和38年と39年の2回にわたって、私はマカッサルとメナドにある⽇本⼈戦犯処刑者の墓地探しに⽇本⼈としてはじめて単⾝乗り込んだ。
(中略)
⼤崎⼤佐が特別弁護されたメナド関係27柱は郊外テーリンのキリスト教徒の墓地内のブロックオランジャパン(*⽇本⼈区画)に埋葬されていた。背丈ほどもある
ララン草を刈りとらすと31柱の盛り⼟が⾒つかった。四柱は⽇本軍に協⼒して処刑
された現地⼈であることも判明し、墓地中央に⿊檀で墓碑をつくり、各墓ごとに番号
をつけた墓標は後⽇の遺⾻収集に備えたものであった。
(中略)
昭和40年1⽉、第3次訪イは厚⽣省遺⾻収集団に参加、マカッサル、メナドの62
柱の収容にあたった。
(後略)
これによると、メナド・テーリン墓地の27柱の遺⾻は無事⽇本に還ったことにな
っています。しかし現時点で私が知っている限りでは、遺族のもとに還ったと⾔われ
ているのは堀内⼤佐の1柱だけのようです。それも帰還のいきさつは⾦⼦⽒の⼿記とは違うストーリーになっています。
現在、柳井稔⽒の遺⾻はどこにあるのかわかりません。ほかの25柱もどうなっているでしょうか。
⿅児島県屋久島出⾝。海軍軍属(元・⼤岩漁業) 昭和17年現地⼥性と結婚しビトゥン在住。男⼦⼆⼈あり。 昭和21年11⽉6⽇死刑求刑。11⽉25⽇判決死刑。昭和22年3⽉17⽇銃殺。
遺書
私は⿅児島県のとある沖縄近くの⼩さな島でうまれた。 12歳のとき、⽗⺟や兄弟、そして故郷と別れ、船乗りの修⾏に出た。 1925年(⼤正14年)9⽉17歳のとき沖縄⼈とともにミナハサ半島に わたり、戦争開始まであっちこっち航海してまわった。 船乗りの稼業のほかには何も知らなかったので、戦争になると私は徴⽤されて、 やがて特警隊(特別警務隊)の通訳になった。 任務に従っている間、私は何らの特権を持っていたわけではなく、特警隊の通弁や、彼らの仕事を助けることをしただけである。 私はただ被使⽤⼈として彼らのために働き、彼らの命令を聞いたりした。 私のは、これといって私にふさわしい仕事ではなく、ただ私は⾒たり聞いたり 命令にしたがっただけなのです。 ⾃分の意志に反しても命令に従わなくてはならなかった。 私は⽣来このような中で働いていくにはふさわしい⼈間ではありませんでした。 今、私はこの世を去ろうとしている。 この最後のときにあたって、私も、私のかつての⾏為のなかに例えどんな ⼤きな過ちが犯されていたとしても、この世を去ろうとしている私のために 許していただきたいと思う。 そして、罪なき⼀⼈の普通⼈として私を記憶していただきたい。 そうしてくれたら私は永遠の天国へ安らかに帰っていくことができるでしょう。 尊敬するあなた⽅に永遠の決別の⾔葉を捧げるとともに、深甚の感謝の意を 表する。 神様、希くば私の願いと祈りを聞き⼊れたまえ。 わが魂を清めることによってそれに答えたまえ。
昭和3年、南洋開拓の夢を抱いて夫⼈とともにメナドに⼊り⼆葉商会を設⽴。
昭和10年に⼆葉商会は国策会社である「南洋拓殖会社」と合併、
柳井はメナド⽀店⻑となる。
昭和17年の⽇本軍メナド進駐以降は海軍第8警備隊司令部付きとして軍政に協⼒、昭和18年メナド市⻑を務める。
敗戦の1か⽉後昭和20年9⽉連合軍(豪軍)に捕らわれモロタイ島にて収容され、
昭和21年ふたたびメナドにもどされてオランダ軍軍事法廷にひきだされた。
昭和21年10⽉31⽇死刑求刑、同11⽉13⽇死刑判決、
翌、昭和22年3⽉17⽇銃殺。
前記の⽥畑盛順と同⽇の執⾏であった。
遺書
柳井千代殿
明後17⽇死刑を執⾏せらるる予定。これも運命なり。然し⼩⽣の⼀⽣を通じて南⽅進出を策し、国策また、国運を賭して南⽅作戦に従いついに敗れたり。
国家と運命をともにしてセレベスの⼟となる。⼩⽣のもって満⾜するところなり。
⼩⽣死後、⼦供の教育に任ぜられる貴⼥の御⼼労を深く謝すとともに、この⽗の分
をも愛せられ、⼦供四⼈只々新⽇本有⽤の⼈物たらしめん事を切望す。
辞世
冬すぎて 春うららかや 死出の旅
散らばとて 惜しくもあらぬ 姥桜
ただ ⼼にのこる 吾⼦のことども
海軍⼤佐。開戦へき頭の昭和17年1⽉、落下傘部隊を率いてランゴワン⾶⾏場に
降下し、オランダの守備隊を駆逐した(当時中佐)。昭和20年の敗戦時には⽇本にいたが、連合軍により呼びだされ、メナドのオランダ軍事法廷に送られた。
軍事法廷の裁判⻑は堀内部隊によって駆除されたランゴワン守備隊の隊⻑であった。
遺書
9⽉23⽇、突然死刑執⾏の通知を受け、25⽇午前8時に執⾏されることとなった。
在世中は真に幸福な⽣活だった。
執⾏の⽇まで刑務所内でも多くのオランダ⼈の尊敬を受け、何ものかを残した。
⼀誠よ、その他の⼦供達よ、⽗は国家の犠牲となって散るのだ。
櫻花よりも清く、少しの不安もない。
兄弟⼒を併せ、⺟親に孝養を尽くしてくれ。
⼈を頼ってはならない。あくまで清く正しい⽣活をなせ。
死に臨んで少しの不安もないのは、⼩⽣の過去の清らかな⽣活がさせるものと信ずる。
不幸な妻よ。⼦供よ。
⽗はなくとの決して⾃暴⾃棄することなかれ。
部下の散ったメナドで⽩菊の花の如く美しい態度で散るのだ。
年取った⺟上様。どうか先⽴つ因縁をお許しください。
兄上様、くれぐれも後に残された家族の⾏く末をお願い申しあげます。
千鶴殿、永い間お世話になった。
可寿殿、⼀⽣の内助、感謝しつつ逝く。
親戚の皆様ご機嫌よう。
⼈は⾃分を信じ努⼒すれば偉くなれる。
⾃分の死は⾒守る⼈もいないが
もう⼆⼈の⽇本⼈将校がのこっているが、これも遠からず執⾏されるだろう。
世に思い残すことは少しもありません。
堀内豊秋
堀内家ご⼀同様
⼆伸
これは通知を受けた⽇、オランダ将校に頼んで書いた。
オランダ将校も⾃分の態度にすっかり感⼼した様⼦だった。
故にこれを送ってくれるのだ。
この⼀事を以っても、⾃分が⽇本⼈将校として恥ずかしくなかったことを想像して
いただきたい。
神ぞ知る 罪なき罪に果つるとも ⽣き残るらむ⼤和魂
⽩菊の⾹りを残し死出の旅 つわもの後われは追いたり
以上三通の遺書はいずれも戦犯刑死者の遺書を収録した「世紀の遺書」からの孫引きです。
⽥畑盛順はビトゥンの⼤岩漁業の漁師、柳井稔はメナドに会社を構えたビジネスマ
ン、堀内豊秋は根っからの職業軍⼈。三者三様、それぞれの⼈⽣があったはずですが、
運命のいたずらで同じ刑場の露と消えました。
3通の遺書から三者それぞれの⼼境が浮かび上がってきます。柳井⽒は⽇本⼈としてお国のために頑張った、思い遺すことは何もない、と⾔いながらもやはり⼦供たちのことが気になります。堀内⼤佐も、⽇本の軍⼈として誠⼼誠意お国のために尽くした、あとは武⼠として⽴派に死ぬだけだと悟りきっています。
ちょっと変わった感じを受けるのは⽥畑盛順⽒です。⼦供のころから漁師として育
って、何となくミナハサ半島までやってきた。ビトゥンで妻⼦も得て、⽇曜⽇には教会に通うような平穏な⽣活を続けていた。急にオランダとの戦争がはじまって、⽇本軍がやってきて通訳として徴⽤され、わけもわからず慣れない仕事を頑張っているうちに、イクサに負けて銃殺ということになってしまった。何が何だかわけがわからな
い。こうなった以上、せめて天国にいけるように神様にお願いするしかない。というところでしょうか。
インドネシアにおいて戦犯裁判はメナドだけではなくマカッサル、バリックパパン、
ジャカルタ、アンボンその他、おもは都市部で開かれました。もちろんインドネシア
だけでなくフィリピン、シンガポールなど、およそ⽇本軍が⾜をかけた国ほとんどで開廷されました。東京の A 級戦犯裁判もその⼀つです。
もっともらしく「裁判」と称していても、「勝った者が負けた者を裁く」というの
が真相ですから、裁く側には少なからず「報復」あるいは「懲らしめ」の意志がはた
らいています。戦犯裁判とは、私たちが常識として知っている裁判とは全く別の、戦
勝祝いみたいなイベントだというのがホントの姿でしょう。
「勝った者が負けた者を裁く」と書きましたが、メナドの戦犯裁判はまたひとひねりひねくれて「負けた者が勝った者を裁く」という特異な形になっていました。
北スラウェシで戦闘に勝ったのは⽇本軍で負けたのはオランダ軍です。初期のメナド
攻略戦で負けたあと終戦まで、北スラウェシで地上での戦闘はなかったわけですから、
オランダは負けたまま、駆逐されたままで終わっています。終戦(⽇本の敗戦まで)
オランダ軍が北スラウェシに現れることはありませんでした。
勝ち戦の主役を演じたのが堀内豊秋中佐(当時)と彼の部下たちです。彼らは舞台
登場も華々しく、なんと空から敵の待ち受けるランゴワン⾶⾏場に舞い降りてきまし
た。多⼤の犠牲をだしながらもなんとかオランダ軍を制圧しました。前記堀内⼤佐の
辞世の句、「つわもののあと我は追いたり」、というのは、この時の戦闘で戦死した副
官ほか多くの部下のあとを私も追う、という意味です。
堀内部隊はオランダ守備隊を駆除したあと周辺集落の統治にかかるわけですが、は
じめ、怖がって逃げ散っていた住⺠は、⼤佐の巧みなそして誠意ある誘導によって
徐々にもどってきました。
それから3か⽉、堀内部隊は次期作戦でチモールに移動するのですが、この出発の⽇が舞台や映画でいえば涙のクライマックスです。ランゴワン周辺の住⺠がメナドの
船着き場までトラックや徒歩で降りてきて(60キロもあるのです)住⺠⾃作の惜別
の唄を合唱し、堀内部隊⻑と涙の別れとなりました。
このような、⽇本軍の主役というかヒーローというか、占領地の住⺠が泣いて別れ
を惜しんだという軍⼈を、負けて追い散らされたオランダの軍⼈が裁くといのは、⼦
供でも茶番としか思わないでしょう。銃殺の判決ははじめから決まっているようなも
のです。
開廷時期 1946 年10⽉30⽇〜1948年5⽉28⽇
裁判件数 ( )
判決
銃殺 27名(現地住⺠4名を除く)
無期 1名
有期 21名
合計 49名(軍⼈38名 ⺠間⼈11名)
*⺠間⼈11名のうち銃殺刑となった者8名)
戦犯として裁判にかけられた⽇本⼈⺠間⼈11名のうち、ビトゥンに在った東イン
ド⽔産(旧⼤岩漁業)の関係者が4⼈います。4⼈のうち、銃殺2名、無期1名、有
期1名(20年)。いずれも海軍軍属として主に通訳の業務にあたっていました。
4⼈のなかに⽥畑盛順(銃殺)、出盛康儀(無期)という沖縄系の姓があります。
そして、ビトゥンの⽇本⼈墓地に、⽥畑並正 昭和14年8⽉28⽇歿 1歳、Y.
IDEMORI 昭和14年没 1歳、という⼆つの墓碑があります。Y. IDEMORI が出盛康⼦であることは別の資料でわかっています。ふたりとも縁者はわかりません。
⽥畑盛順はビトゥンで妻帯、⼦供もいたことは裁判の記録にも残っています。出盛
康儀と出盛康⼦、親⼦である確率は⾼いでしょう。
盛順は遺書からもわかるとおり12歳で故郷をはなれて南洋暮らしです。おそらく
⽇本に縁者がいても彼の存在は忘れられています。もちろんお墓などないでしょう。
康儀もほぼ似たような状況だと思います。ビトゥンまたは近郊に彼らの妻⼦、縁者が
いないだろうか。この2柱の⼦供の墓はおそらく⽗親がこしらえたお墓です ⽥畑盛
順⽒も出盛康儀⽒も、せめて⽇本⼈墓地で⼦供のそばに、あるいは⼀緒に休んでいた
だこうかと考えています。
本稿の執筆中にこのこと(⽇本⼈墓地の⼦供の墓碑とメナド戦犯裁判の犠牲者との関連)に気づきました。(完)
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