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大航海時代とマルクの島々

  

北スラウェシ日本人会
長崎節夫

1 私にとっての大航海時代

大航海時代(発見の時代)とはどのような時代であったか。遠い昔、中学や高校の教室で勉強したという記憶はあるが、あれから半世紀も経ってみればそれこそ歴史の彼方のできごとで、教室で何を勉強したのか思い出せることは一つもない。

私自身は昭和の終わりごろからジャカルタに出入りするようになって、インドネシアとのかかわりが始まった。ジャカルタやその近郊の町は、雑然とした中にもオランダ植民地時代の建物や遺構がよく残されている。特にコタ駅(北ジャカルタ)の周辺やパサルイカン周辺は、地域全体を歴史遺構として残してもらいたいと思うほど、植民地時代の建物が残っていた。パサルイカンのある「ムアラカラン港」は、今は国内航路専用になっているがオランダ植民地時代はジャカルタ(バタビア)の表玄関となる国際港で、平戸や長崎に来たオランダ船はほとんどすべてがこの港を発着していた。

平戸から強制送還されたお春さんもこの港で降ろされた。パサルイカンのすぐそばにオランダ時代の港務所の監視塔が完全な形で残っていた。たぶん、まだあるだろう。平戸から来たお春さんはこの近辺に住んでいたというから、ときどきはこのタワーを見て遠い故郷を偲んでいたにちがいない。

ジャカルタでオランダ植民地時代の名残りを垣間見て、そのあとインド洋を西に移動してモーリシャス島(旧イギリス植民地、現在は独立国)、とレユニオン島(フランスの海外県)に行った。

両島はマダガスカル島の東隣りにあるが、アフリカ南端を迂回してインド洋をスンダ海峡に向かう航路線にちかい。つまり、アフリカ南端・喜望峰を迂回してジャワ島に向かう船はモーリシャス島やレユニオン島に接近して航海する。油断すれば二つの島のどちらかに衝突する可能性もある。数年前に日本の船会社が所有する貨物船がモーリシャス島南岸に座礁しテレビニュースで大きく報道されていた。両島は所在地がインド洋航路に近いために大航海時代から事故があったり領有権でもめたり、それなりの歴史をもっている。いろいろエピソードもあるが、話せば長くなるので省略する。

ふたたびインドネシアに舞い戻り、20世紀も残り少なくなった1995年頃からスラウェシ島の北東端にあるビトゥンの港に出入りするようになった。ビトゥン港はスラウェシ島北東部・ミナハサ半島の先端に近い。半島の東方はマルク海でマルク海の向こう側はハルマヘラ島である。半島の北方・西方はセレベス海である。ミナハサ半島先端から北に向かってサンギル諸島が点々と連なって、それをたどるとフィリピン・ミンダナオ島の南端・サランガ二岬に行き当たる。サンギル諸島の主島はサンギル島である。

諸島のなかで最も標高の高い島はシアウ島で、標高1800m。火山島で、ときどき思い出したように噴煙を吐いている。パラ(ナツメグ)の特産地である。

海面上に1800メートルも突き出した島(火山)は航海者にとってたいへんありがたい航路標識になる。

500年前(1521年)、フィリピン・マクタン島(現在、セブ空港になっている島)で司令官マゼランを失ったスペイン船隊はファン・セバスチャン・エルカーノが指揮を引き継いでテルナテ島を目指した。目指したと言っても、当時、まともな地図を持っているわけでもないのでテルナテ島がどこにあるかわからない。ほとんど行き当たりばったりの航海で、南シナ海に突っ込んで右往左往し、ブルネイあたりの住民に間違いを指摘されて引き返し、パラワン島とカリマンタン島の海峡からスルー海にぬけ、そしてセレベス海に入った。セレベス海に入ったところで出漁中のフィリピン漁師を捕らえてテルナテまでの道案内を命じた。その航跡図を見ると船隊はシアウ島の側から南東へテルナテ島に向かっている。漁師はシアウ島を目印にして案内していたということであろう。この漁師はシアウ島の近くを通航中にスペイン人のスキを見て海に飛び込み逃亡したそうである。

香辛料にもいろいろあって、マルク地方の産品はナツメグ、クローブ(丁子)という高級品が主体となる。ヨーロッパ市場での価格は高く、供給量は少ない。一般庶民が気軽に購入できる商品ではなかった。その産地はインドの東方にあるマルクの島々らしい。産地で安く仕入れた香辛料が海路や陸路を伝って西ヨーロッパ消費地に届いたときは数十倍の価格となっている。中継地など香辛料流通に関連する情報は主消費地である西ヨーロッパまで、完璧にではなくてもおおむね届いていた。「マルクの香辛料」は西ヨーロッパの有力な商人や王室、貴族など有力者たちが気にし続けるテーマであった。

香辛料問題を解決すべく最初に挑戦したのが、イベリア半島の片隅にあるポルトガル王国であった。旗を振ったのがエンリケ王子であったのは言うまでもない。

ポルトガルに続いてスペインも乗り出した。スペインはイベリア半島の主みたいな国である。当時、ポルトガルと並んでヨーロッパの最強国であった。

ポルトガル・スペイン両国に80年から90年ほど遅れて、国力を高めたオランダやイギリス、フランスが東洋の香辛料貿易に乗り出した。オランダとイギリスはそれぞれ、株式会社形式の東インド会社を設立して、ポルトガル勢力を駆逐しながら本格的に東インド方面の植民地経営を進めた。

現代に生きる私たちは、「インドネシア」と聞けば反射的に「オランダの植民地であった」と思い浮かべるが、実はオランダ以前にポルトガルやスペインがマルク地方に進出している。スペインはマルク到着がポルトガルに後れをとったこともあって、目標をフィリピン経営に切り替えマルク地方から手をひいた。

17世紀初め以降(日本で言えば関ヶ原の合戦以降)ポルトガルはオランダの勢いに圧迫されてマラッカはじめ東南アジア各地から退き、南米ブラジルやアフリカ沿岸部の植民地経営に力をいれるようになった。(東ティモールとマカオは最近までポルトガル領として残っていた)

ポルトガルと入れ替わったオランダは、インドネシアに介入した当初 から東インド会社を設立してインドネシア植民地経営に乗り出し、第2次世界大戦終了まで300年以上も植民地支配を続けることになったのである。

地球の裏側にある西欧勢力をこれほどまでに引き寄せ、ついにはオランダの植民地として300年以上も搾取されることになったそもそもの原因は、マルク地方・ミナハサ地方のナツメグ(パラ)・クローブ(チンケ)であった、ということになるのだろうか。


少し横にずれた話を書いてこの項を締めたい。
オランダが東洋の香辛料貿易に乗り出したのは16世紀の末期、1598年ごろであった。ポルトガル勢におくれることおよそ90年である。此の頃のオランダの船乗りたちはまだ東洋への航路に慣れていなくて、航海の実行にはいろいろと試行錯誤が続いた。第一にオランダからマルク諸島までの航路がまだよくわからない。とりあえず三つの航路を試すことにした。①アフリカ・喜望峰回りでインド洋横断、②北極圏経由の北回りでオホーツク海を経て太平洋に出る、③南米マゼラン海峡経由・太平洋横断。ということで3グループの船隊がそれぞれのルートでマルクの海を目指すことになった。

①喜望峰経由インド洋横断は一応成功して無事ジャワ島西部バンタムに到着(これはこれまでのポルトガル船と同じルート) ②は無理だとわかって中止。 ③マゼラン海峡経由太平洋横断は苦労して、しまいには悪天候に吹寄せられ、リーフデ号1隻だけが九州豊後の臼杵湾に漂着した(佐伯湾という説もあり)。帆はボロボロ、船体も損傷が激しく、乗組員は文字通り半死半生の状態、まるで幽霊船の姿であった。漂着した日は慶長5年(1600年)3月16日、関ケ原合戦のおよそ半年前のできごとであった。(これがオランダ船の日本到着第一号と言われている)。

異国船漂着の報告が江戸の徳川家康にとどき、家康は興味を示して比較的元気な幹部船員2名を大阪城に召喚した。2名のうち1名は航海長・ヤン・ヨーステン、1名は航海士・ウイリアム・アダムス(のちの三浦安針)。両名は事情聴取されたあと、家康の外交顧問として召し抱えられた。ウイリアム・アダムスはイギリス人で、海賊キャプテン・ドレイクの配下で働いたことがあり、船大工の経験もあって非常に重用されたらしい。

日本漂着時に20数名の船員が生きていたが、救助された後に死亡するのもいて 結局12名だけが生き残り、全員、日本に留め置かれた。リーフデ号の積み荷、備品等(大砲も含む)はすべて陸揚げされたらしい。

マルク地方を震源とする香辛料地震の余波は、遠い日本にまでとどいていたというお話でした。

2.エンリケ王子・・大航海時代の幕をあけた男

一般に、大航海時代というのはコロンブスの新大陸発見航海(1492年)で始ったとされている。一方、大航海時代の幕を開けたのはポルトガルのエンリケ王子(ポルトガル)であるという説も広く行き渡っている。どちらも正しいと言ってよいだろう。

私の見解を述べさせていただくと、エンリケ王子は大航海時代という歴史劇の制作・演出・監督を担当して時代の幕を開け、コロンブスはその第二幕に登場した、やや三枚目的な主演俳優であった。決して、かっこうのよい二枚目俳優ではなかった。

エンリケ王子とコロンブス、二人はもともと役割分担が違っていた。生きた時代も一世代ずれている。

コロンブスが新大陸を発見した(と本人が思いこんだ)彼の第一次航海は、1492年から1943年にかけて行われた。エンリケ王子は1394年生で1460年に66歳で没している。コロンブスが第一次航海でスペインを出発したのは、エンリケ王子の没後32年目にあたる。

エンリケ王子はポルトガル王ジョアン一世と女王フェリパの第5子(三男)として1394年に生まれた。資質に恵まれて(もちろん家柄にも恵まれて)21歳の若さでセウタ攻略戦に参加し武勲を挙げた。その勢いで若くしてキリスト騎士団の指導者となり終生その地位にあった。キリスト騎士団は莫大な資産を有していた。その団長となったことで潤沢に資金援助を受けることができ、王子は存分に好きな事業に打ち込むことができたといわれている。

幼少のころから船や海に異常なほどの興味を示していた王子は、成人してもその傾向は変わらなかった。いわゆる「ふねオタク」であった。

父王の補佐役をこなしていた王子は、ポルトガル南西端(つまりイベリア半島の南西端)サグレスに領地を得て、かねてから企画していた事業を始めた。多分に趣味の延長みたいなものでもあったが、この事業が国力の増強につながるという信念とともに資金の裏付けもあって、やることに気合が入っていた。

彼がサグレス(王子の村)で手掛けたとされている事業は以下のとおりである。

この時代の航路開拓という事業は、文字通りの前人未踏の海に乗りだすということで、何やら現代の宇宙開発事業に似ているが、当時と現代とでは全般的な科学技術の水準の違いがあるので、現代の宇宙開発の方がよっぽど安心感がある。

エンリケ王子が提示した探検航海の当初の目標は、アフリカ大陸の西海岸を南に向かえ、ということであった。王子はアフリカ大陸西沿岸を南下すればインド洋に抜ける切れ目(海峡)が見つかるかも知れない。海峡はなくてもアフリカ大陸そのものの南の端があるはずだと考えていた。第2段目標は、見つけた海峡または大陸南端からインド洋に入りポルトガル・インド間の航路を確定すること。

香辛料流通経路としてインド周辺の状況はある程度把握されていた。インドのカリカットまたはゴアまで行けば、東にあるという香料の島々まで行きつくのはそれほど難しいことではないと踏んでいたかもしれない。

しかし肝心の船乗りたちの多くは、目の前のアフリカ沿岸を南下することさえ苦労していた。水平線の向こうがどうなっているのか、見たことがないことは想像もつかない。未知の海への挑戦は伝統的な迷信との戦いでもあった。怖じ気づいて予定の目標地点まで進めないチームもあったが、勇気のあるチームもあった。ポルトガルの探検船隊はじわりじわり、尺取虫のようにアフリカ大陸西岸を南下した。

エンリケ王子は1460年に66歳で没した。この時期、探検事業は最大の難所と思われたボシャドール岬を突破してギニア湾まで進出しており、見通しは明かるくなっている。事業はジョアン2世に引き継がれた。探検事業はこれまでエンリケ王子の個人事業の性格が強かったが、ここから王室が統括する国家事業となる。

王子の没後30年近く過ぎた1488年、バルトロメウ・ディアスが率いる船隊がついにアフリカ大陸南端に到達した。ディアスの船隊はこの数日間悪天候に翻弄されアフリカ大陸沿岸を見失っていた。、天候が回復して気がついたら大陸南端を東に通り過ぎていたという。暴風に押し流されたおかげで、航路開拓計画の第1段が達成された。

バルトロメウ・ディアスは祖父も父もエンリケ王子に仕えた船乗りであった。王子の死後、3代目のバルトロメウがアフリカ最南端到達という大殊勲をたてたことになる。

1497年7月、ポルトガル国王は、ヴァスコ・ダ・ガマを司令官とするインド遠征艦隊を派遣した。艦隊は翌年1998年5月にインド西岸カリカットに到達、悲願のインド航路開拓に成功した。

1500年にはカブラルが第2回目のインド遠征艦隊を指揮した。この航海でカブラルはリスボンを出発した後、大西洋を南(喜望峰)に直進せず西寄り(南米寄り)にふくれて航行する航路(南米大陸に近づいた航路)を採ってブラジルを発見した。(西寄りの航路になったのは風に押し流されたとの説もあり、また、カブレルは南米大陸があるという情報を得ていて故意に西寄りの航路をとったという説もある)

これに先立つ1494年にポルトガルとスペインは発見する土地の領有権に関して「トリデシリャス条約」を締結しており、カブレルが発見した陸地は条約上からもポルトガル領である、ということになった。トリデシリャス条約とは、簡潔に言えばポルトガル・スペイン2国による領土分割条約(または地球分割条約)である。地球を二つに割って、片側で新たに発見される陸地(島)の領有についてははポルトガルに優先権があり、他の半分のそれはスペインに優先権があるという、あたかも地球上に主権国はポルトガルとスペインしかないかのごとく身勝手な条約であった。当時の国際社会でポルトガルとスペインの実力がいかにとびぬけていたかわかるような話である。

1502年、ポルトガルによる第3回目のインド遠征は、再びヴァスコ・ダ・ガマが司令官に任命された。ガマは前回第1回目の体験から学ぶところがあって、この遠征では艦隊規模を増強し武力を前面に出してインド各地の対策にあたり、コーチンに要塞を築くなど成果をあげた。初代インド総督となったガマは、今でもポルトガルの国民的英雄として讃えられている。

ポルトガルのインドおよび東インドの開拓で最も成果をあげたのは第2代インド総督となったアルプケルケであろう。

アルプケルケは1510年にゴアを占領してポルトガルの植民地とし、翌1511年にマラッカ海峡の要衝・マラッカ王国を攻めて占領した。以後、マラッカは130年後1641年にオランダに奪われるまで、ポルトガルのアジア支配の拠点となった。

アルプケルケはマラッカ占領が一段落すると直ちに分遣隊を東インドネシア方面に送った。分遣隊指揮官はアントキオ・アブレウ、副長はフランシスコ・セラン。セランの従弟マゼランが隊付き士官として同行していた。

* この項ではエンリケ王子の登場からマラッカ占領まで、ほぼ1世紀にわたるポルトガル側の動きを要約してみた。ポルトガルのマルク諸島へのアプローチは最後のコーナーを曲がってゴールが見えてきた、というところでひとまず筆をおく。

3.コロンブスの登場

話が前後するが、ここでコロンブス(1451年生―1506年没)に登場してもらう。

先に述べたとおり、1492年のコロンブスによる「新天地発見(カリブ海の島々であったが)」をもって大航海時代の始まりとされている。

コロンブスはスペイン船隊を率いてマルク諸島への先陣をたまわったわけであるが、彼自身はスペイン人ではない。イタリアのジェノバ出身と伝えられている。少年期に父親とともにポルトガル・リスボンに移り、船乗りや地図販売の仕事をしていたらしい。地図販売業の関係でマデイラ諸島(ポルトガルの植民地)まででかけ、そこで嫁さんを得て男児をもうけた。このマデイラ諸島とのつながりがコロンブスの新天地発見の重要な伏線となっている。

ある時期からコロンブスは妄想に取りつかれていた。コロンブス自身としては、妄想などではなく確信だ、ということであろうが。
彼が妄想?にとりつかれ、西回りのアジア航路開拓に執念を燃やした要因は少なくても三つある。

少なくても上記3件の情報がコロンブスの頭の中でミックスされ、「マデイラ島から西に行けば、さほど遠くない位置に金を産しスパイスが茂る東アジアの島々がある」という結論に至った。

アメリカ大陸発見というコロンブスの業績を私たちは子供のころから絵本などで読み、学校の先生のお話で聞いたりしてきたが、真実はかなり異なっているようだ。彼は人生の幕を閉じる間際まで、到達したカリブ海の島々が東アジアの島であると信じ込んでいた。彼が見つけたという島と実際の東アジアの島々の間には、広大な太平洋が横たわっていることなど夢にも思わずに一生を終えた。

コロンブスは壮大な勘違いをかかえたまま一生を終えたのであるが、彼の新大陸発見の報せは西ヨーロッパ,特にイベリア半島の野心家たちに強烈なムチを入れたかたちになった。

(第1部 終)



参考年表

 
西暦   主体国    事績             
1394 ポルトガル エンリケ王子生まれる(父・ジョアン1世、母・フェリパ女王)
1415 ポルトガル エンリケ王子、セウタ(モロッコ)平定戦に参加。この頃、王子はポルトガル南西端サグレスに「王子の村」を建設し、探検事業の本営とする。
1420 ポルトガル エンリケ王子が派遣した船隊がマデイラ諸島を発見。エンリケ王子、キリスト騎士団の団長に任命される。
1434 ポルトガル 王子が派遣した船隊がポジャドール岬をこえる。
1445 ポルトガル アフリカ最西端のヴェルデ岬を迂回して現在のギニア地方に到達。
1447 ポルトガル 現在のシエラレオネに到達
1466 ポルトガル エンリケ王子逝去。享年66.探検事業はジョアン2世が受け継ぎ、国家事業となる。
1488 ポルトガル バルトロメウ・ディアス、アフリカ大陸最南端に到達。インド航路開拓の見通しが開ける。
1492 スペイン コロンブス、第1次航海出発。バハマ諸島到達。(1493年帰着)
1493 スペイン コロンブス第2次航海でカディス出航17隻1500人。ドミニカ、ハイチ到達。(1496年帰着)。
1494 スペイン
&ポルトガル
トルデシリアス条約締結
1497 ポルトガル ヴァスコ・ダ・ガマ、喜望峰を迂回してインド西岸カリカット到着。インド航路の開拓に成る。
1498 スペイン コロンブス第3次航海。6隻。サンルーカルを出航。トリニダード。1500年コロンブスは捕えられて本国に送還される。
1510 ポルトガル アフォンソ・デ・アルプケルケ、ゴアを占領。
1511 ポルトガル アフォンソ・デ・アルプケルケ、マラッカ占領。
1512 ポルトガル アルプケルケ麾下のフランシスコ・セラン、テルナテ島到着
1519 スペイン マゼラン、5隻の船隊を率いてセビリア出航。南米大陸南端の海峡を経て太平洋に入り、西航してフィリピン群島に到達。
1521 スペイン マゼラン、セブ島脇のマクタン島で戦死。以後、ファン・セバスチャン・エルカーノが船隊の指揮をとる。
1522 スペイン エルカーノの船隊、インド洋・アフリカ南端経由してスペイン帰着。初の世界一周航海成る





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