総目次

太平洋戦争末期のマカッサル

「海軍薬剤官の想い出」(秋山尚之著 私家本)から

まえがき



太平洋戦争末期のマカッサルの状況について、民政部および民間関係者の証言は、複数残されているが、当事者である筈の海軍関係者による証言は、編集者の知る限りでは、海軍薬剤大尉 秋山尚之氏の私家本しか残っていない。終戦後、秋山氏はマカッサルの敵国捕虜収容所の捕虜に対して充分な衛生、治療、食糧、医療、医薬品を提供しなかったとの理由で、戦犯容疑者として蘭軍に拘禁され、その後ジャワ島の刑務所、巣鴨刑務所を経て、昭和31年7月仮釈放まで、永年辛労されました。秋山氏の私家本「海軍薬剤官の想い出」は、その経過を克明に記録した、たいへん貴重な資料である。(編集部、写真提供 粟竹章二氏 1994年10月北海道戦友会にて撮影)

日赤看護婦の帰国と臨時看護隊の編成、兵補のこと

 昭和20年の3月の頃であった。海軍省医務局から病院船をマカッサルに寄港させるから、日赤の看護婦を乗船帰国させるよう指示があった。南の果ての島で共に死を覚悟して働いてきた看護婦の帰還を見送ると、なにか急に吾々はいよいよ南の島に取り残されて玉砕も間近に迫りつつあると云う実感がヒシヒシと身に追ってきた。

 支那大陸当りなら歩いてでも日本にたどり着く事も可能であるが、赤道を超えた南の孤島であっては泳いで帰れる訳のものでもないので、只々死を覚悟で敵と戦って祖国の犠牲となるほか道はなかった。

 日赤の看護婦が婦還してから、急遽マカッサル残留の日本人女性、即ち民政部(海軍の占領地の民政担当機関)の女子事務員とか、ホテル、料亭の従業員、日本の女性という女性を全部集めて臨時看護隊を編成して応急看護法等を教育し、いざという時の対応の準備を始めた。

 一方当方面を管轄する第二南遺艦隊司令部は兵力の増強を計るため、将来インドネシアの独立を約束して、インドネシアの青年を集め軍事教育を施して兵補として戦力の強化を計った。

 彼等は長年の念願であったインドネシアの独立に燃え、今迄軍隊組織など経験した事がないので喜んで日本軍に協力していた。そして日本兵と同じ軍装をして街の中を行軍していたが、その姿を見ると軍靴を肩に担いで裸足で歩いている者もいたりして、日本の軍隊では考えられない様な風景であった。彼等は裸足の習慣で今迄靴等はいたこともないので、靴をはくと足に豆が出来て痛くて歩けないとの事であった。

初めてインドネシアに行った時、彼らの体格は日本人に比べると大変貧弱に見えたが、食料を与え充分栄養を付けてやり、そして訓練しさえすれば日本の兵隊と何ら変わりない体格に成るものだという事が良く分かった。

海軍と陸軍の作戦協定

 当初、陸軍がジャワ、スマトラ島を管轄、海軍がセレベス、 ボルネオを管轄していたが、昭和19年の夏から20年にかけて、満州からニューギニア方面へ移動の陸軍部隊が、途中潜水艦の攻撃を受けて着の身、着の侭セレベス島にたどり着いた部隊とか、或いはまた食糧事情が悪いニューギニア地区から後退してきた陸軍部隊が一万余にも達し、その上、敵の侵攻が近くまで追って来たので、これに対応する為、陸海軍は作戦協定を行い共同でセレベスの防衛に当たることになった。 海軍はマカッサル地区に駐屯していたので、水際作戦を担当し、陸軍は奥地の山岳地帯に複郭陣地を築き、長期抗戦を担当することに成った。然し裏を返せば陸軍は山の中に隠れ、海軍のみが馬鹿正直にも第一線を受け持ち、敵が上陸してくれば真っ先に玉砕せねばならないと云う老猪な陸軍に上手く乗ぜられた様な格好に成ってしまった。

 海軍側は早速マカッサル周辺の海岸線に水際防衛陣地の構築を開始し、避暑地であるマリノの山を最後の防衛拠点として複郭陣地の構築に取りかかった。病院も23根拠地隊の工作隊に依頼してマリノの山に横穴を掘って貰い、その中に長期抗戦用の医薬品や手術機械等の医療器具の搬運を開始した。

 20年5月に入るとB-29編隊の空襲は一段と激しくなり、病院の建物の屋根に赤十字のマークが大きく描き出してあるせいか、辛うじて破壊は免れたものの、支那人街は全滅にも等しく大型爆弾と焼夷弾で破壊し尽くされ、嘗ては清楚なマカッサルの街もガレキの山と化してしまった。

夜宿舎に帰って密かにオーストラリアのダーウインからの日本語による短波の宣伝放送を聞いていると、5月1日ヒッートラーが自決し、8日遂にドイツが無条件降伏したので、日本軍はこれ以上抗戦しても無駄である事を繰り返し、繰り返し放送していた。

米軍のバリクパパン上陸作戦

ドイツが降伏した以上は日本一国で米英を主力とする連合軍、即ち全世界を相手にして戦わざるを得なく成ってしまった訳で、アメリカ一国でも苦戦していると云うのに全世界を相手にしては勝てる筈はなく、惨めな敗戦も時間の問題と成ってしまった。遂に6月に入ると日本本土の最前線である沖縄も激戦の末陥落と云う最悪の結果と成ってしまった。

  6月末のこと、夜半に突如として非常呼集がかかった。すわ何事かとばかり病院の中庭に全員集合すると、マカッサルの前方マカッサル海峡に敵の船団が 100隻近く集結しているとの情報で、23根拠地隊司令部より各部隊に臨戦態勢に入るよう命令が発令された。これで自分の運命もいよいよ尽きる時が来たかと思うと武者震いと共に身の毛のよだつような思いがしてきた。

  暗闇の中で救急隊の編成やら応急医薬品の準備等、臨戦体制を進めている内に白々と夜が明けてくると、詳しい情報が入ってきた。連合軍の大船団はマカッサル海峡に集結して対岸のボルネオ島パリックパパンに上陸を開始したとの事で一応待機状態に戻ったので、取りあえず本件胸をなで下ろした。

然しパリックパパンの上陸作戦は織烈を極めているらしく、早朝より豪州のポートダーウインを発進したB-29の4発が100機近く吾々のいるマカッサル上空を通りパリックパパンの爆撃に向かつて行くのが見受けられた。そしてパリックパパンに駐屯している海軍の第22根拠地隊の苦戦の様子が同隊の発進する無電の傍受によって手に取るように詳しく分かった。

マリノの野戦病院

パリックパパンの苦戦の模様を思い浮かべながら明日は我が身と対戦準備に一層拍車をかけて、病院も重症患者から順にマリノの野戦病院に急ピッチで患者輸送を開始した。

 

私は20人程の臨時看護婦を預かり、マリノの野戦病院で最後迄抗戦を続けるよう指令を受けていたので、何れ最後が来たら全員自決せねば成るまいと覚悟を決め、青酸カリをガラス球に封じ込めた青酸カリ球を作り「もし最後に自決せねば成らない様な状態になったら、この球を口の中に入れて噛み砕けば苦しむことも無く楽に死ぬ事が出来るから、大切に保管して置く様に」と申し渡し、各人に手渡ししていざと云う時の準備も進めた。(写真:マリノ野戦病院のあった場所、当時と殆ど変わっていない。2009年7月、粟竹章二氏撮影)

 マリノ陣地の打ち合わせの為23根司令部へ行くと副官からバリクパパンの22根の軍医長からの次の様な電報を見せて貰った。
「多数の兵士が脚気で戦力が低下しているので、ビタミンBlの注射薬の空輸を頼む」以上のような電報を近隣の各部隊に打電しているが、物量作戦に徹した連合軍の攻撃に対しては手も足も出ない状態で、只傍観しているだけで何もして上げられないのが実情であった。

マカッサル上陸作戦の予告

昭和20年(1945年)8月6日の夜半空襲も一段落し警戒態勢が解除に成ったので宿舎に戻りラジオのスイッチを入れると、アメリカの日本向けの短波放送が入り、『連合軍は広島に原子爆弾を投下して広島を壊滅させた。南方各地に点在している日本軍はこれ以上抵抗しでも無駄であるから速やかに投降せよ』と繰り返し放送しているのを聞いて、いよいよ祖国も最後の段階に入りつつ有る事を知ると共に、これで日本の輝かしい歴史と伝統がアメリカに依って 抹殺されてしまうのかと思うと何か無性に悲しくなってきた。

そして米軍の放送は9月にはマカッサルに上陸作戦を開始する旨、毎日の様に予告放送をする様に成ってきた。連合軍の上陸を迎え撃つ臨戦準備も敵の物量作戦には到底及ぶ処ではないが、各部隊、夫々必死に成って抗戦準備を進めていった。 海軍は海岸線の迎撃作戦を担当して、最終的にはマカッサル近郊にある標高 500mのマリノの山中に複郭陣地を構築して最後の抵抗線とする為に、山の各地に隧道(トンネル)を掘り、敵の物量的な攻撃にも対処出来るような大々的な工事を進めていった。

8月15日の玉音放送

8月15日早朝にマリノの野戦病院の進捗状況を視察方々、野戦用医薬品を輸送の為、数台のトラックを指揮してマリノに向かった。マリノでは工作隊に依頼して置いた患者収容用の横穴や医薬品備蓄用の穴倉もほぼ完成していたので、トラックの積み荷を穴倉に格納させていると、マリノ診療所の下士宮が飛んで来て 「今マカッサルから迎えの車が来て待っています」と連絡にやって来た。 今朝出発して今しがた到着したばかりなのに迎えが来るとは何事かと腹立たしさと共に不審に思いながら診療所に戻ると、マカッサルから来た迎えの運転手が 「院長から至急下山して病院に戻って来る様にと指示を受けて迎えに来ました」 命令と有れば致し方ないと、何か不吉な予惑を抱きながら渋々車に乗ると運転手の態度がどうも平素と違い、何か様子がおかしいので 「何かあったのか」と聞くと 「未だ聞いていませんか、日本が遂に無条件降伏する事になって、今日正午に天皇陛下の玉音放送が有ると云う事です」

 これを聞いて何か急に巨大な力で頭を叩きのめされた様な気がすると同時に、今迄玉砕覚悟で必死に成って頑張ってきた努力が全く水泡に帰してしまったと云う虚無感と、一方又生きて祖国に帰れるのかという死からの開放感が交錯して胸に迫ってくるのが感ぜられた。

 マカッサルの街に入ると当たりは既に暗くなっていたが、今迄は灯火管制で夜とも成ると一寸先も見えぬ程真っ暗闇であったが、今晩は家々の窓には電灯が光々と灯っているのを見て、改めてこの様な明るい夜の世界も有るものだなあと、平和の有り難さを噛みしめながら病院に戻ると、士官室では私の帰りを待って夕食の準備がなされていたが、誰も無言で沈痛な面もちをしながらテーブルを囲んでいた。

  吾々海軍士宮は今迄国家に身を捧げる為にエリード教育を受け、海軍士官の名誉と日露戦争以来築き上げてきた輝かしい海軍の伝統を守る事を最終の目標として、これまで全力を振り絞って闘ってきたのである。 例え敵が上陸してきても徹底的に抗戦して、少しでも祖国を守る為には吾々は喜んで捨て石に成らなければ成らないと云う、玉砕を覚悟で頑張って来たのであった。そして生きて祖国に帰れるなど毛頭考えられなかっただけに、この緊張した目標がぷっつりと切れて無くなってしまうと、後には只の虚無感だけが残るだけであった。 そして死から解放されたと云う安堵感と、反面アメリカの爆撃で壊滅に瀕した日本はこれからどの様に立ち直っていくのか想像も付かない不安感で頭の中は混乱していた。そして色々と噂が乱れ飛んでいた。アメリカはハワイ に不意打ちを掛ける様な極悪非道な日本民族は、女は残しても男は去勢して根絶やしてしまわねば成らないと云う様な情報も乱れ飛んでいた。

 食卓にはカニや牛肉の缶詰が一杯運ばれてきた。この様な豪勢な缶詰等はこの処とんとお目に掛かった事はなかったが、戦争が終わったので、司令部から備蓄用として貯めて置いた缶詰が放出されたのであった。精神的不安の極限状態では例えどんな上手い物でも只腹を満たすだけで、別に味など感ぜられる様な状態ではなく、自分自身を取り戻すのに夢遊病者のような生活が何日も続いていった。

 或る日の事、面会人が来ているというので玄関に出てみると、以前に取り引きしてやっていた華僑が面会にやってきていた。彼は豪華な中華料理を大皿一杯作って持って来てくれた。 「日本が無条件降伏で戦争に負けてしまったのに、何故この様な高価な物を持って来てくれたのか」 と聞くと 「今度目本は一応負けたが、10年後には又元の日本に戻る事は間違いない。その様な時が来たら是非又私と商売の取引をしてください」 その言葉を聞いて、華備は実に大陸的と云うか遠い先の事迄考えながら商売をしているものと驚嘆させられた。日本人なら破産して、もう駄目だと思うと誰も見向きもしなく成ってしまうのに、華僑は10年、20年先の事を考えながら商売をしているのには全く恐れ入り、頭の下がる思いがした。

豪軍の巡洋艦入港

9月に入るとセレベス島接収のため豪軍の巡洋艦が先遣部隊としてマカッサルに入港してきた。開戦当時この様な豪軍の艦船はジャワ沖海戦で日本海軍の精鋭部隊によって一撃の下に餌食にされたのであったが、今では主客転倒して残念ながら彼等の前に平伏しなければならない立場に成ってしまった。
 埠頭の岸壁に立って入港の様子を見ていると素っ裸の兵隊が4~5人、主砲の砲身に跨ってこちらの方を向いて何やら大声でしゃべりながら手を振っている。幾ら暑いと云っても日本海軍では軍艦にとって最も神聖な大砲の砲身に裸で跨るなど有り得ぬ事で、この様な連中に吾々は負けたのだと思うと全く情けなくなって涙がこみ上げてきた。

秋山尚之(アキヤマ ヒサユキ)氏 略歴

Copyright (c) 1997-2020, Japan Sulawesi Net, All Rights Reserved.