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脇田清之 Wakita Kiyoyuki
August 21, 2023
追記 October 9, 2023
かつての南スラウェシのルウ王国(現在の南スラウェシ州ルウ県)の首長、アンディ・ジェマ(Andi Djemma, 1901~1965)は、2002年11月8日、インドネシアの独立に貢献した功績を認められ、インドネシアの国家英雄として認定されています。
アンディ・ジェマは南スラウェシのゴワ王国、ボネ王国とともにインドネシア独立に向けて奮闘した重要人物です。ゴワ王国のマンギマンギ(1875-1946、当時70歳)、ボネのマッパニュキ(1885-1967、当時60歳)3国王のなかで一番若く、働き盛りでした。南スラウェシではインドネシア独立に向けて一番働いた首長でした。
太平洋戦争の時代、日本からの来訪者は必ず彼のところへ挨拶に行っていたようです。日本からの観光客もトラジャ見学に出掛けますが、トラジャから東側(ボネ湾側)へ山を下るとパロポにつきますが、ここがルウの中心地です。マカッサルからは遠いようで意外と近いです。アンディ・ジェマも頻繁にマカッサルまで出掛けていたようです。
伊東深水が描いたアンディ・ジェマ
1943年5月25日、画家、伊東深水が海軍報道班員としてルウ酋長家を訪問したときのスケッチスケッチです。
スケッチの左上に「ルウ県のパロポルウ首長 ルウ県の面積台湾と同じ位」と書かれています。しかし、実際は、それほど大きくはありません。ルウがかつて偉大な王国であったことを強調したかったのかもしれません。
南スラウェシのルウ地方は、いまはニッケルの産地(日本へも輸出されています)として知られていますが、かつては製鉄産業で栄えた地域です。鉄を溶かし武器や農耕鉄器を製造し、南スラウェシ南部や周辺諸島へ輸出し、巨額の富を生み、14世紀ごろには南スラウェシ南部を圧倒する勢力を誇っていました。
しかし19世紀には勢力が衰えました。イギリスの探検家、ジェームズ・ブルック(Sir James Brooke)が1830年代に書いたレポートには、「ルウはブギスの王国の中で最も古く、寂れていた。首都パロポの家はおよそ300軒程度」と書かれています。
またルウ王国は、17世紀の初頭、南スラウェシでは最初にイスラム教を国教としたことでも知られています。
アンディ・ジェマは1901年、ルウ王国の中心であるパロポで生まれました。早くして父親を亡くしたため、彼は母親に育てられました。
1911年頃のルウ女王の住宅
(太平洋協会編「セレベス民族誌 P188 から)
1911年のルウ王国一族を収めた写真があります(下の写真)。中央椅子に腰掛けている女性が第33代の王位を継承する母親、その右側のソンコ(黒い帽子)を被った白服の少年が10歳のときのアンディ・ジェマと思われます。
幼少の頃より、地元の学校で一般庶民の学童と共に学び、オランダ植民地政策に苦しむ庶民の生活を肌で感じ、オランダ嫌いだったようです。
1919年、アンディ・ジェマが18歳のとき、ルウ王国の一地区、ガパ(Ngapa、現在の東南スラウェシ州北コラカ県ガパ(Ngapa))の統治を任されます。ガパで名声を高めたのち、1924年から1935年にかけてパロポに隣接するワレ(Ware)地域の統治を任され、同時にルウ王国の王政をサポートして経験を積みます。
1935年に第33代王の母親が亡くなり、アンディ・ジェマは正式にルウ王国の第34代王位に就きます。王位継承に当たっては、ルウ地方でインドネシア国旗を掲揚する「事件」があり、これにアンディ・ジェマが関与したとして、蘭印政府からは抵抗があったようです。
太平洋戦争で日本が敗れて2日後、1945年8月17日にインドネシアの独立宣言が出されました。このニュースは翌日、日本軍将校「サカタ」を通じて南スラウェシの古都パロポに伝えられました。そしてこの情報は、直ちにルウ県全域に流されました。インドネシア独立宣言を確認してからほんとうに素早い行動でした。 アンディ・ジェマは南スラウェシ各県首長や地域内での調整に奔走します。初代スラウェシ州知事に任命されたラトランギ博士がマカッサルへ帰ると、アンディ・ジェマは直ちにマカッサルへ出掛けて、ラトランギ博士と対応策を協議しています。
1945年9月19日、パロポ市内の家々にはインドネシアの国旗が掲げられました。豪州軍がマカッサルに上陸する2日前でした。
10月10~11日にかけて、アンディ・ジェマはボネ首長のマッパニュキほか南スラウェシ各地の首長に対し、インドネシア共和国を全面的に支持するよう呼び掛けています。またルウ王国内の各地を廻り、各地域の責任者への説得に当たりました。
10月15日、ジョンガヤ(Jongaya)にあるボネ王マッパニュキの自宅に、ラトランギ州知事のほか、ルウ王国のアンディ・ジェンマほか南スラウェシ各地の王族など40名が集まりました。そこではインドネシア共和国の「スラウェシ州」としての結束を再確認し、団結を確認しています。
翌日、その結論を持って植民地化への復帰を目指すオランダ側と交渉に当たったのは、ルウ首長アンディ・ジェマとボネ首長のマッパニュキでした。
ジョンガヤ(Jongaya)にあるボネ王マッパニュキの家 ( Jl. Kumala no.60, Makassar)
インドネシア独立を志す若者たちは直ちに闘争の準備に入りました。アンディ・ジェマの二番目の妻の息子アンディ・アフマド(Andi Achmad, 1923年生まれ)等が中心となって、約40人からなる武装ゲリラ部隊、スカルノ・ムダ(Soekarno Muda)が結成されました。
このゲリラ部隊が最初に行ったのは1945年9月2日、パロポにおける日本軍の武器庫の襲撃でした。このとき20丁以上の銃、数十丁のピストルを確保することができ、その後のゲリラ活動に弾みをつけました。
1946年1月23日、武装ゲリラ部隊「スカルノ・ムダ」は、ルウ市民を指揮してパロポにてオランダ軍に対してゲリラ戦を開始、武装した数百人のオランダ兵を殺傷し、パロポを解放した記念すべき日となりました。
しかし、パロポの解放はわずか2日間で終わりました。その後は、レジスタンスの本拠地を次々に移動しています。アンディ・ジェマは妻(マッパニュキの娘)とともにゲリラ部隊と行動を共にします。
アンディ・ジェマは1946年6月2日、ボネ湾の東海岸に近いバトゥプテ(Batu Pute)で突然、蘭印軍によって逮捕されます。南スラウェシ各地で留置されたあと、1948年6月1日、蘭印政府側の最高裁判所から流刑25年の判決が出されました。1949年7月、テルナテへ流刑されます。
1950年、アンディ・ジェマは釈放され、3月1日マカッサルへ帰ります。数ヵ月後、ジャカルタへ行き、スカルノと再会しました(その以前に、アンディ・ジェマは1945年4月にマカッサルでスカルノと会っています)。
アンディ・ジェマは1965年にマカッサルで逝去し、マカッサル市内の英雄墓地に埋葬されました。
ルウ王国の首長にすぎなかったアンディ・ジェマは、インドネシアの独立に貢献した功績を認められ、2002年11月8日、インドネシアの国家英雄として認定されました。
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