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(丘の中腹から見たブトン海峡)
BaubauはButon島の南端、Muna島との間の海峡(Buton海峡)の入口に位置する。Baubauは行政区画としてはWolioとBetoambanの二つの地域から成り立っている。両地区を合わせた人口は85,000人である。(2000年10月調査時点)人口の98%はイスラム教徒である。
市内を抜けて山の上に上がると約3kmに渡ってButon王国の要塞の城壁が残されている。(写真上)
要所にはオランダ製の大砲が海峡に向けて配置されて観光名所になっている。(写真下)
Buton王国には日本の”竹から生まれたかぐや姫”と同じ伝説が残されていて興味深い。Baubauの周辺は数多くの小島、入り江があり、ダイビングスポットともなっている。更にButon島の東の沖には国立海洋公園に指定されているTukang Besi(鍛冶職人の意味 注①)諸島があり、欧州方面から多くの観光客(主にダイバー)が訪れる。Baubau周辺では日系の真珠、鰹節の工場もある。
MakassarからBaubauに入るルートは4つある。
Baubau港で船舶の動向を調査した。貨物の流れを見ると小型貨物船の行き先は頻度順に、
小さな船でジャワ島のスラバヤやフローレス島まで航海していることがわかる。
Buton港に入港する船の出航地は
Baubau周辺には多くの島、海岸線も複雑で美しい自然が残されている。南スラウェシと較べて開発が遅れ、人口が集中していないので自然環境の破壊が少ない。ダイビングスポットも多い。王国時代の城壁が残されていて観光スポットとなっている。交通の便が悪いのが難点であるが、バリ島から直行の高速船などが運航されれば観光客が呼べると思われる。ホテルのレストランで魚料理を希望するときには事前に予約しておかないと、海が近いのに食べられない。冷蔵庫が無いから保存が利かないのだろう。反対に鶏料理はいつでもOKのようだ。生きたまま保存できるからだろう。
Tukang Besi諸島はそのうちの主要4島の頭をとって”WaKaToBi”とも呼ばれている。
Wa=Wangiwangi
Ka=Kaledupa
To=Tomea
Bi=Binongko
鶴見良行著作集11フィールドノート(みすず書房 2001年5月発行)には「鍛冶屋の島」として、1984年の調査の詳細が記されている。Tukang Besi諸島には実際に数多くの鍛冶屋があり、現在はチェンソーや自動車の廃材などを原材料にしてドラム缶で作った炉で加熱、鍛造により山刀を生産し、製品はアンボンなどマルク圏へ出荷されている。しかしスクラップ鉄が無かった16世紀に、すでにこの地域で鉄製品の生産拠点になっている。どのような製鉄法だったのか興味深い。同じ著作集の中で、「南スラウェシのルウ王国(パロポの北)の奥地に鉄鉱山があったこと」、「東南スラウェシのKolaka近くの土壌は鉄分を含み赤い」などの記述がヒントになりそうだ。
Muna島
これも鶴見良行著作集11「フィールドノート」(みすず書房 2001年5月発行)の解説に若干記載されている。
「Muna島は戦争末期に日本軍が連合軍の捕虜を連れて上陸した島である。1945年、オーストラリアを攻めるために、日本軍はアンボン島のリアン、ハルク島、セラム島のアマハイに飛行場をつくっている。、、、、、、、、飛行場は完成したが、連合軍の反抗は激しく、これらの飛行場は使われることなく放棄された。捕虜を連れてジャワ島に帰るときに爆撃されて、逃げ込んだのがムナ島である。」(内海愛子氏)
2000年10月にBaubauからMuna島の西部にあるMawasangkaへ日帰りで行ったことがある。目的はMawasangkaの港湾事情の調査であった。往復の車窓からはJambu mede(カシューナッツ)の畑が延々と続いていた。この地域は石灰岩で一般の農作物の栽培は困難であるとのことであった。(脇田)
Tukang Besi 諸島の古着マーケット
大量の古着がシンガポールなどからされ輸送(多分密輸)され、Tukang Besi 諸島のWangiwangiが東部インドネシアの古着マーケットが出来ている。小さな木造船でも貿易風を利用すれば数日間で1000km以上の距離を航海することが出来る。シンガポールはそれほど遠い距離ではないという。(海のアジア 6 アジアの海と日本人 岩波書店2001年5月発行)
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