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戦前マカッサルにあった日本人共同墓碑は何処に?

Dimana kuburan orang Jepang pada masa sebelum perang dunia

脇田 清之 WAKITA Kiyoyuki


Foto foto di atas diperkirakan diambil di Makassar pada tahun 1931 (c) Doi,used with permission

この2枚の写真は1931年(昭和6年)頃に撮影されたマカッサルの日本人の葬儀の風景です。戦前マカッサルで土井秋太郎商店を経営されていた土井秋太郎氏の孫にあたる土井正治氏から提供されたものです。大きな碑には「日本人共同墓碑」の文字が書かれています。残念ながら墓地の場所についての記録は残されていません。

1932年(昭和7年)、金子商店がマカッサル支店を開店する際、同市在住の邦人39軒全部に信州更級製干しそば持って挨拶に廻ったと記録が残されています。一世帯当たりの人数は不明であるが、少なく見積もっても、マカッサル市内だけで100人を超す日本人が住んでいたと思われます。しかしこのような立派な墓碑があったことは初めて知りました。1916年頃、今のカレボシ広場の近くに、キリスト教徒や中国人の墓地があったようですが、日本人の墓地も同じ場所にあったのでしょうか。

 戦前、マカッサルで活躍された方達は、昭和16年12月、太平洋戦争の開戦と同時に、連合軍によってジャワ島経由オーストラリアに抑留されました。昭和17年2月8日、旧日本海軍のマカッサル上陸作戦のあと、最終的には2万人に及ぶ軍関係、民間系の日本人がマカッサルに入って来ますが、敗戦後、全員帰国するので、日本人社会は当時と現在の間で二度の大きな断絶があります。これまで軍関係の墓碑、慰霊碑などはある程度分かってきましたが、民間人の墓碑、慰霊碑の類を記した資料はあまり見掛けません。ご存知のかたがおられましたら是非編集部宛ご連絡頂ければ幸いです。(編集部)

これまでに頂いたコメント

Daeng 様
 若い地元の考古学者の推測では、マカッサルにあった墓地はおそらく壊されて、別の建物になっているのではないか、ということです。他人の墓を掘り起こし、そこに埋められた財宝を盗むことが頻繁に行われてきた、といいます。とくに、華人の墓には金銀が埋められているので標的になった、日本人の墓も華人の墓と思って標的になるのではないか、ということです。「華人や日本人はよそ者だから狙われるのか」と聞くと、「いやそうではない。かつての地元の王族の墓でも、所有者がはっきりしなくなれば、同様に標的になるし、そうした墓はたくさんある」といいます。

粟竹 様
大戦中の昭和19-20年にかけてマカッサルに滞在し、日頃市内を巡回していました。そのような大きな墓標があれば気がつかない筈がない。Daeng 様のお話が事実だとしたら誠に残念な話で、あたら歴史を消滅 させてしまうような話ですね。 恐らく「日本人共同墓地」は消滅してしまったのではないでしょうか。テルパルの墓地は邸宅の一部だしマカハベさんが警官だしおばあちゃんも元気ですから大丈夫とは思いますが、チャンバーの墓標群は広い空地の一部でおばあちゃんは死んだし娘さん夫婦ではいずれあの土地を処分する可能性 もあり、そのうち消滅してしまうのではないかと思って居ります。

永江様
 上陸した開戦直後の1942年当時、昼寝の時間になると「ミン、コレア」といって陶器を売りに来ました。お墓からの盗掘品だといいました。全然見る目もなかったが、あれこれ選んで少し集めたことがありました。これらはある時代、交易品として貨幣代わりに使われたのだと教わりました。その後あちこちを転勤していて皆紛失したようです。

Wacin 様
 横浜では外国人墓地は立派な観光スポット。観光案内には「開国にわく1800年代から、多くの外国人達の最後の安らぎの場として広く親しまれています。墓地内には日本の西洋文化への発展に関わる多くの著名な外国人の墓所もあり、歴史的な観点からも貴重な場所とされています。」と書かれています。鎌倉なんか墓碑だらけ、でも観光客が大勢きて皆さん墓碑の文字を丹念に読んで往時を偲んでいます。トラジャの葬式だけでなく、墓地、墓碑も立派な観光資源になると思うのですが、惜しいですね。

以上は2008年時点でまとめたものです。

追記1:墓地跡発見か?日本海軍上陸作戦のこと(2014年3月20日)


Aeng Batu Batu 村の海岸近く墓のあった場所とされる場所


Aeng Batu Batu 村の入口

 戦前あった日本人墓地の所在地について、機会あるたびに、現地に詳しい関係者に尋ね廻っていたが、まったく手掛かりは掴めなかった。ところが、ひょんなことで少し事情が分かってきた。



サンプルンガン(Sampulunga)海岸

マカッサルの歴史研究家カシム(Kasim) さんによると、旧日本海軍陸戦隊は昭和17年 (1942)2月9日の未明、マカッサルの南30キロのバロンボン(Barombong)、アエンバトバト (Aeng Batoe Batoe) 海岸、および隣村サンプルンガン(Sampulunga)海岸の3地点に上陸し、地元民の協力もあり、短時間でマカッサルを占領している。まったく想定外であったが、この海軍陸戦隊の上陸地点に戦前の日本人共同墓碑の跡はあったそうです。

2014年2月19日、マカッサルの歴史研究家 Kasim さんの案内で、日本海軍が上陸したTakalar 県のSampulungan、Aeng Batoe Batoe を訪れた。正直なところ、日本海軍がどこに上陸したかなど、戦史には興味はなかった。訪問の目的は、 Kasim さんから現地に日本人墓地 があった話を聞いていたので確認したかったからである。最初に墓の話を聞いたとき、日本海軍上陸作戦では蘭印軍との戦闘は無かったはずで、そこになぜ墓地があるのか理解できなかった。カシムさんによれば、その墓地は上陸作戦の犠牲者の墓地ではなく、マカッサル市の日本人の墓だったと言う。現地で地元の長老 Hasan Basri 氏 (90歳)に会い、持参した当時の墓地の写真を見てもらった。長老はまさしく探していた墓標に間違いないという。日本人の共同墓地のあった場所は、村人の墓地の一角にあり、墓標はなく、また遺骨もすでに日本人が持ち帰っているという。

写真:左端 地元の長老 Hasan Basri 氏、右端 Kasim 氏

日本海軍の上陸地点になぜ日本人墓地があるのか考えてみた。

 上の地図は日本海軍陸戦隊マカッサル上陸の記録である。場所と日時が記録されているが、Kasim 氏から経路の誤りを指摘され、赤字で書き加えてある。日本海軍より詳しい記録がマカッサルに残っていたことは驚きである。

下の2枚の航空写真が正確な上陸地点であるとのこと。

海軍がマカッサルの上陸地点を決めるき、陸戦隊の案内役を務めた土井昇氏はマカッサル生まれ、現地語に精通してし、この地域の地理に詳しかった。真夜中の上陸作戦、行軍だから、土地勘のある地点であることがきわめて重要であったと思われる。さらに現地の住民との信頼関係も必要だろう。だから土井昇氏は在留邦人の葬式や墓参り、また海水浴なで度々訪問していた Sapulungan, Aeng Batu-Batu, Barombong を上陸地点とするよう海軍にアドバイスしたのではないだろうか。今回お会いした地元の長老 Hasan Basri 氏は海軍陸戦隊をジェネベラン河の橋まで道案内をしたという。また土井氏は、かつて土井氏の店 Toko A.DOI で働いていた現地従業員 Saleh氏と Barombong で再会し、蘭軍の動向について詳しい情報を得ことが出来という。

日本海軍の資料で、二大上陸 (Group 2) と書かれた上陸地点は Kasim 氏によると Barombong の地点であるという(下図参照)。

一方、陸本一大上陸 (Group 1) Aengbatubatu と書かれた上陸地点は、Kasim 氏によると、実際には、 Aengbatubatu と、Sampulingan の2か所から上陸したという。上陸後合流し、海軍作成の地図下端の Moncobarang を経由し、幹線道路へ出ているという。夜中の行軍で道を間違えたのかもしれない。

当方にとってはどちらでも良い話であるが、このように詳しい記録がマカッサルに残っていたことは驚きです(下図)。

和歌山の土井正治氏によると、戦前マカッサルの土井秋太郎商店(Toko A.DOI)関係者は Barombong には、海水浴でたびたび訪れていて、砂浜のヤシの木の登ったりしている写真が残っているとのこと。写真を見る限り海岸は、遠浅の砂浜で、昔の故郷の浜に似ていることです。ということは、日本海軍上陸作戦では、土井昇氏は日頃海水浴や墓参りで土地勘のある Aengbatubatu, Sapulungan, Barombong を上陸地点に選び、通いなれた夜道に陸戦隊を案内したのではないかと想像される。

地元の人達は、日本海軍陸戦隊が上陸した三つの地点のほか、この遠浅の海岸にいかにして上陸したか、作戦の要領までもが記憶されていた。 Kasim 氏によると、この海岸は遠浅なので、船から海岸まで距離がある。そこで左の図のように何層か砂袋を積み上げ配置し、その上に鉄板を敷き、機材を陸揚げしたという。砂は近くの島で採集したそうです。

追記2:マカッサルのヨーロッパ人墓地の一部にあったとの資料も(2020年2月5日)

昭和15年9月25日発行の大阪毎日新聞に「蘭印で活躍する紀州人」の記事がある。この記事は同社特派員、和田伝五郎氏がインドネシア各地を取材し纏めた報告である。 和田氏の記事によると、「マカッサルの近郊にヨーロッパ人墓地がある。その域内の一部に日本人墓碑が並んでいる。ここの墓地はスマトラのメダン市にある日本人の墓地同様美しく清掃され、無縁墓までも整然と祀られ、在留邦人の勢力のほどが察せられるだけでも嬉しいが、私のメモに記されている県人の募碑名は、東牟婁郡宇久井村長田喜太郎、同村土井清、おさの、串本町矢野弘子、明神村佐々木林治、同村崎富蔵の人々である。、、、、、、、と書かれている。(和歌山県「和歌山県移民史」P657 1957年)

ヨーロッパ人墓地はかつて市の中心地にあり、1962年にマカッサル市によって取り壊され、跡地に病院などが建設されたとの記事がネットで見られますが、詳しいことは分かりません。

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