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歌手で声楽家、作曲家でもある藤山一郎さん(1911 - 1993、1992年国民栄誉賞受賞)は、大戦中二度にわたってマカッサルで活躍した。藤山さんの歌声は70年経った今も多くの現地体験者の耳に焼き付いている。戦時下での歌、音楽による宣撫活動、慰問やコミュニケーション・ツールとしての歌の力、効用の大きさを改めて感じる。
一回目は海軍占領地区将兵への慰問のため、昭和18年2月から7月にかけて、約6ヶ月の間、ボルネオのパリクパパン、サマリンダ、タラカン、セレベスのマカッサル、ケンダリ、そのあとチモール島のクーパンを経てジャワ島の各地を回った。藤山さんのほか歌手の菅沼ゆき子さん、浪曲の早川燕平さん、徳川夢声さんの弟子の漫談家吉井さん、奇術師、藤山さんの楽団と約二十人であった。
二回目はセレベスの海軍民政府から「増永丈夫氏(藤山氏の本名)を再度派遣されたし」という要請が海軍省の南方政務部にあり、海軍嘱託として再びマカッサルへ向かう。昭和18年秋から昭和19年の暮れまでの約1年間マカッサルを基地としての活動であった。昭和19年暮れには今度はジャワ島に拠点を移している。日本経済新聞社の「私の履歴書」(文化人14 昭和59年4月発行)には次のように書かれている。「 」内は引用部分である。
「前の“藤山慰問団”とはちがって今度は正式の海軍嘱託の奏任官五等、つまり海軍少佐待遇で給与は三級俸だから年俸千八百円と決定した。しかし私一人で南方へ出かけたところで本職の歌を歌うことはできない。どうしても楽団が必要になってくる。そこで楽団を組織しなければならないのだが、これを藤山楽団とすると私が責任の一切を負わなければならない。」(左上写真:当時の慰問団の舞台風景 中央アコディオンを演奏する藤山さん 出典:藤山一郎南方従軍記)
「昭和十七年の半ばごろから南方海域には敵の潜水艦が出没して日本の輸送船が撃沈されたり、現地の空襲も活発化していることでもあり、もし楽団員に犠牲者が出たら内地にいる妻の以久も責任を負わなければならない。かといって楽団をつれて行わないわけにはいかない。そこで内々知り合いの楽士さんに呼びかけたところ十人集まった。千本(セロ)、村越、野沢(ドラム)、平原、三原(トランペット)、清田(ギター)、松本、小島(サキソホン)、曽根(トロンボーン)、中川(ピアノ)の諸君である。この十人は藤山楽団ということではなく、各個人がそれぞれ南方政務部と独自に契約して現地で私と行動をともにしてもらう、という形式にしてもらった。」
「さて私たちの行き先はセレベス島マカッサル市にある海軍民政府と決まり、現地へ到着したのが昭和十八年の秋ごろであった。海軍民政府は下部組織としてセレベス、ボルネオ、小スンダ列島にそれぞれ民政部を置き、海軍部隊と協力して原住民を啓もう、宣撫するのがその任務であり、民政府の総監は岡田文秀氏であったが、そのあと山崎厳、東竜太郎両氏に代わった。私たちの楽団は「海軍民政府音楽隊」と名づけられ、情報班に属して班長小松東三郎、林謙一氏の指揮下に入り、マカッサル市内に個別に宿舎を与えられそこへひとまず落ちついた。私たち音楽隊の任務も当然原住民の啓もうと宣撫にあったから、下部組織の各民政部から要請のあるたびにセレベス島内は陸路トラックで、ボルネオ、小スンダ列島方面へは飛行機で飛び、各地の劇場、公会堂、あるいは野外ステージで演奏した。大部分は「愛国行進曲」「燃ゆる大空」「日の丸行進曲」「若鷲の歌」といった軍国歌謡を歌ったが、時には「東京ラプソディー」や「青い背広で」「丘を越えて」も歌い大いに喜ばれた。「特に喜ばれたのは「インドネシア・ラヤ(ラヤは偉大という意味)」、「インドネシア・ムリヤ(ムリヤは自由)」、そして「ブンガワンソロ」「トランブーラン」などであった。オランダ政府の下では禁じられていた歌の内容もあったのだろう、喜びの表現として両手の親指を空へ向けて熱狂してくれたことも一再ならずであった。」 藤山さんによると、インドネシア人は日本人より音感がよく、どこへいっても大いに喜ばれたそうだ。「原住民は酒には酔えぬが音楽には酔える」と言っているくらい、歌ったり聞いたりすることが好きだと。
マカッサルの三笠会館での音楽会、マカッサルの中学校、師範学校で現地生徒への音楽指導、病院に於ける慰問も精力的に行われた。当時マカッサル病院に勤務した板谷健吾氏が藤山さんの病院内音楽会のことについて思い出話を書いている。下記はその一節である。マカッサル病院とは、現在のステラマリス病院である。 「藤山一郎さんは、患者と職員の為、しばしば音楽会を開いて下さった。音楽好きの原地人の人々は、二階の講堂を花や、色美しい葉で巧に飾ってくれて、その中で歌とメロディーをどんなにか喜こんだ事だろう。しばし、戦いのこと、苦しみ痛さも忘れて。そして、藤山さんに対するお礼、それはお礼の中には入らないで感謝の気持であるが、病院の賄いの人達が作ってくれたオンデオンデを食べていただくことであった。オンデオンデは、たしかタピオカ(澱粉)をこねて、だんごにし、その中にグラメラ(黒砂糖)を入れ、ゆで上げてから榔子の中身を、おろしですって粉状にした中に転がして衣をつけたお菓子で、口に入れ、かんだ瞬間に甘い黒砂糖の汁が、にじむという趣向の日本人向きのする美味しいお菓子であった。藤山さんもこれを喜んでいただいた。」
当時民政部に勤務した粟竹章二さんの「民政部時代の想い出」によると、
「2軒隣が湯浅、斎藤両中尉と同期の司令部主計課の藤井中尉と嘱託だった藤山一郎こと増永さんの宿舎で、、、、、(途中省略)、、、、、、また藤山さんは自分の所のピアノが悪いので、よく我が家のピアノを借りに来ましたので、課長の居ない昼間に来て下さいとお願い致し、昼間だけ使ってもらう事にお願い致しました。」
2009年7月、マカッサル訪問した際、粟竹さんにお供して、藤山さんの住んでいた明石通り(現在 Jl. Dr. Sutomo )の家を見てきました。粟竹さんの話しでは、建物の外観(写真上)は当時とあまり変わっていないようだとのこと。
昭和19年の秋、戦局は悪化の一途を辿り、マカッサルも安全な場所ではなくなった。10月末にはマカッサル研究所がバンジャルマシンへ疎開、マカッサル師範学校の女子部もボネ(南スラウェシ)に疎開するなど、学校・施設などの各地へ疎開が始まる。この頃、現地の新聞「セレベス新聞」の紙面にも企業の移転通知広告が急増する。事務所が被爆したためである。用紙不足により紙面も一段と小さくなっている。 こうした中、出発前に藤山さんが心配していたことが現実のものとなってきた。一緒につれてきた楽団員との関係である。楽団員は各地の宣撫活動・慰問要請に応じて、ボルネオ、小スンダ、セレベスなどに分散していた。藤山さん自身もジャワ島スラバヤにあった第二南遣艦隊司令部の柴田弥一郎司令官の強い要請により、楽団員を残したまま、昭和19年の暮れにスラバヤへ転勤することとなる。あまりに急な話で、愛用のイタリア製ダラッペのアコーディオンをマカッサルに残し、身一つでの転勤であった。いずれ引き取りに来るつもりであったが、この名器と永遠の別れになったという。
藤山さんの二度目のマカッサル、海軍嘱託としてマカッサルの海軍民政府に派遣される際、昭和19年1月、シンガポール経由ジャカルタに到着したが、マカッサルでペストが発生したため、約1ヶ月ジャカルタに留め置かれた。ジャカルタは陸軍の統治下だったが、軍港部はジャカルタ海軍武官府の担当になっていた。藤山さんは武官府を訪ね、前田少将ほかインドネシアの独立に尽力する吉住留五郎、西島重忠氏らとの接点をもった。そこで前田少将らは藤山さんに、歌の力によるインドネシアの独立支援を要請したという。当時、第二南遣隊管轄区の島々(東部インドネシア)は、民度も低く、独立意識が薄かった。自分たちがインドネシアの一員である意識すらなかったという。だからこの意識を育てなければならなかった。藤山さんの歌の力で独立意識を育てて欲しいとの要請だった。藤山さんがマカッサルの三笠会館(現在の Gedung Kesenian SULSEL Societeit de Harmonie)で「インドネシア・ラヤ」を熱唱したのも、こうした独立運動の一環だった。
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