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スラウェシへの旅

伊藤 民生


(マカッサルのロッテルダム要塞にて)

インドネシアのセレベス島は今はスラウェシ島と呼ばれている。ここは父が22歳から2年間、陸軍航空隊の士官として従軍していた島である。 父は復員後、故郷の新潟に帰ったが、しばらくして腎臓病を患い、私が3歳の時、31年の短い人生を閉じた。おばあさんがよく「父ちゃんは戦時中はセレベス島にいたんだよ」と話していたのは覚えていたが、どこで何をしていたのかなど詳しい事は分からなかった。

私が成人して会社に入り、フィリピンに駐在していた時に、母から「お父さんの従軍記録が見つかった」と書類のコピーがマニラの自宅に送られて来た。それで詳しい事が分かった。


(父の出征時の写真)

父は1944年(昭和19年)2月に水戸陸軍飛行学校卒業後、陸軍航空隊第8航空情報隊に転属、4月に門司を出港しフィリピン・マニラに上陸、5月にクラーク飛行場を出発しインドネシア・ハルマヘラ島ガレラに到着した。22歳であった。その時期は連合軍が既に隣のニューギニア東部に上陸し、徐々にインドネシア方面に向かって攻め寄せて来ている非常に緊迫した戦況下にあった。到着してから1か月も経たないうちに隊は徐々に撤退を始め、アンボン島リアン、セラム島アマハイを転戦しながら9月にマカッサルに至るが、街は連合軍の定期的な空爆で瓦礫の山となっていた。

父はケンダリの基地や第2軍が永久抗戦態勢を進めるシンカンにも出張して連合軍の攻撃に備えた。しかし1945年(昭和20年)8月14日、終戦詔書発布で終戦を知る。占領軍が島に入り、父の隊は9月にスリリ、その後、マリンプンに移駐させられたようだ。11月、新宿営地建築材料輸送指揮の為、シンカンへの2泊3日の出張の後、急性咽頭炎を発症し10日間余りスリリの陸軍病院に入院する。

そして1946年(昭和21年)5月18日にパレパレを出港、帰国の途に就く。私は一度はスラウェシ島を訪ねて父の足跡を辿りたいと思っていたが、現役中はなかなか時間が取れなかった。退職して時間は出来たものの、年々、長距離の旅行がしんどくなってきたので、行くなら今しかないと思い立ち計画した。インドネシアはジャカルタとバリ島に行った事はあったが、スラウェシ島がどんな所か、どうやって行くのか等、基本的な知識が全く無かったので、まずネットで調べ始めた。観光情報は出てきたが、戦跡などについての情報はほとんど得られなかった。ある時、ふと「スラウェシ島-インドネシア-情報マガジン」のサイトが目についた。中を覗くと私の探していた戦時中の非常に貴重な情報が次々と出て来て、私は貪るように読んだ。特に高橋弘之氏の「マリンプンとスリリ」、永 江勝朗氏の「南セレウェス滞在記」及び奥村明氏の「セレベス戦記」が大変参考になった。又、このサイトを主宰されている脇田清之氏に色々アドバイスを頂き、現地マカッサル在住の竹内ロビー氏をご紹介頂いて、2018年2月に3泊4日で訪問することが出来た。

インドネシアは赤道直下の国、スラウェシ島は赤道のすぐ南側に位置する。赤道を境に南側と北側では季節が逆になるようで、北側のタイが乾季なのに対し、スラウェシ島は目下雨期の真っ只中だった。

2月11日(日)

マレーシア・クアラルンプールを早朝に出発したエアアジアの飛行機は3時間20分でスラウェシ島最大の都市マカッサルのスルタン・ハサヌディン国際空港に着陸した。外は小雨だった。空港には竹内さんが手配してくれた華僑系インドネシア人のウェリーさんが迎えに来てくれた。ウェリーさんはコーヒーで有名なスラウェシ島中部山岳地帯トラジャのご出身で以前JICAの日本人駐在員のドライバーをされていて片言の日本語を話した。

空港から直ぐに今日の宿泊先のスイスベル・ホテルに向かった。ホテルでは日本・インドネシア国交樹立60周年記念の行事が開かれていて、そこに出席している竹内さんご夫妻にお会いし、昼食をとりながら滞在中の予定の刷り合わせをした。


(スイスベル・ホテルは海岸通りにあり、ロッテルダム要塞も近い)

その後、竹内さんご夫妻とウェリーさんの運転する車でマカッサル郊外のインドネシア人の民家の前庭にある旧日本軍人の慰霊碑をお参りした。このお宅は終戦直後、34名もの旧日本軍人が戦犯として銃殺刑に処せられた旧日本陸軍第7司令部の裏に位置し、家主のマカハウベ氏は、遺族の敷地への慰霊碑建立の願いを快く受け入れ、以来、長い間、同碑を管理されていると聞く。心温まる話だ。私がお邪魔した時も家主のおばあちゃんとご家族が暖かく迎えて下さり、お線香と芳名帳を出してくれた。事前に芳名帳が一杯になったので買って来て欲しいと竹内さんに頼まれていたので、それと日本からに買って来たお土産のお菓子をお渡しし、気持ちばかりの献金をさせて頂いた。因みに民政部もここにあったそうだ。父は約9ヶ月間マカッサルに居たから、きっとここにも来たに違いない。


(慰霊碑前で竹内さんご夫妻と)

マカハウベ家の皆さんに別れを告げ、ウェリーさんに市内を回ってもらった。 マカッサルは16世紀のゴア王朝時代から国際貿易港として大いに栄えた。特に香辛料が西洋で珍重され、17世紀にオランダはゴア王朝を倒しマカッサルを植民地化した。以来、1942年(昭和17年)に日本軍が入るまで、300年弱の長きに亘りオランダの支配下にあった。

最初にホテルの向かいにあるロッテルダム要塞に行った。ここはゴア国王によって作られた城塞で、オランダ植民地時代は政治・貿易センターとして使われていた。今は博物館になっている。


(ロッテルダム要塞の入り口)

その後、ドリアンを食べられるお店に連れて行ってもらった。僕はドリアンが大好きだ。スラウェシのドリアンはタイのものより小粒だが味はなかなか良い。


(ドリアンのお店)

それから美しい夕日で有名なロサリ海岸通りを走ってもらった。あいにくの雨で夕日は見る事が出来なかった。


(ロサリ海岸通り)

マカッサルは新鮮な魚介類が豊富である。 夕食は竹内さんとウェリーさんお勧めのレストランで豪快な海鮮料理を楽しんだ。


(巨大なハコフグの唐揚げ)


(竹内さん、ウェリーさんと)

2月12日(月)

朝8時にウェリーさんの車でホテルを出発、途中、竹内さんをご自宅で拾い、一路パレパレに向かった。パレパレはマカッサルの北、約150kmに位置する南スラウェシ州第2の商業・港湾都市であり、父が1946年(昭和21年)5月18日帰国の際、復員船に乗り込んだ場所だ。


(パレパレの市街地)


(パレパレのホテル)

パレパレの市街地は港から続くなだらかな斜面に展開している。今晩泊まるブキット・ケナリ・ホテルはパレパレ湾と街を一望できる高台にあった。チェックインしてから港の近くのレストランでお昼を済ませ、更に北のスリリ、マリンプン方面に向かった。

スリリはパレパレの北約40kmに位置し、終戦後、日本人収容所がおかれた場所だ。父は1945年(昭和20年)9月8日にマカッサルからスリリに移駐している。しかしスリリに居たのは1か月半位で、その後、スリリの北約10kmに位置するマリンプンに移り、帰国までの約7か月間をそこで過ごしている。日本人のほとんどがマリンプンの収容所に送られたと言う。ここには陸軍の基地もあったので、兵隊は基地に収容されたようである。

日本で事前に調べた限りでは、当時、スリリの収容所はパレパレからの道路の脇にあり、道路を挟んだ反対側に温泉があった。そして収容所と温泉の中間の森の中に陸軍病院があったようである。父はマリンプンに移った後、1945年11月に新宿営地建築材料輸送指揮の為、約50km南東方面にあるシンカンに2泊3日の出張をした後、体調を崩し約2週間、この陸軍病院に入院している。温泉跡が手掛かりになると思い、地図を調べたところ、この辺りではないかと思われる場所に市民プールがあった。ユニセフに勤めている竹内さんの奥さんの提案でスリリの公共医療センターに行き聞いてみると、その市民プールのそばに昔、温泉があったと言う。そこに向かった。

市民プールでは子供達が歓声をあげて遊んでいた。建物の前に男が居たので聞いてみると我々を案内してくれると言う。男の後について行くと、プールから少し離れたところに建物の骨組みが見え、その近くにコンクリートで出来た池のようなものがあった。そしてこれが温泉跡だと言う。池の中をよく見ると底から水が湧き出ていて、手を入れると温かかった。


(パレパレからスリリへの道路)


(温泉跡にて)

資料によると、この温泉は日本陸軍が作ったものらしい。屋根のかかったコンクリート造りの立派な浴槽をいくつも備えた温泉だったようだ。近くにあった陸軍病院の患者や関係者が利用していたと言うから、父も入ったに違いない。 インドネシアの人達には温泉入浴の習慣がなかったようで、今は廃墟となって荒れ果てていた。

温泉跡の近く、道路に接する場所に小さな森があった。地図で見ると、この辺りに陸軍病院があったと推測出来る。今は民家が建っている。


(陸軍病院があったと思われる場所。民家が建っていた)

資料では陸軍病院から道路を挟んで反対側にスリリ収容所があったという事なので、多分この辺りに収容所があったのだろう。


(スリリ収容所があったと思われる場所)

それからマリンプンに向かった。 日本人収容所はスリリの北、約10kmに広がるマリンプン砂漠北の一画にあり、在留邦人約2万人が抑留されたと言う。(以下は高橋弘之氏「マリンプンとスリリ」からの抜粋)この地方の中心ピンランの周辺は一帯が平坦地で、肥沃な田んぼやヤシ園などが拡がっているのに、マリンプン付近だけは何故か穏やかな起伏の多い沙漠状の大平原、貧弱な草が所々生えるだけの不毛の大地で民家らしい民家は全くない所だったらしい。ここは第一次世界大戦中にジャワ移民およびドイツ軍俘虜がほとんど死に絶えたと言う曰く付きの「地の果て」と言われていたらしい。

資料では、ここから2~3km離れたところに日本陸軍の基地があり、飛行場もあったとある。ウェリーさんが途中の店で聞いたところ、その辺りにインドネシア陸軍の基地があると言う。


(マリンプン収容所跡から元日本陸軍基地方面に向かう)

車でそのまま進むと、まさに資料から想定していた場所にインドネシア陸軍の基地があった。ここが旧日本陸軍の基地があった場所に違いない。確かに、せっかくある施設は次に来たものが使うのが常であろう。父は帰国までの7ヶ月間をここで過ごしたのだろうと思った。

資料によると、旧日本陸軍の施設は広大で、飛行場、飛行機修理工場、事務所、病院、浄水場、養豚地、墓地、森の中の航空隊駐屯地、要塞の陣地などがあったようだ。要塞跡は今でもあるそうだが今回は行けなかった。


(当時、日本陸軍の基地があったと思われる場所。今はインドネシア陸軍の基地となって いた。)

これで今回の旅行の目的とした場所はほぼ全て見る事が出来た。今日は朝から晩まで一日中晴れた。パレパレへの帰りの車の中で竹内さんとウェリーさんが異口同音に、このところ毎日必ず滝のようなスコールが降っていたのに今日は奇跡的に晴れたと言った。竹内さんからの事前のメールでも今年は雨がひどくて、道路が閉鎖される事もあるので、そのつもりで来てくれと言われていたのが嘘のようだった。一瞬、父が天気にしてくれたかなと感じた時、横で運転していたウェリーさんが「タミオサン パパ!、タミオサン パパ!」と言った。彼もそう感じたらしい。 (今回の戦跡の位置の特定は主に「マリンプンとスリリ」に掲載された高橋弘之氏制作の地図をもとに Google Maps で行った。高橋氏の地図が無ければ不可能だったと思う。)

夜はパレパレ港の近くのレストランで慰労会をやった。今日のメイン料理はパレパレ港に水揚げされたカニと魚だった。


(カニの醤油煮)

ホテルに帰り、パレパレ湾を眼下に望む2階のレストランのテラス席でウェリーさんの故郷のトラジャ・コーヒーを飲みながら色々話をした。

竹内さんのお父さんも戦時中、商社マンとしてセレベスに居られたと言う。軍部に物資を供給するお仕事だったそうだ。そしてインドネシア人のお母さんと知り合い結婚、お兄さんが生まれる。終戦後、パロポに抑留されていたが、やっと帰国出来る事になった。しかしパレパレから出る帰国船に乗れるのは原則日本人だけで、夫婦でもインドネシア人には乗船が認められなかったが、長い請願の末、何とかご両親と赤子のお兄さんの家族3人全員が1946年(昭和21年)4月か5月に無事乗船する事が出来たらしい。竹内さんはその時はまだ生まれていなかった。ご家族は名古屋で下船してから実家の京都に帰り、家業のレストランをやっていた。竹内さんが大学生の時にお父さんがお亡くなりになり、竹内さんが大学を中退して家業を継いだが、お母さんがアルツハイマーを患ったのを機に、 お母さんを故郷で介護してあげたいと思いインドネシアに来たとの事である。そして幼馴染の従妹である奥様と結婚されたそうである。今回、持病の心臓に不安を感じながらも私の為に3泊4日の旅に同行してくれた。

ウェリーさんは大の日本ファンで日本人が大好きだと言う。他人への思いやりと責任感が人一倍強いクリスチャンである。トラジャはクリスチャンが多いそうだ。そう言えば竹内さんご夫妻もクリスチャンだった。故郷のトラジャを案内するから次回は是非奥さんと来てくれと言ってくれた。

2月13日(火)

朝食後ホテルを出発、竹内さんご家族や私の父を乗せた復員船が出発したパレパレ港に行 ってみた。


(パレパレ港を望む)

その後、パレパレの南東約50kmに位置するシンカンに向かった。天気は朝から降ったり止んだりだったが、シンカンに近づく頃、車のワイパーも効かない程の豪雨となった。

シンカンでは豪雨で余り外に出られなかった。テンペ湖を望む高台にある県庁舎を見た。これは戦時中、陸軍が使っていたのではなかろうか、等と考えながら。シンカンは絹織物が有名なのでお土産にしようと2軒程お店を回ったが、良いデザインの物が見つからなくて買うのを諦めた 。

それからテンペを経由する山岳道路を通りマカッサルに向かった。夕方、6時頃、予定より早くマカッサルに入った。南の空がだんだん明るくなって来たので、ウェリーさんが僕にマカッサル湾の夕日を見せようと急いでくれたのだ。しかしマカッサル湾の水平線を覆った雲は夕日を遮ったままだった。2日間で約600kmを走る旅だった。

夕食はウェリーさん行きつけのチャイナ・タウンの焼き豚のお店へ行った。 お二人への感謝を込めて乾杯した。お二人のサポートが無ければ今回の旅の成功はなかっただろう。

2月14日(水)

今日も朝から雨だった。スイスベル・ホテルの部屋からのマカッサルの街と湾をカメラに収めた。

ホテルをチェックアウトし、ウェリーさんの車で竹内さんのご自宅に寄った。竹内さんが今日、お土産のトラジャ・コーヒーを持ってわざわざ空港まで来ると言うので、申し訳ないので貰いに寄ったのだ。そうしたら最初の夜、レストランで僕が美味しいと言った太刀魚のすり身揚げも頂いた。わざわざお店に買いに行ってくれたらしい。暖かい思いやりが身に染みた。

ウェリーさんからは奥さんが炒ったというカシューナッツもいっぱい頂いた。最高のお土産となった。その後、マカッサル市内の旧日本陸軍本部があった場所、現インドネシア陸軍本部を雨がひどかったので車から撮影し、空港に向かった。父はマカッサルではここに居たに違いないと思いながら。

短いがとても充実した旅だった。父が青春の一時期、国の為に命を懸けて奮闘した場所をやっと見る事が出来た。そして、とても心温かい人達とも知り合う事が出来た。滑走路を走るエアアジアの機窓からぼんやり外を眺めながら、今まで胸の奥につかえていた何かが無くなっているのを感じていた。

(追記)

今回のスラウェシへの旅の成功は、website「スラウェシ島-インドネシア-情報マガジン」に掲載された貴重な資料、中でも高橋弘之氏の「マリンプンとスリリ」、永江勝朗氏の「南セレウェス滞在記」及び奥村明氏が執筆された書籍「セレベス戦記」、それから、この siteを主宰されている脇田清之氏の貴重なアドバイスと竹内氏のご紹介、そして何よりも戦跡巡りにご同行頂いた竹内ロビー氏、Mr.Welly Wijaya の親身になってのサポート、それらが無ければあり得なかった。心より感謝申し上げる。

(2020 年 4 月 伊藤民生)

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