総目次 |
Kamp pengasingan wanita ada di Kampili, Sulawesi Selatan selama perang Pasifik, 1942-1945. Maksimal 2600 orang dari Belanda, AS, Inggris dll. tinggal di sini. Kepala kamp itu Mr.Yamaji, petty officer kelas dua, angkatan laut Jepang, dengan kerja sama dari pengasingan wanita, mengelola kamp dengan baik. Kisah sukses dalam era tragis selama perang dikenalkan dengan film atas nama "White skin, Yellow commander" di Jegang pada tahun 1960.
昭和17年 (1942)2月9日、マカッサルの南30kmのアエンバトバト (Aeng Batoe Batoe) 海岸他に上陸した旧日本海軍陸戦隊はマカッサルの南を流れるジェネベラン河 (Sungai Jeneberang) の鉄橋での戦闘、さらに街の北側を蛇行するタロー河(Sungai Tallo) の鉄橋で、次いでダヤ(Daya)部落(現在のKIMA工業団地近く)にあったオランダ軍陣地、マロス空港(現在のハサヌディン空港)での戦闘を経てセレベスの首都マカッサルを占領した。
その後、オランダ側との停戦協定により、敵国の男子はマカッサル市内その他の監獄に収監、婦女子をマリノに集結させた。しかし婦女子のみの、マリノでの自由な生活には問題があったので、スングミナサに近いカンピリに「敵性国婦女子収容所」という施設を作り、昭和17年8月から昭和20年8月の終戦までの3年間、オランダ人を筆頭にイギリス人、アメリカ人、アルメニア人など11カ国におよび、最大時には2,600人の婦女子を収容していた。カンピリでは、所長の山地正(やまじ ただし) 二等兵曹の奮闘と、マカッサル専門学校の先生だったオランダ人のヨーストラ夫人を中心とする抑留者側の協力により自治体制が確立され自活運営が行われた。1945年、連合国側の誤爆により大勢の死傷者が出たことは残念であった。
戦後、山地は戦犯の容疑を掛けられ、いちどは求刑20年の判決が出されたが、昔のカンピリ抑留者から「山地を救え!」と減刑嘆願書が出された。その結果、山地は7年の実刑に減刑され、ジャワ島のチビナン刑務所に1年8か月、昭和24年1月24日帰国、巣鴨で8か月過ごした後釈放された。この間の事情については菊池政男著「白い肌と黄色い隊長」(昭和35年 文芸春秋新社 発行)に詳しく書かれ、同じ年、同じ題名で映画化もされている。
カンピリ抑留所で山地氏を陰になり日向になり補佐し、彼の減刑嘆願のために起ちあがってくれたヨーステラ夫人は本国に帰り、戦時の功績で「オランダ金鵄勲章」を授与された。
「セレベスでは特警がうるさく、からかう以上のことをするとぶん殴られた。女性たちを野放しにすると、食べるために必ずパンパンに崩れるので、セレベスでは最終的には、敵性国人収容所をもうけ、オランダ国籍の者を全部収容し、街娼を防いだ。このために山地兵曹は、戦後オランダから感謝状をもらっている。セレベスの民政は安定していたようである。
一方、南方全占領地の軍需物資供給地で、南方占領地で最も物資が豊富だったジャワでは、街娼がゴロゴロし、贅沢な暮らしをしていた者が急には生活を落とせず、下男下女を使いながら街娼になっている女性もいた。白人は希少価値があるので日本人より花代が高かった。戦後オランダ軍事法廷で問題になった「スマラン将校慰安所事件」では敵性国人収容所からオランダ女性を連れ出し慰安婦にしたという責任で、何人もが死刑や重刑に処されている。・・・・」(シュミーズ一枚の戦争 P124-125 原著不明 戦友会配布資料 粟竹章二氏所蔵) マカッサルでも同じような要請が軍の一部から出たが、山地兵曹の必死の抵抗で食い止められたことが「白い肌と黄色い隊長」に描かれている。
戦時中、マカッサルの民生部に勤務した粟竹章二氏によると、「毎月所長の山地兵曹が、状況報告書を提出の為に、主計課に来て、課長に報告を致して居りました。その際お土産として、養豚場から豚肉の塊を持ってきてくれるのが、私たちの最大の楽しみでした。」とのことです。収容所は男子禁制で粟竹氏は門の中に一度も入ったことはないそうです。抑留所見取り図の中に豚小屋が記されています。
小説「白い肌と黄色い隊長」は同じ年に映画化された。松竹映画「白い肌と黄色い隊長」の監督は堀内真直、キャストは山路正(大木実)、相原中佐(杉浦直樹)、柴田中将(笠智衆)、松下少佐(山茶花究)ほかであった。 また、1961年5月には日本のテレビ番組で元収容所長の山地正氏と、カンピリで収容所生活を送った Mrs. J.M. van
Diejen-Roemen さんが再会するシーンが放映された。(写真右)ところが、この東京のニュースがオランダにも伝わり、オランダでは不快感を示した方々が多かったという。この南スラウェシの収容所では、山地所長が戦時国際法を最後の最後まで守り通した。しかしインドネシアの他地区では、悲惨な体験をされた人も多かったと言われている。こうした映画が誤ったイメージを与えかねないとの批判だったようだ。(文責:脇田)
Copyright (c) 1997-2020, Japan Sulawesi Net, All Rights Reserved. |