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マカッサル師範学校の思い出

菅藤ナツコさん(1922年10月23日~2021年6月14日)の戦時体験



(写真)日本・インドネシア国交樹立50周年記念
NHK-UNHAS 共催 マカッサル・シンポジウム(2008-3-23) から

1943年12月、ただ一人の日本語教師としてマカッサル師範学校に着任した菅藤ナツコさんは、45年8月の敗戦のときの混乱の様子を思い出す。戦況が悪化したためマカッサルから疎開していたボネで昭和天皇の敗戦の詔勅を耳にしたが、内容はよく聞き取れなかった。混乱の中、マカッサルからの情報からは全く断絶され、たった一人ボネに取り残されていた。偶々ボネの残務整理にきていた民生部の知人が菅藤さんを見つけてくれて皆と合流することが出来たという。

 その年は特別に暑かった。敗戦後、連合軍からの帰国の指示に、日本人は翻弄され、絶えず不安な状態に置かれていた。しかし一方、約3年のマカッサルやボネその他各地の生活のなかで築かれたインドネシア人との間の友好的な人間関係は、日本の敗戦という大きな事態となっても揺るがなかった。

マカッサルの LagaLigo 通りに住む Andi Norma さん(79歳)は菅藤ナツコさんのマカッサル師範学校時代の教え子である。彼女は日本人が帰国しなければならない状態に衝撃を受けた。彼女は菅藤先生を捜すために日本人の抑留地マリンプンに行って、先生と一緒に日本へ行きたいと思った。Andi Norma さんによれば、当時のマカッサルの師範学校は東部インドネシア各地、ジャワ島から優秀な生徒が集まる教育機関であったという。Andi Norma さんの一番思い出に残るのは、その学校はインドネシアの歴史について勉強することを推奨し、1928年の Sumpah Pemuda (青年の誓い)に始まるインドネシア独立運動について学んだことが強く印象に残っているという。




(写真上) 昭和19年頃に体育館の前で撮影されたマカッサル師範学校3年生と教職員
最前列左から二人目が菅藤ナツコさん、右隣は広島文理大出身の太田精一さん
二列目左から6人目がアントワネッタ・ワロー先生、
 写真の裏に検閲済みのスタンプが押されている。

戦争を正当化する理由はない。すべての戦争による苦しみは終わりなく続くことである。菅藤ナツコさんは、「陰惨な苦痛に満ちた戦争の体験の中で、ボネ、マカッサル、マリンプンでのインドネシアの人達との友好関係は救いであった。」と言う。菅藤さんのメッセージは3月7日に東京で録画され、3月23日にマカッサルのハサヌディン大学のシンポジウム会場で上映された。(一番上の写真)

菅藤ナツコさんのマカッサル赴任から帰国まで

菅藤ナツコさんは昭和18年(1943年)10月15日、日本郵船の浅間丸で大阪を出発し、セレタ港で約一ヶ月間の船待滞在のあと、バリクパパン経由、12月末にマカッサルに到着した。着任したマカッサル師範学校は海軍民政府の管轄下にあり、当時の有明通り、現在の Jalan Bawakaraeng にあった。 学校は4年制で、1学年約40人くらいの規模だった。地元インドネシア人教員のほか、日本人教員が5名いたが、女性教員は菅藤さん一人であった。菅藤さんは日本語を担当した。男子生徒には寮があったが、女子生徒は自宅から通学していた。後に女子寮をつくってもらい一緒に暮らした。

 菅藤さんが着任する半年前、昭和18年5月に伊東深水画伯が従軍画家としてマカッサルに来ていた。そのときに画伯が描いた「師範学校4年タムテラヒツ」の絵(酒蔵美術館「ギャラリー玉村本店」蔵)がある。

絵の左側がタムテラヒツさん。このタムテラヒツさんも菅藤先生の教え子の一人であった。 また当時海軍嘱託であった藤山一郎さんも臨時の音楽教師として師範学校へ来ていたという。

その後戦況は悪化し、昭和19年秋、マカッサル師範学校の女子部はボネに疎開することになった。菅藤先生は生徒達と一緒にボネに移動した。ボネに転勤になった先生は菅藤先生のほか、のちに(1974年)インドネシアの国会議員となったアントワネット・ワロー先生、広島文理大出身の太田精一先生がいた。丁度プアサの時期であったが、毎晩見ず知らずの人のマカンブサールに招かれて食事をしたという。

 ワタンボネで終戦を迎える。放送はよく聞こえな かった。その後、一旦マカッサルへ戻り、陸軍病院の看護婦として働いた。終戦当時、海軍民生部の日本人女子職員は全員病院の看護婦となる方針が出されていた。10月末にマリンプン、ベンテン地区へ移り、いくつかの病院(注2)の看護婦として働いた。病院は軍によるにわか造りではあったが、2,3年の滞在を考慮した立派な建物であったという。昭和21年5月10日パレパレを出発帰国の途についた。


注1:終戦時にはマカッサルに撤退してきた陸軍も多く、海軍病院の他にスングミナサ近くに陸軍の野戦病院があり、その他各地に上陸戦に備え野戦病院が(陸軍管轄)あったそうです。菅藤さんが勤務した病院は、スングミナサの陸軍病院で、野戦とはいえ構築はしっかりしてたようです。(元セレベス民政部粟竹氏談)

注2:設備医療技術の格段の相違からマリンプンでの医療の主導は海軍関係(マカッサル病院)が行って居り、重病人は陸軍でもベンテンの病院に入院したそうです。
然し2万数千余人の抑留者収容所で、病気で亡くなった方は40数人と、如何に医療体制が充実していたかの証で、今思えば我々は本当に幸せで有ったと思って居ります。(元セレベス民政部粟竹氏談)

追記 (2009-8-26)



 マカッサル師範学校は「マカッサル第一高等学校」になっていました。

参考資料

掲載:2008年5月24日
           加筆修正:2008年6月4日
           当時の記念写真追加:2009年5月25日
           2009年7月に撮影した写真を追加:2009年8月26日

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