総目次

カレボシ物語

脇田 清之


  google 衛星写真

マカッサルの街の中心に位置するカレボシ広場、戦前、オランダ統治の時代には王宮広場 (Koningsplein) と呼ばれていた。このカレボシの由来、伝説など広場にまつわる話題を探る。


かつては水田地帯

カレボシ広場の辺りは、もともとカレボシという名の王国の水田地帯であった。旧都マカッサルの栄えた17世紀、1632年12月24日、この水田で、ゴワの数十人が田植えの奉仕活動を行っていたことが記録に残されている。この時代、マカッサルの中心は南のソンバオプにあり、現在のロッテルダム要塞の場所には、商都マカッサルを守る七つの要塞の一つ、ウジュンパンダン要塞があった。カレボシ王国はこのウジュンパンダン要塞の東側に位置していた。


王宮広場の時代

カレボシ広場は、オランダ統治の時代には王宮広場 (Koningsplein) と呼ばれていた。オランダ人達はロッテルダム要塞をオランダの王宮に見立て、そう呼んだのだろう。その当時、オランダ人はマカッサルの街を、故郷オランダの街並みの様式に倣って建設していた。ロッテルダム要塞の東には行政関係の建物が並び、その東隣の王宮広場は様々な行事に使われていた。日本軍政時代の地図をみると、ただ「広場」と書かれている。


謎の地下道

ロッテルダム要塞から現在のカレボシ広場を経て、バンク・インドネシアのマカッサル支店との間に秘密の地下道があるとの言い伝えがある。何の目的か分からないが、ロッテルダム要塞から外部への緊急脱出用であったのかも知れない。しかしカレボシは水田地帯で、地表には水が流れていたことを考えると、当時の技術で、長さ数百mの地下トンネルは考えにくい。日本軍政時代に、この話を聞いたマカッサル研究所の関係者がロッテルダム城の地下室を丹念に調べたがトンネルは見つからなかったという。


トンネルの長さ「数百m」と書いたが、現在のカレボシ広場の西側には Bank Internasoinal Indonesia (BII)、東側にはBank Nasional Indonesia (BNI) と Bank Indonesia (BI) があり、特定出来なかったためである。


七つの墓の謎

カレボシ広場には7つの墓がある。伝説によると、11世紀の初めのころ、ゴワでは、激しい闘争が続いていた。あるときゴワ王国は7日7晩にわたって、猛烈な嵐と落雷に襲われた。嵐は8日目になって漸く収まりつつあった。カレボシはそれまで乾燥した大地であったが、見る見るうちに緑豊かな土地となった。


小雨が残るなか、突然、地割れの音が響き、広場に集まった大勢の人々は驚き、不安が募った。そして次の瞬間、その広場の中ほどに、7つの盛り土が現れた。7つの盛り土から黄金色のガウンを着た7人が現れたが、まもなく小雨の中に消えていった。残されたものは香しい匂いのする盛り土だけであった。数百人の人々が、この驚嘆すべき瞬間の出来事に立ち会った。この7人はいったい何処から来たのかわからなかった。ゴワの民衆は、彼らが神から地上へ送り込まれたゴワ、マカッサルの神話に出てくるトマヌルン (Tomanurung) の神々であると信じている。その神とは雨をもたらすカラエン・アンゲラン・ボシ (Karaeng Angngerang Bosi)、次いでゴワの祖先であるカンロ・ボシ (Kanro Bosi) であった。カンロとは雨の神の賜りもの、ボシは雨、または溢れることを意味する。カレボシは神の恵みが雨となって降りる場所を意味する。


このカレボシの7つの墓は、今もなお、神の世界と現世の接点としてカレボシにかかわる多くの人々の生活に、目に見えない影響を及ぼしているという。世間一般の常識を越えた“事件”も起きている。例えば、マカッサルのサッカーチームPSM の練習場で、夜中に馬が走っていて突然消えてしまったり、何年も調教されてきたサーカスの象が何頭も突然に暴れ出し大混乱に陥ったり、しかし、こちらからちょっかいを出さなければ人間に悪さをしないという。広場の関係者は、周辺の物売りも含めて、毎年7つの墓の墓参りを欠かさないという。


参考資料

Copyright (c) 1997-2020, Japan Sulawesi Net, All Rights Reserved.