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世界三大夕日の一つとも言われるマカッサル湾に沈む夕日は多くの観光客を魅了する。しかしその水面下には、戦後60年を経過した現在も、大戦中に沈められた日本の艦船が数多くの英霊とともに海底に横たわっていることはあまり知られていない。
愛媛県出身の陸軍兵長であった池田二郎さんは昭和20年3月28日、所属部隊がジャワ島マランに転進するため第11号掃海艇に乗艦し、マカッサルを出航した。出航して約20分後、艇が微速航行中に米軍機B24の爆撃を受け、出航後50分、港から3海里の地点で沈没した。乗船者300名中生存者は81名であった。残りの219名は行方不明となり、恐らく大多数は狭い船内から脱出できず艇と運命をともにしたと判断され、翌月の昭和20年4月29日池田二郎さんの戦死が確認されている。池田二郎さんの実妹にあたる笠原美代さんは1997年マカッサル沖にあるカヤンガン島を兄の慰霊のため訪問している。この間の事情については2004年に笠原美代さんが自費出版された「セレベスの海底から」-池田二郎の青春をたどるーに記されている。(写真左上は表紙)
池田二郎さんが乗船した第11号掃海艇は基準排水量630 ton、全長 72.5 m、喫水 2.60 m、機関は2軸減速タービン、2缶、3850 shp,速力 20 knot、12 cm/45 口径砲 3門、 25 mm 対空機銃 2門、浦賀船渠建造、1945.3.28.戦没(航空攻撃/マカッサル沖)(沈没地点 05.06S, 119.14E) 1945.5.10 除籍と記されている。
第11号掃海艇と同型の第26号掃海艇 (写真提供 田原茂生氏)
2005年12月末、 サマロナ島から NWー315度、約 1.4 マイル(約 2.22 キロ)(記録されている沈没地点とほぼ同じ場所)、水深26mの海底で第11号掃海艇と思われる船の残骸と約30柱の遺骨が発見された。地元漁民によれば船体はブリッジ部分は無く、約45度傾斜している。遺骨の状態は衣服と共にバラバラで泥と砂にまみれている。このうち 頭蓋骨はまだ3名ほどしか見つかっていないと云う。 海底から見つかった真鍮製銘板には「九三式探信儀 一型配電筺、製造番号第38、昭和13年12月製作、株式会社東京計器製作所」と書かれていた。これで艦名を特定できないか確認のため東京計器製作所を継承する現在の株式会社トキメックへ照会を行った。しかし残念ながら同社には終戦前の資料は一切残されていなかった。同社が九三式探信儀を製造していたことすらも確認できない状況であった。この遺骨発見の報は厚生労働省・社会援護局へ伝えられた。同時に、セレベス会(戦友会)のメンバーを通じて遺族の一人である笠原美代さんへも伝えられた。
2006年4月2日、厚生労働省の求めにより海底の状況の写真撮影が地元ダイバーの協力により行われた。ダイバーによると2001年に同じ場所に潜水したことがあり、そのときはまだ艦の原型が留められていたが、現在は全く艦としての形がないという。マカッサルでは地元漁民が海底から船体を切り出しスクラップ材として市中で売りさばいているという。本来はマカッサルのダイビング・スポットの一つとされるこの水域は写真撮影の日も多くの漁民が解体工事を行っていて水は濁っていた。(写真上)厚生労働省の説明によると沈没艦船等の海没遺骨の収集は基本的には実施しない。しかし日本の沈没艦船であり、日本人の遺骨または遺留品が確認できる状況にあり、遺骨が船体より流れ出してしまう状況や、漁師等が持ち出していることなどにより遺骨の尊厳が損なわれていることが明確に確認できれば早急に調査するとのことでした。第11号掃海艇の場合には遺骨は船体解体工事現場に放置されているわけですからどう考えても遺骨の尊厳は大きく損なわれているわけです。このまま船の解体工事が進むと遺骨の破損、流出が進むので早急に工事の中止するよう協力してくれたダイバーから要望がありました。しかしここはインドネシアですから正式に日本政府に動いて頂く以外に方法はありません。一日も早く遺骨の回収が行われるとを祈念します。
マカッサル港外には別の掃海艇も沈んでいる。 昭和18年9月11日第16号掃海艇が航空攻撃により沈没している。場所は06.08S, 119.20E と記録されている。 また昭和19年の中頃マカッサル海峡において、我が掃海艇が敵の潜水艦の攻撃を受け大破し、マカッサルに入港して多数の負傷者が病院に運ばれてきたが、艦内の蒸気配管の破裂による熱傷患者が多くいたと当時マカッサルにあった海軍病院に薬剤官として勤務した秋山尚之氏の回想録(31頁)に書かれている。この掃海艇は第何号であったのかは定かでない。
マカッサル湾に沈んでいる日本の艦船はこれだけではない。マカッサル沖の旧日本の艦船は格好のダイビング・スポットとなっている。1996年 Periplus 社発行の Diving Indonesia によるとマカッサル沖に沈んでいる艦船は Keke 島の北東 10 km 近くの駆逐艦、Samarona 島の西方向 5 km の補給艦が存在すると記されている。(P199)。
Diving Indonesia に記されている Keke 島近くの駆逐艦は 1942年2月8日マカッサル攻略作戦 中に敵潜水艦の攻撃を受けて沈没した一等駆逐艦「夏潮」(Natsushio) ではないかと思われる。この艦は藤永田造船の建造、基準排水量 2000t、全長 118.5m、全幅 10.8 m、 喫水 3.76m、速力 35ノット、2軸、兵装は12.7cm/50口径両用砲 連装3基 6門, 25mm対空機銃 4門, 61cm魚雷発射管 四連装2基 8門, 爆雷 16 発と記されている。沈没地点は ”05.10S, 119.24E” と記されている。 別の資料によると、2月9日、駆逐艦「夏潮」、マカッサル上陸部隊支援中、米潜水艦「S37」の雷撃を受け沈没 、戦死8、戦傷6、と記載されている。 出典 :秋山尚之氏の回想録(209頁)では2月8日22時15分右舷後部より雷撃を受け沈没したと書かれている。
Keke 島の西3km、水深40mの地点で同艦と思われる船体があり、前出のマカッサル漁民の話ではここにも大量の遺骨があるとのことです。艦橋には椅子に座ったままの姿の遺骨があるそうです。おそらく最後まで脱出せず運命を艦とともにした艦長の遺骨ではないかと思われます。漁民が知っているということは第11号掃海艇と同じように艦の解体が行われている可能性があるりますが、水深が40mと素潜り可能な水深を越えているので第11号掃海艇ほど解体は進んでいないようです。しかし解体工事現場であることには変わりはありません。遺骨の尊厳を守るため、早急の調査が必要と思われます。(追記 2006-6-30)
「艦内を廻って分かったことだが、軍艦と云うものは防災上一般の船と異なり部屋も通路も隔壁によって細かく仕切られていて、その隔壁の扉には人が潜って通れる位のマンホールの様な穴が作られて有って、戦闘態勢に入ると通路の扉は閉鎖され、扉に付いているマンホールの穴の蓋を外から閉めきって通行は遮断されてしまい、内部との連絡は電話だけになってしまう。これは戦闘の際敵の砲弾、魚雷が当った場合被害を最小限に防ぐ為で、当然中にいる者は外に出られないので犠牲になってしまう。」と当時艦内の環境調査を行った秋山尚之氏の回想録「海軍薬剤官の思い出」(13頁 非売品)に書かれている。(追記 2006-2-20)
戦没者の遺骨収集活動を行っているJYMAのデータでは、太平洋戦争中インドネシアにおける戦没者は約 31,400人、そのうち遺骨送還は 11,020柱、残存遺骨は 20,380柱と記録されている。 戦没者数については別の数字もある。国立千鳥ヶ淵墓苑の「大東亜戦争における主要地域別陸海軍人軍属戦没者数一覧図」によると、旧蘭領印度の地で11万7千200人の方が亡くなっている。そのうち、セレベスの戦没者数は5500人という。(加藤裕著 「大東亜戦争とインドネシア」発行 朱鳥社2002年9月30日) 終戦直前の1945年6月、連合軍はハルマヘラに上陸、7月にはバリクパパンに上陸し、現地の日本軍はほとんど全滅し、終戦を迎えた。終戦があと1週間遅かったら連合軍はマカッサルに上陸し、もっと悲惨な結果になっていたと云われている。
戦争の犠牲になったのは陸海軍人、軍属だけではありません。スラウェシ島の周辺には多数の日本の一般船舶も沈んでいます。神戸にある全日本海員組合関西支部「戦没した船と海員の資料館」の資料によると、スラウェシ島周辺で戦没した一般船舶の数は合計61隻に上ります。内訳は;
とされています。戦死者の総数ははっきりしませんが、1944年8月29日に北スラウェシ半島周辺で被雷し、全没した大阪商船(5785総トン)「めき志こ丸」の場合、戦死者は乗船部隊825名、船砲隊1名、船員21名が戦死とされています。(追記2009-5-24)
揺れる波がほんとうに美しいセレベスの海だ。海底にいる219人の兵士の魂が、いま目覚めて、故郷日本からの声を聞いて一斉に小躍りしているような気さえする。私はそう信じたいと思った。「またマカッサルにみんなで来ましょうね。あなた方のお父さんの遺骨や、私の兄の船が見つかるまで、またマカッサルに来ましょうね」 私はMさんの手を握って、しみじみと言った、と笠原美代さんの「セレベスの海底から」に書かれている。
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