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戦後60年ぶりの恩返し

元海軍航空兵“不時着”助けられた感謝の心込め
中央スラウェシ州バンガイ県に旧日本軍パイロットの記念碑



 太平洋戦争末期、昭和20年5月、日本の海軍航空兵、菊池敏和さん(当時19歳)の操縦する九七式艦上攻撃機が、飛行中、ガソリン漏れのエンジントラブルを起こし、中央スラウェシ州の東端に位置するバンガイ県(Kabupaten Banggai)、ラマラ郡 (Kecamatan Lamala) タンゲバン村 (Desa Tangeban) の村落トゥンボルの湿地帯に不時着した。子供を含む大勢の村民が懸命に後押しして、機体を安全な草原に移してくれた上、菊池さんらは、村長宅で歓待された。この攻撃機には機械技師と土木技師が同乗していた。機械技師は、親日的な村民達の協力が得て、エンジンの応急修理に取り組んだ。壊れた車輪も、土木技師が、地元の堅い木材を使い、村民の助けを借りて修理した。クンダリにあった海軍基地からは、ガソリンが牛車で運ばれてきた。不時着して約1週間で修理を終えることができた。郡長、部落長は、日本の飛行機が再び離陸できるよう、草原を急ぎ整地するよう住民に命じ、住民は茅の草原を、長さ250m、幅10mにわたって刈り取り、滑走路を造ったという。離陸の際は、村民が飛行機を後押しして助走を助けた。何度も離陸に失敗したが、8回目の挑戦で機体はフワーと浮き、そのまま機体を左右に振りながら(感謝の表示)飛び去った。当時修理に協力した地元の関係者は、そのときのことを、今もはっきり覚えている。菊池さんの操縦する艦上攻撃機は、スラバヤからシンガポールを経由して、目的地のペナンに無事到着、任務を果たした。



 この感動的な出来事について、報告を受けた菊池さんの上官は、機体の損傷がなかったことをホメでくれたという。そして終戦、菊池さんは昭和22年8月復員、郷里の兵庫県姫路市に戻った。誰しもがそうであったように、戦後はあっという間に過ぎていった。この間、菊池さんの胸中には常に大きな“わだかまり”が去来していた。 「あの時、私たちを助けてくれたタンゲバン村周辺の、素朴で、人間愛あふれた村民の皆さん、この方々にお礼をしない限り、私の戦後は終わらない」 そう思い続けていた菊池さん、このままでは徒に老齢を重ねるばかりだと、思い切ってマカッサル総領事館に手紙を送った。「不時着して助けられた村があり、ご恩返しがしたい。」手書きの、簡単な地図が添えてあった。平成12(2000)年末のことであった。



 ほんとうに雲を掴むような話であった。普通なら、こんな要望に応えることは出来なかったと思う。幸いなことに、この手紙を読んだマカッサル総領事館の佐久間さんは、インドネシア、特にスラウェシ島を含めた東部インドネシアに精通していた。その上、島内各地の有力者との強力なネットワークも持っていた。佐久間さんは、中部スラウェシ州の有力者で、親友でもあったパウル氏をはじめ、地元新聞社、関係者にそれぞれ手紙を送り、場所探しを依頼した。やはり1年以上も返事はなかった。そして平成14(2002)年3月、パウル氏から、場所が判ったとの待望の連絡が入った。そこで調査官を現地に派遣して、村民から、前述の体験談を聞き、不時着の場所を特定することが出来た。このことは直ちに日本の菊池さんに通知された。菊池さんは、お世話になった村の人達に感謝の気持ちを伝えるため、現地で必要とされる農機具、発電機、消毒器、集会所で使う椅子250個、テントシートなどを贈ることを決め、これら機材は総領事館の協力を得て、マカッサルで調達された。

 しかし、これら機材を、マカッサルから現地に運搬するには様々な障害があった。当時、中部スラウェシでは民族紛争が続いていた。また、雨期には、豪雨により、橋や道路が寸断されるなどしたため、機材の運搬は遅れに遅れた。それから2年後、平成16(2004)年8月末、ようやく機材の搬送が完了した。菊池さんがマカッサル総領事館に手紙を出してから4年が経過していた。東部インドネシア全域を管轄するマカッサル総領事館、大事な案件が目白押しの中で、放っておけば、超多忙のなか、恐らく日の目を見ることは無かったであろう、このような地味な案件を、業務の合間をぬって、数年間に及んだ、佐久間氏とパウル氏の根気、忍耐力、誠実さには、ほんとうに頭が下がる思いがします。

 その後平成16(2004)年9月、タンゲバン村で物品受領式が行われ、記念碑が建てられた。また菊池さんへは「名誉村民」の感謝状も贈られた。タンゲバン村長は、日本にいる菊池さんに向けて、次のような礼状を発送した。「今回のご援助は、タンゲバン村社会を発展させる上で、住民にとって、たいへん価値のある、有益なものと期待しています」。

 以上は藤井元秀氏の主宰する季刊「忙中閑話」平成17年冬期号に掲載された、特別・人間ドキュメント「戦後60年ぶりの恩返し“不時着助けられた感謝の心込め インドネシアとの親善に一役、元海軍航空兵」をもとにして取り纏めました。現地の人達からみた戦時中の日本人の印象は、民政関係者、商社員など民間人については概ね良好ですが、軍関係では、職務上やむを得ない面もありますが、芳しくない話も聞こえてきます。こうした中、菊池さんの記念碑はほんとうに貴重なものと思います。あまり知られていない、心温まる話なので、ここに再録させて頂きました。(文責:脇田清之)

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