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幻のマカッサル木野少佐忠魂碑
Tugu Pahlawan Yang Terlupakan

Nur Kasim、Wakita K.

Abstrak



Tugu "Pahlawan Indonesia" itu diresmikan oleh Mayor Jenderal (Purn) Andi Mattalatta pada 12 September 2003, adalah monumen pendaratan Tentara Rakyat Indonesia - TRI (sekarang Tentara Nasinal Indonesia - TNI) asal Sulawesi Selatan pada 26 April 1950. Tujuan operasi adalah untuk pengambilan alih Negara Indonesia Timur (NIT) yang dipimpin oleh Kolonel A.E. Kawilarang. Operasi tersebut diberi nama "GERAKAN PERTIWI". Operasi ini sehubungan dengan pemberontakan Andi Azis di Makassar pada 5 April 1950.(Nur Kasim)

Kemungkinan di masa lalu, struktur tugu itu, digunakan sebagai peringatan untuk letnan Kino, prajurit mahasiswa dalam Angkatan Laut Jepang di Makassar, tewas pada pertempuran di udara Makassar pada tanggal 23, Juni 1943. Setelah Perang Pasifik, orang Jepang kembali ke Jepang, orang-orang Makassar mengetahui pada waktu itu berkurang, tugu peringatan itu menjadi terlupakan.(Wakita)

太平洋戦争中の昭和18年6月23日、同志社高等商業の学徒兵、木野中尉がマカッサル上空にて壮烈な戦死を遂げた。盛大な葬儀が軍によって行われ、民間人も、またインドネシアの人達も、木野中尉はマカッサルを救った英雄だというので、多勢参列したという。連合艦隊司令長官古賀峯一大将はその殊勲を全軍に布告し、木野予備中尉を少佐に、同乗の真鍋二等飛行兵曹を上等飛行兵曹にそれぞれ二階級特進をもって報いたという。二人の勇士のため、ロッテルダム城前の海岸に忠魂碑が建てられた。

 日本の敗戦後、1946年1月、スラウェシの統治権が豪州からオランダに移管され、その後、1946年12月27日にはオランダの傀儡国家、東インドネシア国 (Negara Indonesia Timur、NIT, 首都マカッサル)が発足し、この体制は1950年まで続く。しかしスラウェシはその後も動乱が続く。戦後再び日本人がスラウェシを訪れたのは1965年以降のころからと思う。

木野少佐の忠魂碑も日本の軍政下1943年11月、ロッテルダム要塞の前に建立されたが、歴史の波に翻弄され続けることになる。いつごろのことか不明であるが、戦後日本人が再びマカッサルを訪れたとき、木野少佐の忠魂碑は PAHLAWAN INDONESIA (インドネシア英雄の碑)と書き換えられていた。 太平洋戦争当時従軍記者としてマカッサルに滞在し、木野氏とも交流のあった、作家戸川幸夫氏は著書「戦場への紙碑」のなかで、次のように書いている。 「木野少佐の忠魂碑が建った頃は、その碑は軍神の碑として、マカッサルを護った英雄の碑としてそこに集う日本人やインドネシア人から仰がれたであろう。だが日本が負けて、日本の威光がなくなると、碑の価値はインドネシア人の間ではなくなった。ただ彼を慕い、心からありかたいと思った人が英雄として認めていた。  それも時が経ち、当時のことを知るインドネシア人も少なくなってくると、単なる路傍の石のごとき存在となり、いつしかそれは自国独立の栄誉を示す“英雄の碑”へとすり変えられた。歴史がそうさせたのだ。私は潰えることもなく消え去ることもない真実の碑 -紙に書かれた碑-の価値をこの頃つくづく大切だと思う。」



 元木野少佐忠魂碑の歴史はまだ続く。2003年9月12日、この旧木野少佐忠魂碑に新しい命が吹き込まれた。この「構造物」はスラウェシ島が太平洋戦争のあと、東インドネシア国として、オランダの傀儡国家となったが、南スラウェシのインドネシア人民軍(Tentara Rakyat Indonesia)が 1950年4月26日、東インドネシア国から主権を引き継ぐため、マカッサルに上陸したことを記念する碑としての使命が与えられた。GERAKAN PERTIWI (祖国のための運動?)とも呼ばれている。スラウェシが長い闘争の歴史を経て、やっとオランダから解放された記念すべき日であり、大事な碑であると思う。 2003年9月12日にアンディ・マタラタ退役少将によって除幕式が執り行われた。

戦時中マカッサルにあった木野少佐忠魂碑のこと



昭和18年6月23日、ポートダーウインを飛び立った16機のコンソリデーテッドB24型爆撃機がマカッサルに飛来した。木野はマカッサルにあった九七式艦上攻撃機に乗って爆撃機編隊の指揮官機に体当たりし、マカッサルを空爆から救った。

Pada hari Rabu, 23 Juni 1943, untuk pertama kalinya pasukan Angkatan Udara Sekutu menyerang dan membom Angkatan Laut Dai Nippon yang sementara sandar di Pelabuhan Makassar . Tujuan sasaran itu adalah untuk melumpuhkan kekuatan Angkatan Laut Jepang. Selain itu, beberapa tempat diserang termasuk perkampungan, pabrik, dan Benteng Ujung Pandang pusat kekuatan militer Jepang. Penyerangan mulai jam 11.00 sampai jam 15.00 yang mengakibatkan banyaknya tentara Jepang luka-luka dan meninggal dunia termasuk penduduk yang sedang bekerja di pelabuhan. (Nur Kasim)

Dalam peristiwa 23 Juni 1943 itu juga , sebuah pesawat tempur Jepang "Nakajima Ki-27" yang lepas landas dari bandara Mandai, Maros (30 km sebelah utara Makassar) yang dipiloti Letnan Yuji Kino menabrakkan pesawatnya ke sebuah pesawat tempur Amerika "Pelly-Can" B-24. (Nur Kasim)

Peristiwa bunuh diri (hara-kiri) pasukan Jepang itu yang pertama di wilayah barat. Yuji Kino yang masih muda (24) beserta kesembilan tentara Amerika dalam pesawat tersebut tewas. (Nur Kasim)

 木野中尉の壮烈な戦死はたちまちマカッサル全市民に知れわたった。盛大な葬儀が軍によって行われ、民間人も、またインドネシア人達も、マカッサルを救った英雄だというので、多勢参列したという。木野中尉戦死の発表に先立ち、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は18年11月3日に機密告示第29号で、その殊勲を全軍に布告している。そして木野予備中尉を少佐に、同乗の真鍋二等飛行兵曹を上等飛行兵曹にそれぞれ二階級特進をもって報いたという。またロッテルダム城前の海岸に忠魂碑が建てられた。

昭和19年春季大祭記念「靖国之絵巻」に描かれた絵画と聯合艦隊司令長官の感状

江崎孝坪の絵画「学徒荒鷲 マカッサル上空の殊勲」



 画像:粟竹章二氏提供

感状

木野海軍豫備中尉の指揮せる 第○○海軍航空詼艦上攻撃譏

昭和18年6月23日 マカッサル方面の警戒に従事中、敵大型機16機来襲、同港在泊艦船及倉庫地帯に對し執拗なる攻撃を開始するや挺身之を阻止せんとし、敢然単機克く敵中に突入.敵一番機に對し體当たりを敢行して之を撃墜し逖に敵の企鵬を破砕せるは其の武勲顕著なりと認む。 仍て茲に感状を授与す
   昭和18年11月3日  聯合艦隊司令長官

経緯

木野宥治(大正7年(1918)8月26日ー 昭和18年6月23日)は、同志社高等商業の学生で、学徒兵として出陣してきた士官で、海軍兵学校出とはどこか違って、いうなればチャキチャキの軍人ではなくて、どこかに一般社会人らしい体臭があったと、マカッサルで従軍記者を務めた戸川幸夫氏の著書「戦場への紙碑」に記録されている。木野の家は京都の織物問屋で、古めかしい雰囲気の中で育った彼はどことなくおっとりしていていたという。その木野が昭和18年6月23日、マカッサル上空にて壮烈な戦死を遂げた。昭和18年6月23日、ポートダーウインを飛び立った16機のコンソリデーテッドB24型爆撃機がマカッサルに飛来した。木野はマカッサルにあった九七式艦上攻撃機に乗って爆撃機編隊の指揮官機に体当たりし、マカッサルを空爆から救った。

当時マカッサルの航空基地に常駐する航空機は、九七式艦上攻撃機一機しかなかった。しかし二十三根拠地隊司令官は木野中尉の属していた九三二空に対して、「敵機が飛来した場合は形式的でもいいから飛び立って市民の前で迎撃する姿勢を示してくれ」と言い渡していた。しかし一機だけで、16機からなる爆撃機編隊を迎撃なんてとても出来ない。しかし、飛行場があるのに一機も飛び立たないというぶざまをインドネシア人たちにさらしたくないためだったという。

この日、マカッサル基地にある常駐機は早朝から対潜警戒に出かけていて、空襲警報が鳴り響いたとき飛行場には飛行機は皆無であった。しかし木野中尉は警報を聞くと、すぐに飛行服に着がえ出動に備えた。    防御力も強く、戦闘力もあるB24の編隊に、空中戦には弱い艦攻がただ一機で刃向かっていったとしてもどれだけの効果があげられるか - そんなことは誰も考えなかった。ただじっと地上に待機していることは耐えられないことである。武器も満足でないガタの飛行機たった一機で、敵の新鋭爆撃機編隊を蹴散らすには、どうしても敵の指揮官機と剌しちがえて、敵のど肝を拔くしかない、と木野中尉は考えたとのではないか。根拠地隊では形式的に飛び立ってくれさえすればいい、と言ってたようだが、木野中尉の性格からしたら、そんなごまかしは嫌だったに違いない。

当時九三二空司令だった佐土原親光氏(当時大佐)によると、彼は温厚で、無口で、孤独で、閑なときは居睡りばかりしていたので、当時の私にはなんとも頼りない部下のように思えてなりませんでした。その彼が咄嗟の間にあれだけ冷静で周密な配慮のうえに、敵指揮官機と剌しちがえるということをやったのですから私は非常に驚嘆しました。真の勇者という者は、見かけだけではなかなか判じ難いものだと、つくづく反省したという。

木野中尉が母、姉へ送った手紙

拝啓 御手紙拝見有り難う御座いました。  坂本竜馬氏大西郷を評して曰く「彼は大鐘のような男だ。大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と。最近漸くこの言葉の意味が判ってきました。僕が海軍予備航空隊に入隊した第一日、部長は我々に曰く「海軍のスピリット、伝統的な気風は黙ってやる。黙ってただ実行練磨する事だ。黙って実力を養うんだ。宣伝なんかしなくても、真の実力者はグングン頭角を表して行くものだ。今の事変の海軍航空隊の活躍を見ろ」と。  僕が高商へ入学して約一年、つくづく感ずることは世の中、特に学校内になんと又口ばかりの人間が、実力のない人間が多い事だろう。口に政治・哲学・法律・経済等を一人前に論じながら、学校の僅少の学課の予習復習さへも満足にやるだけの根気と、学問に対する熱と実力のない人間が、なんと多い事だろうということです。  僕自身、過去、現在を反省して誠に、口に南進政策、海洋政策を論じながら、僅かに英・数・国・漢の高商入試をも突破出来なかったのです。僕は足元を忘れていました。大きな落とし穴のある足元を。無論我々の全ての行動を律し統一すべき志は必要です。そしてその志に対する実行力と熱と信念を持って、自己の生活の第一根本より基礎を固めて行くべきです。そして黙ってやることです。黙って実力を養うんです。世は実力の時代です。大学卒・高商卒の肩書きが何の役にも立たない時代です。一に実力、二に実力です。そして大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く、底知れぬ実力者たるべく努力せねばならぬ事が、ようやく判って来ました。  母上、昨日より発熱流感との事。僕は肺炎の怖れなき様子なれど目下静養中、至極元気、食欲旺盛、着々快方に向かい居り、又十分無理せぬように監督中なれば御安心下さい。  帝都も流感、大流行との事、くれぐれも御注意を。  御義兄上章君によろしく。  姉上様    宥治

木野少佐の実母らくさんから戸川幸夫に送った手紙

 『悴の戦死のことは当時セレベスにおられた新聞記者の方が内地転勤の折に知らせて下さいました。そのときはただくるものがきたと感じたのですが、しかし時が経つにつれ、子を失った母の寂しい気持ちは誰とても変わりはありません、お察し下さい。日本ももうすっかり変わって、大東亜戦争も遠い昔のことになりましたが、当時の青年として国に殉ずると信じた道を歩んで散ったのですから本人は満足いたしておりましょう。私どもは若くして人生もろくに知らずに逝ってしまった倅をふびんだと思いますが、本人はこれでいいのだと喜んでいると思います』

参考資料

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