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2020年12月13日 現在
太平洋戦争の初期、南スラウェシほか東部インドネシア各地で活躍したハジ・ ウマール・ファイサル 小林哲夫の墓は、いまマカッサルのイスラム霊園(墓標識:209H)にあります。
(写真1 ハジ小林の墓の現状、2017年 粟竹章二氏撮影 土砂に覆われ、たいへんひどい状態です。)
(写真2 ハジ小林の墓の現状、2017年 粟竹章二氏撮影)
ハジ・小林は太平洋戦争当時、マカッサルの日本海軍占領地域で、軍政に反発する地元回教徒と海軍民政部との間に立ち、相互理解に尽力しました。当時マカッサルにあったイスラム組織を改革し、新たなイスラム教育のための組織(回教学院)を設立するなど、現地の若者の教育にも尽力、現地社会の発展に貢献しました。 戦後75年を経て、日本では彼を知る方々はすでに他界されてしまい皆無の状況です。しかし当地では、日本軍政時代の宗教指導者として語り継がれています(注1)。因みに2004年の時点でも墓探しが行われています(後述)。また2018年9月にはインドネシア宗教省の主催で「ハジ小林」に関係するセミナーがマカッサルで開催されました。
(写真:宗教省主催のセミナー風景(ハジ小林の写真が紹介されました。)
注1:マカッサルで市販されている宗教書「マカッサルにおけるムハマディア」 (Sejarah MUHAMMADIYAH di Makasssar)では日本軍政時代のムハマディア(Muhammadiyah Pada Masa Pendudukan Jepang)について12頁にわたって記述されています。Refleksi 出版 2007年
ハジ小林の戦死後、墓は当時の日本人並びにイスラム教徒によって雄大な墓が造られました。しかし日本敗戦後、墓はオランダ軍、オーストラリア軍によって破壊されてしまいます。その後この地を訪れた金子啓蔵氏が、僅かに残った墓石の一部を発見し、ゴアのラジャの協力で、旧墓地から600メートルばかり離れたロマンロンペア村の森の中に移されました。というのはボロンロエの森はゴア製紙工場の敷地となり、近代的工場が日本の技術によって建てられました。そしていまはハサヌディン大学工学部の敷地になっています。
戦後、1966年、ハジ小林の義弟、新田目直寿氏がゴワに残っていた墓の破片を集め、1966年、墓はマカッサルの霊園に移されます。
写真:バタヴィアでの新田目直寿氏(中)、左は吉住留五郎 (1940年)
出典:後藤乾一著「火の海の墓標 あるアジア主義者の流転と帰結」P119 時事通信社 1977年
新田目直寿氏は1941年(昭和16年)からジャカルタの日本領事館に勤務、太平洋戦争中はマカッサルで民船運航会(地元が保有する小型船舶の運航を指導し、海上輸送を担う団体)理事長を務めました。戦後は両国の経済協力計画に参加していました。1970年没。
参考資料:文藝春秋 昭和46年12月号記事「スカルノが惚れた日本人 軍部にも抵抗し、異国の独立運動に飛び込んで戦い そして死んだある日本人の数奇な運命」石川真(サンケイ新聞社会部)
(1966年マカッサルの霊園に建立時の写真と思われます。 出典 小村不二男著 日本イスラーム史 P266)
マカッサルの墓の建立からまた50年以上を経過しました。墓地は洪水による土砂の流入もあり、殆ど埋没した状態です。改修が必要と思われます。しかし新田目氏が建立された墓を第三者が勝手に手を入れる訳にはいきません。周囲の墓も土砂による埋没しないよう嵩上げしている様子が伺われます。
ハジ小林、新田目直寿さんのご親族についての情報をお持ちの方はご一報お願いいたします。連絡先:wakitak@mua.biglobe.ne.jp 脇田
1966年建立時の墓地の写真と現状がかなり異なるので Kasim さんが墓地を訪問調査を行いました。以下にカシムさんから受信したメッセージを転載させて頂きます。下に仮和訳をつけてあります。
Saya sudah ke Makam Kobayashi, (28 Juli 2020, Selasa) bertemu dengan Petugas Pemakaman Islam bernama Talib yang mulai bekerja di tempat itu sejak tahun 1985. Sedang kakaknya, bernama Daeng Sila sudah bekerja di pemakaman itu sejak tahun 1960-an. Sdr. Talib mengenal Kobayashi dari cerita orang lain termasuk dari kakaknya sendiri, bahwa beliau seorang ulama (tokoh agama Islam).
Bahwa Talib sejak mulai bertugas, makam Kobayashi sudah ada disitu, makamnya tidak pernah berubah, memang pemakaman itu dulu teratur sama dengan foto dari Mr. Makoto Ito. Bahwa makam Kobayashi terletak pada Blok H dengan nomor 209. Saya periksa teks makam dibagian belakang, ternyata masih ada tertulis S.F. Umar Faisyal dan bagian bawahnya tertutup oleh kuburan lain (lihat foto dari saya). Makam Kobayashi tidak pernah di dalam Pemakaman Pahlawan. Menurut keterangan Sdr. Talib, bawha dulu ada seorang tua yang sering mensiarahi, orangnya kecil, wajahnya seperti orang cina.
墓の管理人タリブさんは1985年からこの墓苑に勤務しています。タリブ氏の兄も1960年代から勤務していました。「ハジ小林の話は兄や他の人から聞いています。タリブ氏が着任したとき、すでにこの墓はあり、日本イスラーム史P266 に掲載された写真の通りである。墓を造り替えたことはありません。墓地は、かつては写真のように整然としていました。」とのことです。
ブロック H 209番の墓碑の裏側には "HADJI S.F.UMAR FAISAL" の文字が読み取れます。しかし、その下の部分は隣接する墓により隠されている。1966年に建立した状態のままであることは間違いないようです。タリブさんの兄の話では、かつて小柄な中国人風の老人がしばしば墓を訪れていたそうです。 新田目直寿氏は1970年に亡くなられているので、戦時中マカッサル民生部に勤務した粟竹章二氏によれば、おそらく小柄な中国人風の老人は金子啓蔵氏ではないかとのことです。金子啓蔵氏はラトランギ博士などと親しくインドネシア独立に向けた活動をされていますが、詳しい資料が見つかりません。
金子啓蔵氏(左上、1962年2月27日図南春秋会にて 粟竹章二様提供)
墓の建立後50年以上を経過し、大きく変わっている点は、a) 土砂の堆積による墓の埋没と、b) 隣接墓地が小林の墓に侵入してしていることです。建立時の写真に見られる墓標は一番上の行だけがコンクリートの上に出ているだけです。
ブロック H 209番の墓碑の裏側には "HADJI S.F. UMAR FAISAL" の文字が読み取れます。
上は同じ部分を少し離れて撮影した写真です。
下図は墓の建立時と現在の状況を比較するためにカシムさんが描いたスケッチです。
スケッチの上が1966年建立時の状態、下が現状です。隣の墓を退却させ、墓標の文字が読めるよう墓地管理事務所から墓の所有者に伝えるとのことです。こうした行為は決して正当化さません。抗議することが出来るとカシムさんから連絡がありました。
Petugas Pemakaman akan menyampaikan keluarga makam itu untuk menggeser termasuk teks yang tertutup. Hal tersebut tidak dobenarkan, kita bisa keberatan.
2020年7月28日時点におけるハジ小林の墓
2004年5月7日の Pedoman Rakyat 記事です。墓は現在のものと同じようです。今回は2015年頃カシムさんから墓探しの協力要請があり、今日に至っています。10年も経つと世代が変わるとまた同じような調査依頼が来るかも知れません。
ハジ小林についての一般情報は下記をご参照ください。
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