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セレベス時代の三浦 襄

脇田 清之

戦前の昭和5年(1930年)から終戦の昭和20年にかけての約15年間バリ島で事業を興し、バリの人達からトワン・ブサル・ミウラ(三浦大旦那様)と親しまれた三浦襄(みうら・ゆずる、または、じょう)は、バリ島へ渡る前、大正1年(1912年)から昭和5年 (1930) にかけての約18年間、セレベス島を拠点として仕事をしています。彼のセレベス時代の足跡を辿ることにより、当時のセレベス島の様子を探ってみたいと思います。

南洋商会を脱退してマカッサルで小売業



三浦襄は明治20年(1888年)宮城県仙台で生まれ、明治41年(1908年)11月、明治学院を中退し、実業家、堤林数衛の設立した「商売」と「伝道」を目的とした南洋商会に入会した。当時いわゆる「南洋熱」はまだ起こっておらず、国民は朝鮮半島、満州という大陸に注目していた頃だったので余程の決意があったと思われる。明治42年(1909年)4月、三浦は堤林ほか12名とともに神奈川丸で横浜港を出発し、ジャワ島のスマランに到着した。現地語を解さぬまま、手まね、口まねで各家庭を廻る行商であったという。商品は主として売薬、雑貨であった。しかし明治42年(1909年)11月、三浦を含む数人の青年は南洋商会を去って行く。理由は、経営方針に不満を持ったのではと言われている。三浦はその後、バリ、ロンボック、スラバヤなど各地を視察したあと、大正1年(1912年)12月セレベス島マカッサルに移り、同地に雑貨、小売業を開業た。この商売を一人でやったのか複数でやったのか不明である。大正5年に帰国して結婚しているので、一応の成功を収めているものと推察される。(原誠「日本キリスト者三浦襄の南方関与」)(写真左上:産経新聞 平成17年2月7日 記事から)



日印貿易商会



三浦襄は更に大正7年(1918年)2月、マカッサルに鶴間春二と共同出資で「日印貿易商会」を開業。商会の設立は大正5年(1916年)12月。1921年「南洋年鑑」によると、日印貿易商会は本店をマカッサル、支店、出張所が4ヶ所あったという。業務内容は1)南洋における通商貿易、2)栽培漁業、3)製油、4)採鉱、造船であった。資本金120万円、うち払い込み額は60万円で、この規模は他の個人商社と比較して特に大きくはなく、ほぼ中規模であるという。日印貿易商会は第1次世界大戦後の好景気を背景に順調に経営を伸ばして行った。一時期、専用の貨物船購入の話出るほど業績は良かったという。当時、三浦襄はセレベス島のマカッサルの日本人会(会員数140名)の理事にも就任している。しかし、共同経営者の鶴間春二が、たまたま三浦の帰国中、大正14年(1925年)頃、マカッサルで強盗に襲われ、資金を奪われ、殺害されたことにより、日印貿易商会は解散した。(原誠「日本キリスト者三浦襄の南方関与」)



三浦襄は新しい事業を興すにあたり、何故、マカッサルを選んだのであろうか。現在インドネシア国内におけるマカッサル港の地位の低下は著しいが、その当時マカッサル港はまだ香料貿易により築かれた重要港湾の地位を保っていたのではないか。さらに、マカッサルとタカラールとの間の鉄道建設、マカッサルの市庁舎の完成、また、日本の漁業関係企業がビツンに進出するなど、セレベス島が大きく発展するムードが高まっていたからではないだろうか。当時日本人会の会員数140名は、現在は60名程度であるから、現在よりも多くの日本人が活動していたことになる。(写真上:20世紀はじめのマカッサル マカッサル市立博物館蔵)



トラジャでコーヒー園の経営

その後、三浦はトラジャで岸将秀とコーヒー園の経営を開始し、岸が主に栽培技術面を担当し、三浦は資金面を担当したといわれる。台湾総督官房調査室「南方各地邦人栽培企業要覧」昭和4年(1929年)調査によると、このコーヒ園はバルップ珈琲園(Baroeppoe Koffieonderneming) と称し、名義人岸将秀、共同出資三浦襄、主作物は珈琲、試作物は茶、規那(キナ 注1)その他果樹となっており、状況として「本園は海抜2000米に達し、気候極めて温和にして、専ら温帯植物の養殖に適するを以って、現在、養豚、養魚、養鶏の副産業を行い」と記されている。現地トラジャ人を20人雇ったと書かれている。

しかし昭和5年(1930年)11月に、このコーヒー園は、世界不況のあおりを受けて大失敗し、苦労して日本から持っていったオルガンをはじめ、いっさいの家財道具を山中に捨てバリ島へ移った。(原誠「日本キリスト者三浦襄の南方関与」)


マカッサルとトラジャのランテパオ間の道路が開通したのは1927年である。正確なことは判らないが、三浦のトラジャ進出はその前後であったと思われる。またキリスト教者である三浦がトラジャを選んだ理由として、当時トラジャではすでにキリスト教が普及していたことも考えられる。キリスト教がトラジャに入ったのは蘭印軍がきた1906年である。1920年代にはキリスト教はかなり普及していたと云われる。しかし証拠となる資料は見つかっていない。社名に使われている Baroeppoe はランテパオから西北の山中にあるバルップ(Baruppu)ではないかと思われる。ランテパオから直線距離で約20キロ、標高2000メートルの山中である。「これより先、三浦の妻民子は、過労が原因で死亡した。」と「日本キリスト者三浦襄の南方関与」に書かれている。想像を絶する、過酷な生活、労働環境であったと思われる。「養豚、養魚、養鶏の副産業」は自給自足の手段であったのではないかと想像される。

三浦襄が去ったあと、バルップ珈琲園はどうなったのか。昭和13-14年頃のセレベス島の日系企業のリストの中に、バルップコーヒ園、住所 Rantepao、 責任者名 岸将秀、摘要 コーヒ、茶、規那、と書かれている。三浦襄が去ったあとも岸将秀がコーヒー園の経営を続けていたようだ。


注1:「キナは南米原産のアカネ科キナ属の樹木の総称で、そのうち数種がマラリア の特効薬であるキニーネの原料として利用される」と松浦一男氏よりご指摘頂きました。(2007-1-18)

参考資料

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