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村岡伊平治自伝



村岡伊平治は1867年(慶應3年)の長崎県生まれ、明治18年(1888年)、18歳のとき、海外雄飛を夢見て、一民間人として香港へ渡りました。 その後、中国各地、シンガポール、カルカッタ、香港、ハノイ、台湾、東インド諸島(現インドネシア)各地を廻り、宿泊所、理髪店、女郎屋、雑貨行商、通訳、真珠貝採取、ナマコ採取、レストラン、労務者斡旋業、野菜栽培、医療、菓子製造、金貨鋳造など、合法、非合法の事業を行っています。「村岡伊平治自伝」(昭和35年12月15日、南方社発行、定価350円、著作権所有者 河合襄 写真左上は表紙)、は当時の南方開発、南方に進出する日本人の活動を知る大変貴重な資料です。自伝の編集・出版計画は戦前の昭和12年ごろから始ったが、その後、軍部から、表看板にしている南方発展を汚辱すると反対の声が出て、出版は中断されました。

戦後、多くの関係者の努力により、昭和35年にようやく出版にこぎつけた、と同書のあとがきに河合襄氏が書いています。村岡は大戦中の1943年(昭和18年)頃、フィリピンで76歳でこの世を去っています。自伝は晩年になってから記憶を頼りの口述筆記のため、年号や地名は正確でないと思われる部分も多いが、戦前のセレベス島における日本人社会を探るための貴重な資料であると思います。


(2)村岡伊平治シンガポール時代の視察旅行

シンガポール滞在時代の明治22年(1889)に村岡伊平治は周辺各地の視察旅行に出掛けています。一度目の旅行ではスマトラ、シャム、ビルマ、印度方面、オーストラリア各地を訪問、二度目はボルネオ、ジャワ、セレベス、ニューギニア方面を廻っています。セレベス島の中ではマカッサルとゴロンタロの2か所について記録されています。

a)マカッサー港 (Macassar)


「船が桟橋に横づけになる相当のところである。奥地には4百何十名という国王がおり、マカッサーから五哩(マイル)以上いくと国王の地で、各国人の入国を禁じ、和蘭人でさえ入国を許さない。ここには産物が各地から集まっておる。貝、籐、高瀬貝、トサカ(海藻)、真珠貝、海鼠、紫檀、黒檀沈香木、丁子の花、肉桂の樹、ココア、パラの実(肉荳?)、椰子、枝珊瑚樹、生鰕、鼈甲(べっこう)、生魚各種、極楽鳥12種類、天草、鹿の角、鰐の皮、蜂蜜、密蝋、スルメ、木綿が同港の輸出品である。 日本人女郎も、内田に四人、土井に五人、荒木に五人、福本(主人は死んだが家内がおり)に四人、合計一八人おる。男は荒木兄弟、内田、土井、田中、野口、猪の七人が住んでおる。」と記されている。当時のマカッサル在住の日本人は男性7人と女性(女郎)18名、合計25名だったのでしょうか?


b)ゴロンタロ村 (Gorontalo)
「蘭領、油田があって、さかんに製造しておる。油田人足もまた大勢おる。7,8割まで支那人商店で、主にレストランをやり、広東人が多い。ここは油田ばかりで、他の産物は顧みられていないようである。人種はトラジャ人」と書かれているが、人種については明らかに誤りである。


(3)セレベス時代の村岡伊平治

血気盛んな28歳から33歳の頃、即ち、明治28年(1895)から明治33(1900)年9月にかけての約5年間、村岡はマカッサルを基地としてインドネシア東部各地でいろいろな事業に挑んでいる。その間、村岡はトラジャ国王の王女ギンナンと結婚、領地タカテドンで国王ともなっている。タカテドンの位置は不明であるが、南西海岸、または付近の島であろうと南方社編集部作成の年譜には書かれている。

1894(明治27) 12月 村岡伊平治はスラバヤからバンポグワン号で女郎を連れてマカッサルに上陸し、当地在住の内田、土井の家を訪ねる。ゴア王家の貸家を借りて女郎屋を開業する。当時ゴア王家は多くの(外国人向け?)賃貸住宅を所有していたようだ。
1895 (明治28) 3月 女郎屋は相当繁盛してきた。さらに理髪店、商店(雑貨屋か)を開業した。理髪店はオランダ人の内情を探る機関であったと書かれている。
  5月 日本の南洋艦隊が、石炭を積むためマカッサルに入港、村岡は日本人6,7人を集めて相談し、艦隊を歓迎し、南洋随一と言われるマロスのバンティムルンの滝を案内、艦長より感謝状と金一封を貰う。
1896 (明治29) 1月 チモール・ディリ、クパン、セラム、ドボ、ニューギニアへ行商、さらにテルナテ、アンボンへも行商、絹のハンカチ、安物の鏡、化粧品、セルロイドの石鹸容れ、指輪、頚飾などを売る。(商品はシンガポールから仕入れた。)
1897 (明治30) 2月 マカッサルに商店を開き、ゴア国王の許可を得て、奥地を行商
  7月 ゴア、シデンレン両国王の媒酌でトラジャ国王の王女ギンナンとシデンレンで結婚・挙式、領地タカテドンで国王生活を始める。当時オランダはセレベス島奥地への外国人の出入りを禁じていたので、このような手段をとった。
1898 (明治31) 2月 金貨の鋳造を試みるも失敗する
1898 (明治31) 10月 南洋各地で真珠貝採取を始めるが、目算はずれ損害を蒙る
1899 (明治32) 11月 セレベス島の東海岸で真珠貝を探す
  12月 バフヤン島(?)で潜水夫の鎌田が事故死
1900 (明治33) 1月 マカッサルに帰着、しばらく付近でナマコ採取を行う。4月にはミンダナオ島へ真珠探しに出航、現地では米国、スペインの戦争に巻き込まれて投獄されるが、1ヶ月目に釈放される。王妃が男児を分娩、国王伊平治を慌てさせる。マニラ在住の子分、早川鉄次郎より、同地にて女郎屋開業を薦める手紙があり、早速視察に行く。
1900 (明治33) 9月 マカッサルの真珠採取船、女郎屋、商店、理髪店など全ての財産を売り払い、タカテドンの妻、子供を置き去りにして、シンガポールの領事からマニラ移民官宛の証明書と添書きを貰い、マニラに逃げ出す。
     

(4)19世紀末のマカッサルと日本人



マカッサル市内の様子は自伝では全く取上げられていないが、村岡伊平治がマカッサルへ行く約40年前、1856年にアルフレッド・R・ウォーレス (Algred R. Wallace)がマカッサルを訪れたとき、「それまで東洋で見てきたどの街よりも整然として清潔であった。」(マレー諸島 新妻昭夫訳 ちくま学芸文庫)と記されています。当時、マカッサルの街の中心はFort Rotterdam の北側にあった。マカッサルの海岸近くの市街地は1848年ごろにはすでに形成されていて、1896年時点ではさらに東の内陸部の方へ拡張されています。

右上の写真は1885年頃に撮影されたFort Rotterdam の遠景です。(マカッサル市立博物館所蔵)村岡伊平治はこの写真のような光景を日頃見ていたことと想像される。


1893年におけるマカッサルの人口は、欧州人940人、アラブ人169人、中国人2,613人、東洋人30人、原住民14,169人、合計17,921人と記載されている。(出典 MAKASSAR ABAD XIX Studi tentang Kebijakan Perdagangan Maritim 2002年 KPG出版) 東洋人30人のうち日本人が何人だったのかは、この資料では明らかでないが、(2)a)村岡伊平治が視察旅行で訪れた当時、日本人は25名(男性7名、女性18名)となっている。東洋人30名のほとんどが日本人であったと思われる。日本人のうち女性が72%と大半を占めている。因みに1902年当時のシンガポールの日本人のうち「からゆきさん」は611人で、現地日本人人口の77%を占めていた。(出典:東南アジア史 Ⅱ 島嶼部 P275 池端雪浦編 山川出版社 1999年5月30日)マカッサルでは日本人進出の規模は小さいが、シンガポールと同じ、「からゆきさん」主体の海外進出だったようです。


(5)日清戦争の影響

村岡伊平治がマカッサルに渡った1894年のころ、セレベス島では日本人が珍しいのと、1894(明治27年)7月-95年4月の日清戦争(日本での正式名称は明治二十七八年戦役)に日本が勝利したお陰で、現地の人達から、日本人は偉いものに見られ、どこへ行っても尊敬され、いたるところの国王や村長を尋ねて行くので融通が利いたと自伝に書かれている。トラジャ国王の王女との結婚話もこうした背景があったのかもしれない。


(6)からゆきさん

村岡伊平治がマカッサルに連れていった“女郎”はいわゆる“からゆきさん”。当時の日本各地の貧しい村々の若い女性が朝鮮半島、満州、シベルアへ、さらに中国、東南アジア各地、オーストラリア、ハワイ、アメリカ大陸などへ人身売買や密出国などの形で海外へ渡っている。樽に詰め込んでバンクバー港まで運んだケースもあったという。こうした被害者はその郷里で周旋屋の手に落ちた例よりも、他郷へ女中や女工その他の職で出稼ぎに行っていて、その稼ぎ先で甘言に乗せられるケースが多いという。被害者の出身地域は偏っていて、群を抜いて多いのは長崎市と島原地方と天草。藩政期を通して海外に開かれていた長崎という都市の歴史が、近くの村にもふかく関連していると云う。また長崎に近い村々が、海外への出稼ぎの誘惑に対して、警戒的ではなかったことも指摘されるという。(森崎和江著「からゆきさん」発行所 朝日新聞社 昭和51年5月15日第1刷)

村岡伊平治自身も長崎県南高来郡島原城内(しろうち)の出身。「どんな南洋の田舎の土地でも、そこに女郎屋がでけると(できると)、すぐ雑貨店がでける。日本から店員が来る。その店員が独立して開業する。会社が出張所を出す。女郎屋の主人もピンプと呼ばれるのが嫌で商店を経営する。1カ年内外でその土地の開発者が増えてくる。そのうちに日本の船が着くようになる。次第にその土地が繁盛するようになる。」(村岡伊平治自伝58頁) からゆきさんが尖兵となった日本人の海外進出は、村岡のほら話のようにも聞こえるが、実際その後、南洋各地のトコ・ジャパン進出につながって行く。1910年代には日本の船会社の定期船がマカッサルに寄港するようになる。  (「1920年代の日本人セレベス進出」参照)


(追記 2008-7-7) 第2次世界大戦中、マカッサルに(元)「からゆきさん」が居たそうです。鹿児島県出身で、年齢は60歳前後、「自分は売られてきた」とのことで、現地に永年住み、語学堪能ゆえ、軍部に対していろいろ協力されたそうです。その方は終戦後も帰国されなかったとの事です。(戦時中マカッサルに在住された方からお聞きしました)


参考資料

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