総目次

身近にあった戦場(2)

永江 勝朗

八、壊滅した南興東部ニューギニア事業所

四二年後半、米軍の反攻が始まり、東部太平洋の制空権、制海権を失って行きま した。四三年ニューギニア東部各島の日本軍は次々撃破され、ラバールは孤立、東部沿 岸 各地も次々米軍の手に落ち、四四年(昭和十九年)には、いよいよ中部ニューギ ニア をうかがう状況にありました。
 四三年(昭和十八年)九月、静岡県沼津市にあった「大東亜省拓南練成所」は第 二 期生教育を終了、六五名中九名が南興㈱東ニューギニア事業所に配置と決まりま した。

 「大東亜省拓南練成所」
 四〇年(昭和十五年)下山野氏等により「拓南協会」が設立され、会長に南洋興 発 ㈱会長松江春次氏を推戴、翌四一年四月「拓南訓練所」開設、四二年五月訓練終 了、訓練生は渡南し、当初目的を終えた。

 後日本拓殖協会に経営を移管、大東亜省管理のもと「拓南練成所」と名前を変 え、 訓練期間を六ケ月とし再発足、四二年九月一期生入所、四三年四月二期生入所 する。 四三年十月三期生以降募集人員は増加、訓練期間も短縮して送り出した。練 成所が 機能した四年間に巣立った若者は一二五〇名、内中南海各地で亡くなった方は三〇〇名を超えている。高岡、小林等の二期生は六五名の内二十二名が南方各地で散華した。(高岡)

 「いざ南の国へ」 (以下小林唯雄氏記録)
 四三年十月十四日、ニューギニア事業所に赴任する小林子平所長と幹部一~二名 及 び前記九名は、三井農林、南洋食品、矢島組等各社員達と共に横須賀港で乗船、 十五日出港、九州・佐伯港を経て、パラオに向かいました。拓南練成所出身の九名は、高岡希隆、浦上峯夫、小林唯雄、田辺智治、根本茂、 野 村英、平崎照夫、別府重美、持塚保蔵の各氏、いずれも当時はまだ十八歳でし た。十月末パラオに到着、二日後朝出港、十一月五日夕刻、中央ニューギニア・旧オ ランダ領ホーランディヤ(現イリアンジャヤ州都ジャヤプラ)に上陸しました。

「そこはすでに戦場」
 上陸一週間後十一月十二日、ホーランディヤから更に、事業本部のあったウエワ ク(ホーランデイアから三百㎞)に向かい、三日後に到着したが、そこはすでに戦闘 最 前線、とても仕事など出来る状況になく、空襲から逃げるのが精一杯の毎日でし た。

事業所の配置
 東部ニューギニア事業所は、当初ウエワク本部(八名)を始め、交易所(売店・ 仕入れ)をウエワク(四名)カイリュート島(六名)ホーランデイヤ(四名)ボイキ ン(三名)アイタベ(一名)センタニ(二名)デムタ(一名)に置き、ドヨバル石鹸 工 場(二名)ムシュ島椰子園農場(一五名)石鹸工場(四名)などに総員五十余名 が配 置されていました。

本部移転 (以下も小林記)
 ウエワクへの爆撃が日増しに激しくなり、ウエワク民政部はカイリュート島へ撤 退したので、南興の本部もそちらに移り、事務関係はムシュ島の椰子園石鹸工場に移 り ました。  ウエワクには軍(第八艦隊司令部)との連絡係として、小林唯雄が、交易品部の 人 逹と共に残ることになりました。それはウエワクに着いて半月も経っていない頃 でした。 ムシュ島では野菜も作って、軍に定期便で納め僅かばかりの貢献をしていまし た。 小林は、島でとれたトマト等を手土産にウエワク交易品部へ持ち帰り、大喜びさ れ たのが今も懐かしく思い出されます。

ホーランデイアヘ
 四三年大晦日の夜、突然中山事務課長と小林はホーランデイアニ移りました。本 部をホーランデイアに移す準備です。  ホーランデイアでは爆撃の少ない静かな日が続きました。

センタニヘ
 四四年三月初旬、同期根本茂君がセンタニからデムタ(約一月後にこの港から、 マ ノクワリ方面へ脱出した)へ転勤するので、小林がセンタニを応援することとな りま した。
 センタニはホーランデイアから南へ十キロ程の処です。くねくねと曲がった琵琶 湖 より広いと言われるセンタニ湖の近くには、陸軍の基地とA,B,Cと呼ばれて いた飛行場があり、センタニ分店では、交易品を扱ったり、野菜(甘しょやタピオカ が主でした)の集荷をして、軍に納めていました。
 ここには、ホーランデイア民政部の分所があって、司政官の外に若い人二~三人 い たので話相手になり、情報も入手できました。
 アンボン人の役人や巡補(ポリス)の住んでいる小屋も立ち並んでいました。ア ンボン人はマレー語でしたので、拓南練成所で手ほどきを受けたマレー語が少し役に 立 ちました。
 しかし、ここも長く続きませんでした。三月下旬頃には、敵機の大編隊がホーランデイア地区に襲来、飛行場はもうもうたる煙に包まれました。燃料不足で迎撃もで きず、一部が飛び立つと衆寡敵せず、次々撃墜されて行くのが痛ましかったです。 >  最初は飛行場だけだったのから、逐次山麓の居住地も襲われるようになり、昼夜 の 別なく来るので、テントを持って、裏の谷間へ民政部分所の人達と避難しまし た。
 四四年四月二日、センタニ飛行場は壊滅状態になったと知らせがあり、谷間の避 難 地にも機銃掃射が間断無く浴びせられるようになり、多くの人が死にました。

ホーランデイアヘもどる
 「これ以上ここにいては危険だから、民間人は我々と一緒に山づたいにホーランデ イ アへ行こう」  と民政部司政官から言われ、夜の間に壊れた小屋から必要な物を雑嚢に詰め込ん で、翌朝早く、細い山道を出発しました。  普段なら数時間で行ける処ですが、自動車も船も使えないので、狭くて起伏の多 い 道を上がったり下がったり、爆音がすると茂みに隠れたりしていると、時間の経 つ割 になかなか進めず、夜になってしまい。月明かりを頼りに進みました。  足元が覚つかないので、木の根につまずいて転んだり、足に豆ができたりで、 散々でしたが、携帯した乾パンをかじりながら、お互い励まし合って、夜明けの過ぎ た 頃、ホーランデイアの町外れの丘に辿りつくことができました。

 日中なら街が一望できる場所でしたが、灯火のまったく消えた街は、ぼんやりと 見える程度でした。それでもホーランデイアに戻れた実感で涙がこぼれました。  従業員が宿舎にしていた煙草小屋へ行き、まだ夜中で悪かったが、皆を起こし、 お 互いの無事を喜び合いました。
 朝、村長の家に起居していた中山事務課長も来てくれて、センタニに連絡が取れ ず、私達の身を案じていた矢先だったと非常に喜んでくれました。

ホーランデイアは
 川の向こうにあった南興事務所も交易品部の建物も破壊され、町中の道路は一面 穴だらけ、まともに立っている建物はなく、眺めのきれいだった湾内には、沈んだ船 の マストが林立、一変した様相にびっくりしました。
 センタニが爆撃にさらされた頃から、ホーランデイアも爆撃が始まり、仕事はス トップ状態で、体調不良の者は終日山中に避難していると言うことでした。

熱帯性潰瘍で歩けなくなった
 私はセンタニから引き上げた際、怪我をした足を薬もないまま放置しておいたの で、すっかり化膿して「熱帯性潰瘍」になり、始めは杖にすがって歩いていたが、 益々悪化歩行が困難になったので、夜も小屋に帰らず、山中の岩陰で野宿する日が続 きました。私の外にもマラリアや潰瘍等で動けない人が何人もいましたので、励まし合っ て、生き延びようと頑張り続けました。
 この頃からウエワク方面からの転進組が、爆撃の間を縫ってホーランデイアに逐 次到着しました。
 ウエワクで一緒だった同期の浦上君も第一陣で到着しましたが、彼は悪性マラリ ア に罹っており、私以上に衰弱していました。  ウエワクからは船も少なく、待つ間も空爆で危険なので、元気な者は皆陸路を歩 いて転進していることを知りました。

Ⅰ、海路、西方へ
 ウエワク方面からの転進者も増え、これ以上ホーランデイアにいては、また敵に 背 後を絶たれる恐れも出てきたので、民間人は逐次西部方向へ撤退することになり まし た。
 四四年四月十三日、私は潰瘍が拡がる一方で歩行困難でしたが、同僚の協力で、 どうにか山を下り、皆と一緒に桟橋に集合することができました。
 乗船は船舶兵の叱咤(しった)で、迅速に行われました。乗船の順番は、病人優 先だったので、第一便のダイハツ艇に、私や浦上君も他の人と一緒に、乗り込みまし た。
 敵襲の合間を見ての乗船で、次便はいつになるのかわからない状態でしたが、元 気な人達はなに一つ文句を言わず、我々を先に乗せてくれました。この友情にはただ> 涙がこぼれ、感謝の言葉も出せない位でした。  乗船数分後ダイハツはにげるように、ホーランデイアを後に、デムタに向かいま した。
 デムタはホーランデイアの西方、海路で一日(百キロ)の小港で、ここに民間人 が 集結、西方への船を待ちました。

東川正之さん
 デムタには次々後便が到着、ホーランデイアに待機していた人の大半が集結しま し た。
 私達の出発をテキパキと導いてくれたホーランデイア交易部主任の東川書記補 は、まだウエワクから、陸路を撤退していた小林子平所長以下が着いていなかったの で.「少し待って、後の便で行く」と、ホーランデイアで共に働いてきた松田さん、雪 山さんと残留したのです。
 後の消息によると、東川さん達はホーテーカン付近まで迎えに行き、そこで敵襲 を受け、殉職されたそうです。
責任感の強い実に立派な人で、心からご冥福をお祈りします。

所長遭難
 皆より遅くウエワクを退去した小林子平所長一行もホーテンカン付近に上陸した 米軍に退路を絶たれた形となって殉職しました。

乗船順位が生死を分けた
 四四年四月十八日、デムタに西へ撤退する第一船が入りました。乗船は病弱者優 先、後の者は抽選で決めました。この時南興㈱関係で乗船できたのは、中山忠信事務 課長以下二十四名でした。

第二船の悲劇
 四月二十一日、引き揚げ第二便が入りましたが、船はデムタを出港一時間後、敵 グラマン機の機銃掃射を受け火災となり、乗船者の大半が犠牲になりました。  南興㈱関係者も五名(ムシュ伊藤工場長、仙波力光、根本茂、宇津木、比嘉各 氏) 死亡、生存者は散りじりとなって海岸に泳ぎついたが、身回り品を全部失い、 陸路転進に加わりましたが、大半の人は消息不明となりました。

マノクワリに無事着いた
 四月二十五日、私達の第一船は、海岸線を見え隠れしながら、一週間かかってよ うやく南興西の拠点マノクワリに着きました。 航行中二度、三度敵機の機銃掃射襲を受けました。船底にいても、バクバクと言 う機銃音、ブスブスと辺りに突き刺さる銃弾、生きた気がしませんでした。機関銃で応戦した兵隊さんが二人犠牲になられました。
 私達の宿舎は、海岸通りから坂を上がった処でしたが、このマノクワリも既に爆 撃を受けていて、やられた建物があちこちに見えました。何時また爆撃があるかわか り ませんが、何か月ぶりかで畳の上に寝ることができて、生気の湧くのを覚えまし た。

マノクワリからアンボンヘ
 マノクワリに脱出した東ニューギニア一行の内、中山忠信事務課長以下三名は、 マノクアリから軍艦に便乗、本土に帰還することになりました。  四月二十九日、残った二十一名は、武田与三郎庶務係長を長とし、アンボン島経 由ボルネオ・バリックパパンに向かうことになりました。  途中敵に出会うこともなく、五月七日無事アンボンに着きました。  ここから西方へはまた便船を待たねばなりません。一行はアンボン事業所のお世話 で、在留邦人経営のホテルに泊まりました。
 ここへ来て初めて人間らしい生活と食事にありついたので、弱っていた者達も 徐々 に快復しはじめ、陽気な雰囲気も生まれました。  当時、敵の進攻方向は南洋群島、フィリピンに向かっていて、アンボンには爆撃 もなくノンビリムードでした。  ここに十八日滞在し、その間病人達も治療に専念できました。私もズック靴を突っ かけて歩けるようになり、同僚に迷惑をかけずに動けるのが、実に嬉しかったです。  五月二十五日、貨物船日松丸に乗船、マカッサル(セレベス島)へ向かいました。僅かながら食料も買入れ、インコ等小鳥を持ち込む余裕の人も見受けられました。  途中ケンダリーの湾内に一時停泊、生鮮品を補給、マカッサルへ航行しました。

マカッサルで進路を分ける
 四四年六月六日マカッサルに入港しました。 ニューギニア・デムタを出発時から、ウエワク転進組の渡航最終目的地は、ボル ネオ・バリックパパンとされていましたが、情況も変わったしいので、マカッサル駐 在 重役に伺いを立てようと代表が上陸、連絡を取りました。その結果全員が下船す るこ とになり、総務課長の青柳富士彦さんが、船の責任者と調整してくれました。  マカッサルは都市らしい舗装道路、賑やかな華僑の店舗、予想以上の街だったの で、誰もが皆「船を下りて良かった」と異口同音にうなずき合いました。  宿舎も決まり、翌日から病院通い、その間にマカッサル勤務希望者(十一名)と 内地帰還希望者(十名)に分かれました。本土帰還希望者は年配者、長期滞在者の人 達 でした。
 六月六日、私は潰瘍を根治させるため入院、入院は他にも何人かいましたが、健 康 な者は順次新任地に出発しました。六月二十九日、私の潰瘍も完治に近い状態になり、パレパレ分店に赴任しまし た。

本土帰還組・帰国を果たせず
 六月二十日、武田与三郎、大桃良夫、宮野さん本土帰還組一行とマカッサル埠頭 でお別れしました。船は本土に向かったのですが、東シナ海に達したところ敵潜水艦に撃沈され、生 存者は沖縄県出身の若者二名だけ、他の人達は本土帰還の夢も虚しく果ててしまいま し た。
      ◇    ◇     ◇
米大軍アイタベ・ホーランディアに上陸
 四四年四月二十二日、米軍はアイタベ(日本守備兵二千名)、ホーランデイア (海 陸軍航空関係兵一万四千名)には二十六日に上陸しました。この米軍の総数は 二十万 人と言われます。
さらに米軍は五月十七日、サルミ西方海岸にも上陸、これにより西へ移動を続け て いた日本軍大兵力の敗走路は完全に遮断され、孤立、無援、餓死を待つばかり、 無力の 放浪軍隊になりました。
 米軍のホーランデイア上陸作戦で、駐屯していた陸軍第十八軍六千七百名はサル ミに向かって敗走、しかし、その内サルミに着けた者は五百名、さらに戦後日本に生 還 できた者は僅か一四三名だったと言われます。

日本軍は・・米軍は・・パプア人は
 東部ニューギニア戦線で(ガダルカナル・ポートモレスビー作戦を含め)日本第 十 八軍の生き残った者は一三二六二名、死没者十八万八千人と言われ、その九〇% が餓 死でした。損耗率九四%、ここにニューギニア戦争の特質があります。  なお、生存した一万余人の日本兵も、パプア人の庇護なしには生き抜くことは出 来 なかったと言われます。 連合軍の戦死者は一万二千人(豪州兵八千人、米国兵四千人)に上りました。 ニューギニア人の被害は明らかではないが、四~五万人とも推定されてれます。  西部マノクワリ関係の犠牲者はこの数に加算されていません。

     ◇    ◇     ◇

Ⅱ、陸路西へ
カイリュート島では(以下高岡希隆氏記録)
 高岡は当初一ケ月ほどホーランデイアに待機、やがて十二月ウエワクにナビレ丸 (二百トン)で同期三~四人と赴任しましたが、毎日空漠を避けるのが精一杯でし た。
 一月ウエワクから船で半日ほどにあるカイリュート島へ赴任しました。  島は一帯が小高い密林に覆われ、平地には潜水艦基地と病院があり、二㎞ほど離 れて会社の店舗と倉庫があり、須崎店長、関谷、和我さんがいました。  この島から船で一時間の処にムシュ島があり、広い椰子園と油脂工場が稼働し、 同期の持塚、平崎氏がいました。
 島は平穏に過ぎていましたが、八月中旬突如敵襲が始まりました。  慰安会に温泉に向かう途で、銃撃を受け、社員一人は股をえぐられ重傷、同期持 塚氏は肩に弾片の盲貫を受けました。これを機に島はしばしば空爆を受けるようにな り、ある朝の爆撃で軍の施設は勿論、会社の埠頭、店舗、倉庫一切が跡形もなく壊滅 してしまいました。
 深夜の艦砲射撃が始まった翌朝、民間人の退去命令が出ました。島の民間人は順 次 後方に引き揚げたけれど、大半の人は敵襲で亡くなったようです。  関谷、和我さん、高岡は二~三日遅れたら乗る船が無くなり、八月末ようやくダ イ ハツ(上陸舟艇)に便乗、夜陰にまぎれ、ニューギニア本土に上陸できました。  しかしそこから言語に絶する苦難、悲惨な死への転進の長い道程が連なっていたの です。

サルミヘ、マノクワリへ
 デムタ港で船に乗れなかった者は、グループに分かれ、西方に転進を始めまし た。 当面の目的地は西のサルミ(ホーランディアから直線距離・二百㎞)そこに南興 ㈱マノクワリ事業所の出先がありました。さらに最終目的地を南興西の拠点マノクワリとしていましたが、大半の人はサル ミ ヘさえ辿り着けませんでした。

一ケ月・二百㎞の彷徨
 サルミまでは道らしい道はありません。   すでに遠くニューギニア東部ラエ、マダン方面からも、日本軍転進部隊が数多 く 同じ路を辿っていましたが、大半は食料は尽き果て相次ぐ落後者は、ジャングル の至 るところに白骨、腐乱遺体となり散乱、傍らに死を待つ人が横たわっていまし た。
 高岡達も当初マノクワリを目指し、不眠不休夜を日について歩きました。空には敵 機、海に敵艦のもとでは炊事もままならず、日中はジャングルを夜間は海辺を進み、 幾多の河川では夕暮れの干潮を待ち、あるいは筏を組んで泳ぎ渡りました。  増水時には何日も渡河を待ち、焦って筏ごと流される者もいました。  その内、敵がサルミの先に上陸、既に退路を絶たれたとやら、様々な噂や焦りか ら、一足でも先へとお互い自己的、無秩序になり、何時の間にか南興の同行者も離れ 離れになりました。  間もなく携帯食料も底を付き、遂には木の芽、草の芽を食べ、靴址の溜り水や、 ぼーふらのいる水をガーゼで漉して呑んだこともありました。  幸い若い高岡は体力もあり、少年時より木登りが得意だったので、椰子の木があ れば登って実を取り、これが唯一の栄養源になりました。  デムタから約一ケ月をかけ九月末、二百㎞の逃避行を成し遂げ、サルミに到着し ま した。
 そこには東北の三十六師団が健在でした。(第二方面軍・勢、司令部セレベ ス)ここで炊事班を訪ね、食べ物を乞い、一夜の宿がお願いでき、南洋興発事務所の 所在も教えられました。翌朝尋ねたら空家になっていて、扉にあったメモで、ジャン グル奥地に避難していると分かりました。
再び雨と泥濘の中避難先を尋ね歩き、夜になってやっと辿りついたのは軍の空き 倉 庫、そこに先にはぐれた先輩二人、同期の持塚さん、他東部事業所五、六人の人 が雨をしのいでいましたが、そこは南興の避難先ではありませんでした。 一同は食糧のことや今後の行動を話合いました。最終目的地のマノクアリは、こ の先に大河があり(マンプラモ川)船がないと渡れないと判り、マノクワリ行きを諦 め、現地自活を始めることになりました。

安住の地を求め
 一同は飢えた体で昼夜を問わず襲い来る敵機に怯え、逃げ惑い、蚊や蛭に悩まさ れ つつ一か月余りを彷徨、悲惨、最悪の時期となりました。同行八人中五人(カイ リュート島関谷さん、和我さん、同期持塚保蔵さん、墨田さん、他三国町出身者(氏 名不詳)は病気、飢えにより死亡しました。
 最後の逝かれた墨田さんは、ある雨の夜、残った四人で、被爆した軍倉庫に忍び 込 み、各自米一袋ずつを盗み出し、久し振りの銀飯(ぎんしゃり)と、それぞれの 飯盒に一杯(五合分)の飯を炊き、粉醤油を振りかけ、全部平らげ、満足して横にな りそ のまま目覚めることがなかったのです。

生き残れたのは三人だけ
 残ったムシュ農場高橋玉さん、徳田さん、高岡三名は、その数日後、南興サルミ 事 業所(床井勝さん、新妻末造さん、秦さん他一名)に出会い、私達もお世話にな るこ とになりました。さらにここから一日行程の奥地に海老名庄次郎さん、松本さ んが住んでいるとのことです。
 一応安住の地を得たものの、また食糧の心配から高岡、新妻さん二人が分家する こ ととなり、そこから半日行程のナンバイロに空き家を見つけ移り住み、自活生活 を達 成し、その内にマレー人少年兵補、海軍滑川書記生も同居させました。  その頃、南興全員はサルミ師団の嘱託となり住民との調停役を云いつかり、代償 に 若干の甘味品が入るようになりました。付近の住民とも親しく交わり、手伝いを させておりました。 作物はさつまいも、とうもろこし、カボチャの他葉たばこも作りました。主食の 中心はサゴ澱粉で、椰子を倒して採取、時には住民と一緒に川魚、海老などを獲りま した。

 一九四六年(昭和二十一年)五月、引き揚げ待機のため、サルミに集合しまし た。六月五日、引き揚げ船はサルミを出帆、途中台湾・基隆沖に寄港、六月二十日に 名 古屋港に入港、本土帰還を果たしたのです。 (台湾・高砂義勇隊員は、ムッシュ島に抑留されていたと言う記録があります) 東部ニューギニア(ウエワク)事業所関係で、陸路を辿って戦後生還できたのは 高橋玉さん、徳田さん、高岡希隆三人だけでした。
 海老名庄次郎さんは、現地で妻帯していたので残留しました。(高岡記録)

      ◇    ◇     ◇

東ニューギニア事業所社員の行方
「生還した人」

一、マノクワリから軍艦で帰国 三名
二、マカッサルに残留、帰還 一一名
三、マカッサルから帰国(遭難生存) 二名
四、ニューギニアで自活生存 三名
            計一九名(三八%)
「死亡・消息不明者」
1、勤務地、転進途中死亡・消息不明 一八余名
2、デムタ港第二船で空爆遭難      五名
3、マカッサルから本土へ帰還中遭難   八名
            計三一余名(六二%)
           総計五十余名

「追記」          渡航年・渡航先
 川並譲さん ウエワクで爆死(四三年横浜)
 川上一吉さん       (四三年横浜)
 宇津木さん 陸路撤退死亡 (四三年横浜)
 茶合さん         (四三年横浜)
 名越さん(親子)無事帰還 (南洋群島)
  久場兼徳さん マカッサル (南洋群島)
 吉田扶尾さん マカッサル (南洋群島)
 高木兵介さん マカッサル (南洋群島)

九、消えた南興マノクワリ事業所

坂田隆三郎さんのこと
坂田さんが私の駐在していたマロスに見えたのは、坂広栄君が召集されたその 後、四五年(昭和二〇)五月以降のことです。物静かで優しいスマートな方でした。東京出身、南洋群島パラオ支店から、四三 年 (昭和十八年)西ニューギニア・南興マノクワリ事業所に赴任しました。  戦況の悪化に伴い、四四年(昭和十九年)六月二十一日、同僚三十人と共にマノ クワリを脱出、後に「地獄のベラウ地峡」と言われるようになった難所を短い日時で 突 破、船を乗り継ぎ、アンボンに辿り着いたのが七月十七日でした。 (地峡=海峡の反対に海と海が迫っている処です。北海道では黒松内地峡と言う所 が あり、夏季間太平洋側から海霧が吹き込むことで有名です)  さらに坂田さんたち四人は、アンボンからジャワ行きの海軍の船に便乗しまし た。
 マカッサル港到着寸前の港外で、敵飛行機の銃撃を受け船は沈没、泳ぐこと三十分 余り、護衛していた水雷艇に救けられ、マカッサルに上陸出来ました。同行のもう一 人の人は船倉にいて脱出出来ず、亡くなりました。  坂田さんは、私と同居した三ケ月間にこんな話は一切話してくれませんでした。    (以上は総て岩田武夫氏手記による) 坂田さんは、帰国後友人と共に「読売広告」を興し後に社長となり、二〇〇一年 に 亡くなりました。

消えた南興マノクワリ
 マノクワリは旧オランダ領西ニューギニアの中心地でした。  南洋興発㈱は、一九三一年(昭和六年)ドイツ法人からこの地域の権利一切を買 収、マノクアリその他ニューギニア北岸各地に綿花、黄麻農場を経営、ダマール樹脂 採取その他の事業も手がけていました。  太平洋戦争勃発の十二月、現地に駐在していた南興社員と家族総数五十三人は、 全 員が抑留され、アンボン、ジャワを経て、オーストラリアの収容所へ送られまし た。
四二年(昭和十七年)二月、海軍のニューギニアを占領と共に、南興はマノクァ リ 事業所、モミ、ナビレ、サルミなど事業地を復活、カイマス、コカスに駐在を置 きました。
 四三年(昭和十八年)二月、海軍民政府(長・浜田海軍中将)が設置された頃 は、 ニューギニアの未来を見込んだ日本商社関係者等二千八百人がマノクァリに渡 来し、 所属船も官民六十隻を数えましたが、戦局が東から悪化するに伴い、それは ほんのつかの間の現象に終わりました。

脱出を決める
 四四年(昭和十九年)六月、戦局の悪化が見え、戦火が迫って来たのを見越し、 南 興マノクァリ泉川源一郎事業所長の指示に基づいて、各地事業地を閉鎖、社員を 後方へ脱出させることになりました。

ベラウ・イドレ組
 マノクァリに集結した社員のうち、アンボン方面への脱出を目指す第一陣は、岩 田武夫モミ農場主任を長とする比較的若者の一隊でした。坂田さんもその一人でし た。六月二十一日、モミ、ウィンデシー、イドレを経由、コカスに向かうコースに出 発 しました。モミまでの百㎞は徒歩でした。モミに到着したら、中部ニューギニア・ホーランディアから、ダイハツ艇で退却 し てきた、陸軍第六飛行師団長代理稲田少将一行に出会いました。南興隊は甘味料を贈ってねぎらいましたが、一同はすでに生色無く、北へ南へ逃 げ惑う日本軍の狼狽がうかがえました。 (ホーランディアに米軍が上陸したのは、四月二十二日のことです)

ベラウ地峡横断「最短コース」は地峡南端ウインデシーにありました。
 モミからウィンデシーまでまた百数十㎞、住民の好意でカヌーの夜間航行でし た。 ウィンデシー(東岸)からイドレ(西岸)への「ベラウ峠道」は、四三年南興 社員 中心の「ベラウ地峡調査隊」が選択した最善、最短のルート、直線距離三十 ㎞、地元住民が古来使っていた道だったのです。  踏破には行程二日、中間点までが難所、豪雨、悪路、大山ヒルに悩まされる。山 ヒルの凄さはウィンデシーで雇ったポーターさえも音を上げたほどでした。 >  日が暮れたら大変と、日本刀でポーターを脅しながら、急いで日没前に峠の小集 落 に着くことができました。 翌日は峠を下りイドレに到着、マノクワリからモミの滞在を含め、十日間という 順 調な踏破行でした。

その先、一行の一人中川一郎さんの話
 「私達がイドレに着いた際、たまたまパポ駐屯陸軍部隊の野菜を取りにきたダイハ ツがあり、これに便乗パポヘ行き、さらにプラウ(カヌー)の便を得てコスカに向か いました」 一行は南興コカス事務所(マノクアリ事業所の出先・松沢満さん、田代俊男さん が 駐在していました)で船を待ち、海軍舟艇に便乗、全員七月十七日アンボン脱出 を果 たしました。
 マノクワリを出発した時の総数三十人でしたが、朝比奈茂さん、岡部一雄さん二 人 は、軍の要請でモミに残ったものの、その後消息を絶ちました。  もっと早い時期に、船を使ってマノクワリを退去した人たちは別として、南興組 は陸路を使った一番早い成功した退避行だったのではないでしょうか。

ソロン組も無事着いた
 第二陣の泉川事業所長の率いる三十名は、七月一日頃陸路ニューギニアの西岸の 港街ソロンに向かいました。  行程は二週間の予定でしたが、結局一ケ月余りを費やし、ソロンに着いた時は一 行 疲労の極に達していました。  出発後、同行するのは無理だとマノクワリに戻った人、一行から遅れ途中で、連 合 軍のサンサポール(マノクワリとソロンの中間地点)上陸に遭遇、消息を絶った 人がいて、ソロンに到着したのは二十七人でした。  一行は王子製紙関係者とともに、海軍建設部に籍を置き、ソロンのムラ川上流で 自 活生活を行いました。  なおマノクワリに残留した十数名の消息は不明のままです。

その他の行方
サルミ(ホーランデイアとマノクアリの中間)
 サルミ駐在の床井勝さん、松本富蔵さん、新妻末蔵さん、秦さん、海老名庄次郎 さ んたちは、サルミの奥地で自活生活を達成して、東ニューギニア事業所生存者三 人(高橋玉さん、徳田さん、高岡希隆さん)も受入れ、無事帰国を果たしました。

カイアナ・コーカス
 カイマナ(ニューギニア南西海岸)駐在小山正亮さん、益満益憲さん、 コーカス(ベラウ地峡西岸湾入口)駐在松沢満さん、田代俊男さんは、海軍の撤退と 共にセラ ム島ヘ移動しました。松沢満さんはさらにマカッサルに移りました。

十、地獄のベラウ地峡

ベラウ地峡の地形
 ニューギニアの地形は恐竜に例えられます。首の狭い部分がベラウ地峡、マノクワリの南方二百㎞にあります。地峡は南北百㎞、東西は北側で五十㎞、南側三十㎞です。地峡の南北に標高五百 m から千mの三条に山脈が走っていますが、そのさらに北に標高三千m、南側に二 千五百mの山脈があります。そのため、東西どちらからも雨雲が吹き抜け、地峡にい つも大量の雨を降らせ、全面熱帯雨林、広大な沼沢地帯を作っているのです。

マノクアリの陸軍
 四三年(昭和十八年)十一月、ニューギニア北岸、西の拠点マノクワリに、陸軍 二万余人が入りました。(第二軍・勢集団・司令官豊島中将、参謀長藤塚少将)  四三年二月、マノクワリに設けられた海軍民政府(長・浜田海軍中将)は、戦局 悪化に伴い四四年(昭和十九年)二月解消しました。
 米軍は四四年四月二十二日、ホーランデイア上陸を行い、五月二十七日マノクア リの北ビアク島を占領、飛行基地を設定、七月二日ビアクとマノクアリの中間ヌンボ ル島に上陸、両島の日本陸軍守備隊は壊滅、玉砕しました。  その頃米軍は「マノクワリは七月十四日に上陸する」と予告のビラを撒きまし た。 マノクワリの陸軍はすでに食料不足状態で、このままでは戦いも自活もできない と判断され、一万五千人(一説では一万人)の兵員をベラウ地峡を通り、西岸のイド レ 方面に退却させ、兵力の温存を図ることにしました。
出発は七月一日、南興社員三十名が出発した十日後のことです。 また一部千名の兵をノクワリの西方、ニューギニアの西岸ソロンへ後退させまし た。

空白のベラウ地峡地図
 当時現地陸軍手持ちのニューギニア地図は、中味記載の無い空白の五十万分の一 し かありませんでした。

海軍ニューギニア調査隊
 四三年(昭和十八年)始め、海軍はニューギニア全域の地理、人文を調査するた め三百人もの調査隊を編成、踏査を行いました。 この一班南興社員を主体とした「ベラウ地峡調査隊」は、約二年間三次に亘る調 査を終え、ベラウ地峡の詳細は掌握済みでした。しかしこれは海軍の命令で行われた ので、報告書は海軍に出されただけでした。

陸海軍の確執
 日本の旧陸海軍両者間には伝統的に、互いに情報を知らせ合わない、聞きもしな い と言う、不可解・奇妙な断絶関係があって、あの大戦中もそれは続いていたよう で す。この未知の地峡突破作戦に当たって、陸軍はベラウ地峡資料を海軍に求めなかっ た し、現地陸軍は事前に現地を一度の偵察も調査をしないで大軍を向かわせたと云 うのです。

地獄のベラウ・玉砕の記
 この作戦大失態の顛末を書いた 「ニューギニア玉砕の記」(元陸軍中佐飛田中広著)があります。 「ベラウ地峡調査隊」に参加、南興社員の中心だった駒沢幸男さんは、この本を読 んで次のように述べています。 「海軍の依頼に基づくこの「ベラウ地峡調査行」が、陸軍の撤退作戦を意図したも の でない以上、私の報告書が陸軍側の手に渡らなかったことも一理なしとしない が、私 は戦後この本を読んだ時、傷心深く、痛憤を禁じ得なかった。
 陸海軍がいかに犬猿の仲だったとはいえ、同じ日本人同志ではないか。 それを海軍側はこの報告書を見せようともせず、陸軍側は見ようともせず、また 何らの実態調査も行わずに軍令を発し、あたら一万を超える将兵を死に追いやったの で ある。 軍司令部、幕僚たちの無謀かつ怠慢、軽薄な思い上がりは痛罵されて然るべきで あ る」

モミへの道
 以下『』内が 「ニューギニア玉砕の記」の伝える「ベラウ地峡地獄」の引用です。
『モミへの山道はニューギニア特有の赤い粘土が雨水をふくみ、そこを大勢の部隊 が続々と通るので、壁土をこねたようになる。  それがまるでタコの吸盤のように靴の裏に吸いつくのだ。  折から降り出した雨は、翌日も翌々日も降り続く。時には強風が加わり、大粒の 雨 は一本一本上着を通し、肌につきささるかと思われた。』
(モミはマノクワリの南約 百㎞、陸路はなく、南興では船で往来していました。  南興調査隊の調査でモミは、ベラウ地峡を越える最短ルート入口に至る中間なの で す) 『そこである部隊は海岸線に出ようと、思いきって食糧、衣料等の携行品を減ら し、ロタン=藤のトゲで手を裂かれながら、斜面をよじ登り、嶺を超え、谷を渡り、 湿地 を這い、泥んこになり、水浸しになってようやく海岸に出た。』
 しかし、海岸に道はなく、マングロープの気根に足の裏を痛めながら、樹林を突 破 して砂浜に出たものの、敵機に追われて再び山中へ・・マノクワリを出発して十 二日目、その間すでに相当の犠牲者を出しながら、ようやくモミに辿り着く。

ベラウ地峡ヘ
 モミで数日間休養、食糧を補給、いよいよ千古不ばつの大森林に足を踏み入れ、 南西方向をとりながら、ベラウ地峡を縦断に近い形で、斜め横断に挑んだもので、 かっては平和だった南興モミ農場が、地獄の入口となった。

 それからと云うものは 『昨日も、今日も、明日も、雨、雨、雨、前人未踏の原始林は雨に明け、雨に暮れ た。  そこには削り絶った岩山続き、落ち込んだら最後、胸もとまでも没する重湿地帯 があり、鉄色の腐った悪臭に満ちている。  ・・いつになったら目的地に着けるのかわからないとなると、気力は失われ、疲 労 はは倍加した。しかし、疲れはて、衰え果てても、歩くよりほかに身を救うすべ はなかった。  風に起き、豪雨の中に泥濘を歩み、湿地を這い、峻嶺をよじ登る。  その道なき道は、原始林の底に延々と続き、途中にマラリアや飢餓で斃れた将兵 の 死骸があるいは生々しく、あるいは腐乱し、あるいは白骨と化して点々と横た わっていた。  ・・ある兵は、腐りかけた戦友の傍らに伏し、そのうつろな眼を密林の梢からの ぞ き見える雨雲の動きにこらしていたが、彼はすでに両の眼や鼻のあたりにしつこ く群がる銀蝿を追い払う気力さえ失っていた。蝿は隣の腐燗した屍に群がり、ひょ い、ひょいと生きている幽霊の顔に飛び移っては、また燗れた黒紫色の屍体へ舞い 戻って遊んでいた。  ・・たまたま幾つもの隊が同じ場所で露営する時など、死臭漂う密林の暗黒に、 点々と遠慮がちな焚火が見える。それはまさに「幽霊が焚く鬼火」のように眼に 映っ た。時にその鬼火が白骨を照らし出したときは、それが今にも踊り出そうにさ え思われた。
 ・・始めの頃は誰しもこのような場所の宿営は避けていたが、やがてそれを気に してはおられなくなった。 「腐乱屍体を抱いて寝る」と云っても過言でない毎日であり、毎夜だった。  ・・八月に入ると、食糧はほとんど尽き、雑草や木の葉、芽等をむしゃむしゃ食 べるほかなくなった。豚皮製の軍靴や図嚢を焼いて炭にし、それをかじる者も出てき た。 インドネシア人兵補たちに人肉喰いが始まった。ただ一人密林を歩いていると、 殺され喰われてしまう事態になってきた。  毎日毎日が餓鬼、畜生の阿修羅地獄であり、その地獄の中でもがき続け、力尽き て斃れ、幽鬼の群れに加わって行く者が日増しに増えて行く。
 そして、将校も、兵も、台湾人軍夫も、インドネシア兵補も、何の差別もなく、 マ ラリア、栄養失調、飢餓に斃れ、腐って白骨と化し大地へ帰って行くのだった。  ・・結局は、マノクワリから一ケ月余を費やし、目的地のイドレに辿り着いたと き、当初の一万五千人の兵員は、およそ六~七千人に減ってしまった。』
 南興・駒沢氏は「もし、軍指令部が事前に現地を調査するとか、南興報告書を検 討を加えていたら、モミからの経路、補助食糧の獲得方法等で啓示されるものがあ り、 その道中でこれほどの悲惨な結果を招くことはなかったはず。」と言い、また 「これにも増して軍首脳部の大誤算は・・イドレ地区には、大サゴ椰子地帯があ
り、兵力の温存が図れる・・と考えたことだ。たしかにこの地域にサゴ椰子はある が、ほ とんど植栽したものだ。ベラウ地峡西海岸のイドレ、ヤカチ、シンジョリ、 ラサウイ等は、二百人~五百人程度の集落に過ぎない。  そこへ全住民の何十倍もの兵士がなだれ込めばどうなるか、自明の理である。  ようやく目的地のイドレに辿り着いた兵士たちも、ここは安住の地たりえず、さ ら に南へ西へと食糧を求め続ける。
 そして兵力の温存は愚か、終戦にいたる一年の間、飢えと病に悲惨、悲壮の毎日 を送り、ヤカチ、ナラマサ、イドレ、ワサリ等の地域に大きな墓場を築き続け、戦後 生還者は僅か三千人に満たなかった。まことに軽率かつ無謀極まる司令部の判断であり、その罪万死に値する大失態と 言和ざるを得ない。 ・・いまに圧倒的な敵軍が押し寄せて来る。一日も早くマノクアリから撤退しな いと危ない。イドレ地区にはサゴ椰子が沢山あるそうだ。行けば何とかなるだろう。 イドレヘ退却して逃げ込もう。・・ こんな考えが、司令官、参謀たちの本心だったのではなかろうか。敵が攻撃して 来たら、あくまでも迎え撃ち、死して護国の鬼になろうなどの気概はすでに失ってい たとしか思えない。  イドレ地区の実態調査はおろか、情報収集さえ行われなかったことは不思議にさ え思う。
 この大部隊に「転進命令」が出る十日前、マノクアリを出てイドレに着いた南興 岩田隊は、折からイドレに野菜調達に来たパポ駐在陸軍のダイハツに便乗、パポに送 ら れ、次いでコカスに向かったと言う。つまりイドレ方面に大部隊を養うサゴ椰子 林があるかないか、パポ駐在陸軍に聞いたら判った筈だ。  こんな一発の弾丸も撃つこともなく果てた兵士を「野垂れヤカチ」と言った。モ ミからすぐ取りついた場所、そして一番「野垂れ死に」の多かったのが、ヤカチ川沿 い だったかららしい。これはもちろん生き延びた人間が死んだ人間を言ったこと だ。そ して生き延びた将兵が軍上層へ向けた、精一杯の怨嗟、呪詛の声なのであ る。 この部隊の犠牲者率八十%と言うのは、凄惨苛烈のニューギニア戦線では珍しい ことではないのかも知れない。しかし、万斛の怨みを抱きながら死んでいったこれら の人々には、喋ることも、訴えることも、書くこともできないのだ。(旧南興駒沢幸 雄氏・竹村次郎氏)

一番遠いコースを選んだ大軍
 ベラウ地峡を、南興調査隊の中心だった駒沢幸男さんはこう説明します。 「南北方向で百㎞、東西方向では北側で五十㎞、南側で三十㎞の区域と見てよかろ う」  今地図を見ると最短ルートは一目瞭然、南端の三十㎞、しかも東にウインデ シー、西にイドレと言う集落もあるのです。 南興岩田隊はこの峠を正味二日で突破しました。
地図がないとは言え、何故大軍はモミから山に挑んだのでしょう。白地図で見て も 東から西に真横に進めば、まだ困難も少なかったはず、でもそれが出来なかっ た。 そのわけはモミまででさえ、海岸線は全てマングロープの森に覆われ、そこに道 は なかった。海岸に出たら敵船に銃撃された。
(南興隊もモミまでは徒歩でした)この先は海岸に並行して、全く道のない山地を南下しなければならない。それな ら ばいっそモミから山を斜め横断しよう・・としたのでしょう。結果としてこれは 最悪 の選択になりました。 (南興隊の成功は小人数で土地感のあるモミだったし、住民の協力で船で夜間南下 で きたからです。)

三人が二人になった時
 終戦後私達がスリリ居留民収容所に入った時、少し遅れて炊事班に入った人の中 に「ベラウ地峡」を越えたと噂される人がいました。  その頃はそれが「ベラウ」とは知らなかったけれど、何時とはなし、誰とはなし に「連中は喰ったらしい。ジャングルを越える時、三人連れが二人になった時は、外 の 一人を喰う相談をしたんだそうだ・・」  そんな話が耳に入って来ました。 噂された方は、異様に黒い顔色をしていましたが、とても気の良い、料理の腕の 良 いおじさんでした。  マノクワリには最盛期三千人近い民間人が渡航していたそうですから、相当数の 人 が逃げ遅れ、大軍が退去した後を辿って、西に向かったのではないかと思われま す。

退路を絶たれる
 マノクワリとソロンの中間、サンサポールに七月中旬連合軍が上陸、マノクワリ からの退路をふさぎました。南興社員一名が犠牲になっています。
 陸軍のソロンへ向かった兵士たちの消息は判りません。出発が南興の一行より遅 れていたとしたら、米軍のサンサポール上陸に出会った公算は大きいです。

マノクアリ歌舞伎座
 戦後有名になった加東大介主演の芝居、映画「南の国に雪が降る」は、四四年> (昭和十九年)十一月に設けられた劇場「マノクワリ歌舞伎座」の出来事を扱ってい ます。
玉砕覚悟でマノクワリに残された七千人の兵士のために、俳優加東大介を先頭に 編 成した劇団が数々演じた芝居、特に熱帯とは違う日本の風土を模した舞台装置 「降る 雪、枝になった柿の実など」に、ほとんどの兵士の深い感動を呼んだとのこ とです。
 しかし、マノクワリの将兵の内どれだけの人が、この年の七月、残された兵士の 倍、一万五千人の戦友がベラウ地峡で「野垂れヤカチ」の惨劇に会っていたことを 知っていたでしょうか。
「ベラウ地峡越え」で七千人に減った兵士たち、目標の西岸に達したのに、なお安 住の地を持つことができず、帰国時にはさらに三千人に減ってしまった。  マノクワリの兵士の大部分はこのことを知らないで帰還していたでしょう。 戦争は、紙一枚の違いで、簡単に人が生かされたり殺されたりすることが茶飯事 に起こる非情で酷いものです。「地獄とは」罪を冒した人間の落ち行く処と言われま す。
「戦場の地獄は」全く理屈なし、避けることを許されず、なに人でも投げ込ま れ、戻って来られない処です。

十一、アンボン事業所・テルナテの行方

 アンボンはマカッサルの東、ニューギニアの南西にあり、古くから香料諸島で知 ら れたハルマヘラ、アール、モルッカ諸島等東方への要衝として発展した港街で、 マカッサル事業所開設と同時に南興の出先が設けられていました。 しかし、四四年(昭和十九年)に入り、東ニューギニア、マノクワリ事業所の瓦 壊、撤退の後、アンボンにも豪州方面からの空爆は日増しに激しさを増し、ここでの 業務は困難となり、事業所は閉鎖され、社員の大半は、マノクワリの避退者ととも に、隣の大島セラムに避難、自活し、終戦を待ちました。
牧野茂さん、石原英夫さん等何人かの方は、マカッサル事業所に移りました。
テルナテはモルッカ諸島(ハルマヘラ島)の中心地で、ここにアンボン事業所の 出 先が設けられ、四三年四月の事業所社員名簿によると、井上義夫技手が着任してい ました。

 米軍はニューギニア・ビアク島を四四年(昭和十九年)五月に攻略、七月中旬マ ノクワリの西サンサポールに上陸、マノクワリの日本軍を釘付けにし、ビアク島から の爆撃を開始、同年九月十五日、ハルマヘラ島の北モロタイ島に上陸、一月足らずで 飛行場を設営しました。激しいハルマヘラ島攻防戦の後、勝った米軍はここからB2 4爆撃機により、昼夜定期便のような正確さで、セレベス・フィリピン等各地への爆 撃を開始したのです。

マロスに、四四年(昭和十九年)暮れ配属された坂広栄さんは、この年テルナテ を脱出、セレベス島を北から陸路歩いてマカッサルへ避難した人でした。 私は当時、南興テルナテの状況がどうだったか、坂さんが何時、どこからテルナ テ に来て、何をしていたか、聞いて忘れたか、今何も思い出せないのがとても残念 です。

『参考図書』

「南興会たより」駒沢幸男、岩田武夫、武村次郎、高岡希隆各氏寄稿による。
「月のマリンプン」小林唯雄氏手記
「戦場パプアニューギニア」(中公文庫)
     奥村正二著
「東部ニューギニア戦線」(光人社文庫)
     尾川正二著
「餓死した英霊達」(青木書店)藤原彰著
「ニューギニア玉砕の記」元陸軍中佐飛田忠広著
「南の島に雪が降る」ちくま文庫加東大介著
「セレベス戦記」図書出版社

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