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ニューギニアからセレベス島へ

ニューギニアから撤退、セレベス島へ、そしてマリンプン収容所生活を回顧する

 小林 唯雄
 元 南洋興発株式会社 ニューギニア事業所

(原稿は北海道在住の永江勝郎様から頂きました)

勇躍南進

私は昭和18年(1943)4月、静岡県沼津市にあった「大東亜省拓南練成所」に第2期生として入所、6か月の猛訓練を経て、9月下旬65名が無事終了、同期9名と共に配属先を南洋興発㈱ニューギニア事業所に指命されました。10月14日、新任ニューギニア事業所長として赴任する小林子平さん外1~2名の幹部も一緒で、三井農林、南洋食品、矢島組等各社社員と共に横須賀港で乗船、15日出港、九州・佐伯港を経て、パラオに向かいました。10月末パラオ島に到着、2日後の朝出港、11月5日夕刻、中央ニューギニア・旧オランダ領ホーランディヤ(現インドネシア・イリアンジャヤ州都ジャヤプラ)に上陸しました。

そこは戦場

ホーランディヤから更に、事業本部の置かれた旧豪州信託統治地ウエワクに赴任したが、そこは既に戦闘最前線、とても仕事など出来る状態ではなく、敵の空襲から逃げるのが精一杯の毎日でした。

南洋興発東ニューギニア事業所は消えてしまった

東ニューギニア事業所はウエワク本部(8名)を始め、交易所をウエワク(4名)カイリュート島(6名)ホーランデイヤ(4名)ボイキン(3名)アイタベ(1名)センタニ(2名)デムタ(1名)に置き、ドヨバル石鹸工場(2名)ムシュ島椰子園農場(15名)石鹸工場(4名)などに総員50余名が配置されていました。

 44、4、15 東ニューギニア地区の戦闘激化に伴い、民間人は西部への転進することとなりました。蘭領ホーランデイアの西、海路1日(100km)ほどの小港デムタに終結、配船を待つことになりました。

乗船順序が生死を分ける 4・18

第1船が入りました。乗船は病弱者優先、後の者は抽選で決めました。私は当時熱帯潰瘍がひどく歩行困難だったので、病弱者として乗船しました。この時南洋興発関係で乗船できたのは、中山忠信事務課長以下24名でした。私逹の船も途中敵襲を受けましたが、幸い犠牲は少なく、4月25日やっとのことで西部ニューギニアの拠点マノクワリに辿り着いたのです。

第2船の悲劇 4・21

第2便が入りましたが、この船は出港1時間後に敵グラマン機の機銃掃射により火災発生、乗船者の大半が犠牲になりました。南洋興発㈱関係者は5名死亡、生存者は散りじりとなって海岸に泳ぎつきましたが、身回り品を全部失い、陸路転進に加わりましたが、大半の人は消息不明となったと言われます。

陸路転進

デムタ港に残った者は、それぞれグループに分かれ、西方に転進を始めました。当面の目的地はサルミで、そこに南洋興発㈱の事業所もありました。最終的には南洋興発、西の拠点マノクワリとしていましたが、大半の人はサルミにさえ到達できませんでした。

 拓南練成所同期の高岡氏1行は、デムタから約2週間をかけ、200kmの逃避行を成し遂げサルミに到着しましたが、それから先の大河(マンプラモ川)は船がなければ渡ることは困難と判断されたのでマノクワリ行きを諦め、奥地に入って現地自活を始めることになりました。しかし容易に適地を見い出すことが出来ず、飢餓の体で1か月余りを彷徨、この間に同行8人中5人は病気、栄養失調(飢餓)により死亡、残り僅か3名だけが自活を達成、終戦後本州帰還を果たせたのです。

日本軍は・・連合軍は・・パプア人は

44年4月、南興1行の退避行に前後して連合軍は、アイタベ、ホーランデイア地区に上陸、一般邦人同様に西方への転進を図った日本軍の退路を完全にふさいでしまいました。東部ニューギニア戦線で(ガダルカナル・ポートモレスビー作戦を含めて)日本軍は、送られた総数16万人中生存して本土に帰還した者は僅か1万人でした。損耗の主な原因は直接戦闘によるものでなく、マラリア等の傷病と飢餓のためでした。ここにニューギニア戦争の特質があります。(損耗率94%)なお、日本兵の1万人も、現地パプア人の庇護なしには生存出来なかったと言われます。

 連合軍の戦死者も1万2千人(豪州兵8千人、米国兵4千人)に上りました。ニューギニアの人逹の被害は明らかではないが、4~5万人とも推定されてれます。

      「参考」奥村正二著「戦場パプアニューギニア」中公文庫

マノクワリから

2マノクワリから中山忠信事務課長以下3名は、軍艦に便乗本土に帰還しました。残り21名は、便船を得て4月29日アンボン島に向かって出発、5月7日に着きました。アンボンは当時まだ敵襲が無かったので、ここでやっと生気を取り戻しながら、次の配船を待ちました。5月25日にマカッサル(セレベス)へ出港したのです。

東ニューギニア事業所社員の行方

本土帰還
1、マノクワリから途中帰国 3名
2、マカッサルから  11名
3、マカッサルから途中帰国 2名
4、ニューギニアデ自活生存 3名  計 19名(38%)

死亡・消息不明者
1、デムタ第2船による遭難   5名
2、マカッサルから帰国中    8名
3、転進途中の死亡・消息不明18余名  計 31余名(62%)

(註)拓南練成所出身者9名中、事前帰国者1名、第1船乗船者3名=現在2名生存、第2船に乗船敵襲により殉職1名、残り4名は陸路歩いて転進したが、3名は途中で殉職、高岡希隆さんのみサルミ奥地で自活、戦後本土帰還を果たしました=生存。

マノクワリ事業所の命運

ベラウ地峡班
 ニューギニア西部・マノクワリ駐在の南興社員が、脱出のためベラウ地峡を経由西方へ出発したのは44年6月21日、この班員は30名、地峡入口のモミに2人残留=後消息を絶つ、他は7月17日にアンボンに到着28名です。

ソロン班
 マノクワリからニューギニア北海岸を、陸路ソロン=ニューギニア西海岸に脱出した班員も30名でした。7月1日頃出発したが、徒歩2週間を予定していたが1ケ月余を費やし、ソロンに到着した際には全員疲労の極に達していました。マノクワリを出た後、体力上無理とマノクワリに戻った人1人、1行から遅れたため連合軍のサンポール上陸作戦=中間地点に遭遇、消息を絶った人2人、ソロン到着者は27人でした。1行は既に海路西へ脱出する機会を失い、ソロン奥地で自活生活に入り、戦後本土へ帰還した。マノクワリ残留十数名は全く消息不明のまま終わった。(南興会報)

マカッサル上陸 1944、6、2

東ニューギニアからの転進組当初の渡航目的地は、ボルネオ島東海岸、石油基地バリックパパンでしたが、マカッサル駐在重役の指示で、全員マカッサルに下船することになりました。そこでマカッサル事業所勤務希望者(11名)と内地帰還希望者(10名)に分かれました。

内地帰国組 44,6,20

2この日、内地帰還組はマカッサル港を出港したが、船は東シナ海を航行中敵の襲撃に遭い撃沈され、沖縄県出身の若者2名以外は、皆本土帰還の夢も虚しく果ててしまいました。この組の大半は元南洋群島からの出向者で年配者が多かった。マカッサル勤務希望者は、健康の快復した者から逐次任地に出発しました。

パレパレ 44,6,29 パレパレ地区勤務となり赴任

ピンラン 44、7、10 ピンラン出張所勤務となり、吉川大一さんの下で生糧品集荷を担当しました。当時のスリリ農場では、茄子、トマト、サツマイモなどを直営栽培しており、養鶏(鶏、家鴨)もしていたので、専従の現地人が一人配置されていました。

ワタンソッペン 44、9、30 ワタンソッペン分店勤務

岩田さんの下で、ソッペン分店やタジュンチョ出張所管内の米穀の集荷に専念しました。(45、6頃、一緒に仕事をしていた森(今吉)秀雄さん=ミナハサダブルスはマカッサルに転勤した)

現地召集 45,7,5

現地召集で「カナジャイ=ラッパンとエンレカンの中間地点」兵舎に入る。(独立第377大隊)

エンレカン 45、8、15

終戦、自給自足のためエンレカン農場に派遣される。

ソッペン寮 45、9、15

軍籍を解除され、ソッペンに帰る。ソッペンの街から4kmほどの、オンポにあった日本紡績工場の1部を収容所に仕立て、そこに入りました。(永江もここに入りました。オーストラリア兵のホールドアップに遭った処です)

マリンプン 45、10、15

占領軍の命により、ソッペンを退去、マリンプン収容所に移る。収容所は草原の所々に建てられ、入り口付近は陸海軍の兵隊さん逹が入っており、邦人は奥の方が割り当てられていた。ソッペンと異なり、此処は水利が悪く、従って到着した日から、交代で井戸掘りをしたが、草原とは言ってもそれほど高い処でなかったので、案じたほど深く掘らなくても水が出たので、大助かりだった。日を追って収容所に集まる人は増え賑やかになり、お互いに励まし合いながら、1日も早く内地へ帰れる日の来るのを祈り合った。3千mを超すランテマリオの連峰ヲ望み、マリンプンの丘に立って、心を遥かな故郷にひたはせながら、次のような歌が皆に口ずさまれたのはこの頃だった。

月のマリンプン


1、草原の涯の峰々 雨雲晴れて 白く流れる夕霧、さ霧
   ランテマリオの 懐かしさ

2、丘に立ち 月の光に 濡れつつ唱う
   唄は懐し 思いを秘めて 更ける十五夜 マリンプン

3、十五夜の 月の光は切ないものよ
   帰り来る日を 今宵の空に 祈るいとしの人もある

4、故郷を偲ぶ男子が 心で泣けば
   今宵十五夜 キラリと光る 草の夜霧のマリンプン

スリリ農場ヘ 10,25

マリンプン収容所の野菜不足を補うため、南興社員を主体とした約50名が、農耕隊として選抜されたが、私もスリリ農場は勝手知った所だったので、希望して編成に加えて貰った。(註・スリリは私達が派遣される前は、多分無人だったと思う)

 私逹が移って暫くの間、農場設備は宿舎1棟と農耕具を保管する倉庫1棟だけ、まったく淋しいかぎりで、住民感情もあまり良くないと言うので、夜は不寝番を立てる日が続いた。マリンプンで使う野菜類の需要を満たすには、もっと人を増やし農場を拡張する以外方法がないと言うこととなり、占領軍の認可を得て、スリリ農場の道路の反対側に耕地拡張が決まった。逐次農耕隊の人員は増加され、当初の予定では200~300名くらいではと言われていたが、何時の間にか宿舎も12棟にもなり、農耕隊以外の任務分担の人逹も加わって、収容人員は日を追って増加していった。

南興社員全員集合 11、10

マリンプンにいた文野所長以下もスリリに移り、特別任務を与えられ他の地区に残された者を除き、南興社員は全員スリリに終結、1番大きな「第2寮」に全員が起居することになった。(註、スリリ群の群長は、氏名は忘れたが、三菱マカッサル駐在重役で、眼鏡をかけた年輩の方がしていたと記憶しています)

 組織や運営は私達末端には分からなかったが、農耕に関しては南興に一任されていたように感じていました。私は農耕具が増えた頃から、小池育之助さん(南興パレパレ所長)の下で農具倉庫係をやり、農具の保管、整備と種子の保管や少ないながら肥料の分配等の仕事をしました。(倉庫長は小池さんから松園さん=事業所次長・前マカッサル支店長、そして和田さん・米穀課長、坂田さん・マロス主任とリレーされた。いずれも南興社員)

オーストラリア兵

占領軍のオーストラリア兵の監視が、途中から農場の入り口に2~3人立つようになったが、指定区域を出たり、現地人と接触したり特に悪質なことでもない限り、何も文句は言わず、彼等は至極のんびりした態度でした。

700人となる

人はその後も増え、警備隊、沖縄隊等を含めて700名以上にもなり、農耕班の外、養鶏、養豚等の畜産業務も加えられ、それぞれに精を出した。

正月・餅を搗く 21、1、1

収容所で敗戦後初の正月を祝う。正月は炊事長、安田行雄さん以下の努力で、餅を搗くこともできた。各寮から代表が出て、ねじり鉢巻きで威勢良く杵を振り上げ、少々だったが酒の配給もあり、敗戦から立ち上がった初の正月を賑やかに祝った。

電灯 3月初旬

収容所内に電灯が灯もり、環境は著しく向上した。電灯が入ったため、生活は大変しやすくなった。 図書館、集会所、散髪所を始め、野球場等も完成し、敗者の収容所とは思えぬ程設備が整って、休養日には野球や相撲大会が催され、第2寮は何をやっても強かった。

演芸会

演芸会等も開催され、素人ばなれした人々が沢山いて、時には軍に召集された玄人もマリンプンから来て熱演してくれたので実に楽しかった。

自由時間

2作業も移転当初より楽になり、自由時間も貰えるようになったので、碁、将棋等に熱中する人等、それぞれ好きな時間を過ごすことができた。私はソッペン時代岩田さんとヘボ同士で夜長の無聊を慰めていたことがありましたが、ここでは大城昌英さんをはじめ、上手な人が沢山いたので教えて貰うことができて、収容所生活における唯一の収穫だったように思っています。

カンコン

野菜類の不足を補うため、寮の近くに小沼があり、其処は甘藷の葉に良く似た「カンコン」という水草が密生していたので、その茎葉が汁の実や、その他の料理に用いられ、味もまあまあだったので、手製の筏でこれを採取する使役に駆り出されたのを覚えています。

給食

食べ物については、早くからセレベスに来ていた人逹はぜいたくな食事をしていたようですが、私達のようにニューギニアの生活をして来た者には、その当時を思えばまだまだぜい沢の部類であり、敗戦国の収容所生活であってみれば、それこそ文句の云えないものであったと思う。

マンディ(水浴び)

スリリはマリンプンと違って、湿気が多く汗をよくかいたので、昼休みと夕方作業終了後と2回水浴(マンディ)をした。地下水が豊富だったので、何処を掘ってもすぐ水が出るので、各寮で専用の井戸を2~3箇所持っており、第2寮は寮のすぐ横に1箇所と、もう一つは少し離れた椰子林の中にあったが、若い者たちは椰子林の井戸を使うことが習慣になっていた。椰子林の井戸は広い場所がとってあったので、何時でも楽に使えてよかったが、唯一蚊がいたのが欠点で、夕方マンディの時など蚊を追うためピン、ピンと肌を叩く音が遠くにいても聞こえ、何とも云えない情緒を漂わせたものであった。

スリリ小唄

この頃、文化部で「スリリ小唄」を発表し、スリリ群全員が広場に集まり、マリンプンから楽団が来て、盛大に発表会が催された。 この唄も「月のマリンプン」同様、望郷の年を込めた唄であり、年輩者も若者たちも、朝夕これを口ずさみ、ただひたすらに内地に帰れる日を待ちこがれたものであった。

「スリリ小唄」

1、スリリよいとこ湯の香もホロリ ホロリ狭霧が朝陽に晴れりゃ
  畑は黒土 香りも恋し 赤いサロンノの ~ ぇぃ 花が咲く

2、椰子の緑に浮雲フワリ フワリ白雲 流れて消えりゃ
  遥か青空 涯なく続き 故郷(くに)へ想いが ぇぃ ただ走る

3、空は茜に 入り日はトロリ トロリ夕月 思いをかけりゃ
  呼ぶか招くか 穂の出た尾花 こがれ泣くかよ ぇぃ 虫の声

4、スリリ温泉村(ゆのむら)灯かげもユラリ
  ユラリ夜風に 蛍が光りゃ
  南十字の星さえ さえて 遠く籾搗く ぇぃ 杵の音

温泉

この唄にもあるように、スリリ一帯は湯脈があり、所々に湯が湧いていたようだったが、開発されていた所は少なかった。スリリ群からマリンプン寄りに1箇所、浴室の完備したものがあり、ピンラン出張所勤務時代に1~2度行ったことがあったが、収容されてからは行く機会が無かった。(註・マリンプンに向かう道路から少し右側に入った所にあり、スリリ収容所の第2寮裏側辺にあった間道を通っても行けたように記憶しています)

引き揚げのニュース 21、4、初旬

内地へ引き揚げの配船があるとの情報で群内は沸きかえる。

引き揚げ正式発表 21、4、中旬

帰国の配船があることが正式に報じられた。

いざ出発 21、4、24

スリリ収容所を出発し、乗船地パレパレに向かう。車両が少なかったため、大部分の行程が徒歩となり、私達のグループは夕方出発準備を完了し、その夜は群内に泊まり、翌早朝スリリを出発した。スリリから約25km,徒歩の終点カリヤンゴに到着したのは、午前11時過ぎだった。

パレパレ仮収容所

カリヤンゴからトラックでピストン輸送、夕方までには、皆パレパレ郊外の仮収容所に入った。そこで配船が遅れ、乗船延期が伝えられ落胆する。

乗船・引き揚げ船・航海の途につく 21、5、6

パレパレ港で乗船、引き揚げの途についた。

名古屋港に入港 21(1946)5、23

正午少し過ぎた頃に、名古屋港に入港。

別離・帰郷   21、5、24

2夕方近く熱田駅に行き、皆と別離を惜しむ。

「追記」

同期散華22名(34%)
拓南練成所終了第2期生65名の内、戦争中南方各地で亡くなった方は22名に及ぶ(34%)練成所は昭和16年4月、開設から終戦までの約4年の間に巣立った若人は1、250数名、内南方各地で散華された方は300余名を数える。

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