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(丘の中腹から見たパレパレ市内(2000 - 12 撮影)
パレパレはマカッサルの北方約156km(車で約3時間)のところに位置する南スラウェシ州第2の商業、港湾都市である。パレパレの市街地は海岸からなだらかな丘の斜面に展開している。
パレパレ港は規模はマカッサル港よりはるかに小さいが水深もあり天然の良港である。毎週ジャワ島のSurabaya,カリマンタン島のBalikpapan,Nunukan(マレーシアとの国境の町)を結ぶ大型のROROフェリー(AGOA MAS 号 全長123m、9350GT)が入港する。この船も日本の中古船である。買船後インドネシアで車両スペースを減らし、乗客スペースを増やしたり、また船首尾にあった車の出入り口を通常の岸壁から昇降できるよう船側に移動するなどの改造を行ったという。マカッサルからカリマンタン島へ渡るにはパレパレの他マムジュ (Mamuju) からもフェリーが出ている。(2001年6月時点の情報)野菜など生鮮食料品は毎日便のあるマムジュ港の便を使うようだ。パレパレ港にはこのほか一般の貨物船、コンテナ船なども入港する。
2000年2月にはクルーズ客船”ヨーロッパ号”がフランス人観光客230名を乗せてParepare港に着いた。観光客はParepare近郊からBatubatu, Pinrang方面の周遊を行った。Fajar紙(2000-2-12)によると周遊地点は次のようであった。
Lemo Susu (Pinrang)
伝統的な鍛冶屋(Masappe,Sidrap)
Nenek Mallomo (絹織物)(Baranti、Sidrap)
LejjaE 温泉(Soppen)
Tator
新聞に掲載された写真には船は写っていないので、多分沖に停泊して交通艇で乗客の輸送をしたものと思われる。果物などの物売りやベチャの運転手の売上げが増えて潤ったようだ。
第2次大戦後、多くの日本人がスリリの収容所を出てパレパレ港から帰国の途についている。(永江 勝朗さんの「セレウェスの思い出」をご参照ください。)その他の日本との関わりとしては、JICAの海外青年協力隊が2名パレパレの職業訓練校で溶接技術その他の指導を行っていた。(2001年時点)
パレパレはマカッサルと観光地秘境トラジャの中間地点となるため、観光客はここで休憩、昼食となる。海岸に沿って大型のレストランがいくつかある。丘の上には眺めのよいホテル・レストランもある。値段も大体リーズナブルである。パレパレの夕日もまた素晴らしい。地元の人はマカッサルの夕日より美しいと自慢する。
マカッサルからパレパレの間の約3時間のドライブも石灰岩で出来た奇岩や、青々した水田風景、養殖池、椰子の茂る海岸風景など変化があって楽しみである。以前にマカッサルとパレパレとの間に鉄道建設計画の話があった。FAJAR紙(2000年5月19日)によると、Victor Segalla 駐インドネシア・オーストリア大使がスラウェシ州知事と面談し、同国はインドネシアに鉄道建設の実績はないが、南スラウェシ州の鉄道建設、当面マカッサルーパレパレ間の鉄道建設のための資材供給を通しての技術協力の用意があると述べた。この鉄道により同州の農産物の輸送をスピードアップ出来るという。海のないオーストリアは民間による諸島の観光開発を希望してるという。
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