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脇田 清之 (Wakita K.)
サム・ラトランギ(Sam Ratulangi)(1890-1949)、太平洋戦争の時代、マカッサルの現地住民向けの新聞に掲載された記事には Dr.G.S.J.Ratu Langie と記されていたが、Wikipedia によると正式名は Dr. Gerungan Saul Samuel Jacob Ratulangi とのこと。北スラウェシのトンダノ生まれ、インドネシア独立運動に貢献した英雄(1961年第590号)として知られ、北スラウェシの空港、大学、マカッサルやマナドの大通りの名称などにその名を残している。地元ミナサハの学校を出た後、バタビア(ジャカルタ)の工業学校を卒業し鉄道技師を務めた。その後 1912年からオランダのアムステルダム大学で数学、教育学を学び、さらにスイスのチューリッヒ大学に学び、1919年 理学博士号を取得。スイス留学中、駐在武官として留学中の東条英機(1894-1948)と知り合い、今後のアジアの発展のモデルとしての日本に関心を深めたという。インドネシアに帰国後は教師、保険会社の設立、バンドンの市会議員、ミナハサ同盟の書記長(後に議長)を経て、戦前にあった植民地参議会議員などを務めている。
ラトランギは太平洋戦争の初期、戦闘に巻き込まれることを恐れ、豪州に避難していたナハサの兵士や船員の家族への援助に力を注いだというが、詳細は分からない。
1943年3月、ラトランギは海軍嘱託西嶋茂忠の推薦で、インドネシア語の日刊紙 ASIA RAYA の刊行にも関わっている。この組織は、日本の現地向けのプロパガンダ機関で、戦争末期にはインドネシア独立に向けた調査機関でもあった。ここには Soekarno や Mohammad Hatta らもいた。
ラトランギは 1943年12月から マカッサルの海軍民政部参与を務めている。1944年(昭和19年)に入って日本の戦況は次第に悪化し、1944年8月には、危機的な状況となっていた。小磯内閣は 1944年9月7日、海軍の頑固な反対にもかかわらず、近い将来に「インドネシアに独立を許容する」という新政策を発表した。このニュースはマカッサルで発行されていた現地向けの新聞 Pewarta Selebes 紙 9月10日発行の一面トップに大きく報道された。
"70,000,000 rakyat Indonesia gembira menjambut kemerdekaan Indonesia di masa depan" (7千万のインドネシア国民は将来の独立を喜ぶ)
現地向け新聞の編集長は近藤三郎であった。Pewarta Selebes はもともと現地住民の宣撫活動として日本語の新聞記事がインドネシア語に訳されている筈であったが、実態は海軍の方針とは異なり、インドネシアの人達の独立への意識を高める啓蒙を行っていた。この記事が号砲となって、これまで地下で行われていた独立運動が活発化していく。
この「独立許容」報道の3日後、1944年9月13日の紙面にはラトランギの論説が掲載されている。
この記事の中でラトランギは、この「インドネシア独立容認の声明」は、日頃インドネシア国民が日本の陸軍、海軍に対して協力してくれたことへの褒美(hadiah)である。
これまでオランダから将来インドネシアを独立させるというような話は一度もなかった。
もし日本が今回の戦争に敗れれば、オランダは再び このセレベス島に帰り、圧政を敷くであろう。いま戦はたいへん厳しい状況下にある。
いまこそインドネシア国民はこの戦争に勝つまで、一層の努力を払って欲しい。この戦争を続けるために日本軍に協力してほしい。
誰の目にも戦争は末期状態であり、海軍民生部参与の立場もあり ラトランギは日本軍への協力を呼び掛けるほかなかったように思われる。
戦況悪化で手が廻らなかったのだろうか? それとも海軍はこの場に及んでもインドネシア独立に反対していたのか?多分後者だろう。なぜなら1944年12月にスカルノがマカッサルへ行って、マカッサルにも防衛義勇軍(PETA , Pembela Tanah Air)の創設を要請したが、海軍は断っていた。ようやく独立準備調査会が動き出したのは 1945年1月になってからである。小磯声明が出されてからすでに6か月近くも経過していた。会議にはマカッサルから、ラトランギのほか、タジュディン・ノール (Tadjoeddin Noor)、Pewarta Selebes 誌のマナイ・ソフイアン(Manai Sophiaan)、ハジャ・ラティ(Hadja Rati)らが参加した。この会議でインドネシア国旗、国歌の使用許可、インドネシア人の行政幹部への登用などが決定された。
しかしこの新政策の公表を4月29日の天長節まで遅らせた。あとから見ればインドネシア独立のための貴重な準備期間を失っていたことになる。天長節には柴田中将、前田海軍少将ほか海軍幹部、スカルノ、スバルジョらがマカッサルへ駆けつけた。ラトランギ博士もその際の記念写真に収まっている(下の写真の左端1がラトランギ、2が前田海軍少将、5がスカルノ、7がスバルジョ 出典:西嶋 重忠「増補インドネシア独立革命 ハキム西嶋の証言」)。当時のニュース映画 "P.T.Ir.SUKARNO KEMBALI DARI SULAWSI" (Youtube) には、スカルノのマカッサル訪問当時の模様が記録されている。粟竹章二氏によると、マルチャヤ広場での歓迎式典では、兵補の模範演技や師範学校の生徒の行進や演技等行われたという。
スカルノはマカッサルで、日本軍のためだけでなく、インドネシア独立のためにも、戦争勝利のため最大の努力を払うよう呼び掛けた。そして 民政府、民生部へのインドネシア人参与の任命、建国錬成院の設立、特定日に限定されるが国旗と国歌の使用許可が発表された。建国錬成院とはインドネシア軍人の養成機関であったが、敗戦まで3か月半しかなく、余りにも遅すぎる決断だった。隣のバリ島では昭和19年にバリ防衛義勇軍(PETA , Pembela Tanah Air) 3個大隊が組織され、日本の敗戦後オランダの再占領に立ち向かったが、スラウェシ島は軍隊が無かったため、再びオランダの支配を許す結果となった。また戦後のBC級戦犯裁判はオランダの傀儡国家、東インドネシア国の統治下で行われ、刑死者は、マカッサルで34名、メナドで28名、スラウェシ島併せて62名と、過酷な裁判となった。
海軍としての独立準備調査会とは別に、ラトランギ博士は、スラウェシ各地の王族や、独立運動を進める Pewarta Celebes の近藤三郎編集長、 Manai Sofiaan 編集長、Hadja Rati 編集員など、マカッサルの同志とともに、祖国防衛のための組織 SOEDARA (Soember Darah Rakjat, 民族決起集会) を立ち上げている。メンバーの多くは海軍の独立準備調査会の委員としても参画していた。写真下 (詳しくは黒崎 久 「セレベス新聞時代を顧みて(2)」を参照ください)
ラトランギは終戦直前の 1945年8月7日に発足したインドネシア国家独立のための、独立準備委員会 (Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesia, PPKI) の委員に任命され、その第1回の会合が、8月17日の独立宣言後の翌日、8月18日にジャカルタで開催された。委員会のなかで、インドネシアを8つの州に分割し、スラウェシ全島をスラウェシ州と定められた。その翌日8月19日、ラトランギは初代のスラウェシ州知事に任命された。
ラトランギの一行はジャカルタでの行事を終え、南スラウェシのブルクンバに飛行機で到着、マカッサルへ帰着する。 8月22日(これは誤りと思われる、多分24日以降と思われる)夜、終戦時、セレベス海軍民政部の政務部長の職にあった海軍大佐 大崎行三さんとラトランギ博士が酒を飲みながら激論を交わしたことが、記録に残されている。内容は近く進駐して来るオランダ軍に対するインドネシア独立運動指導の責任問題であった。
大崎さん曰く「オランダ軍が進駐して来ると、お互いは逮捕されることは覚悟しておかねばならない。その節にはインドネシア独立運動は日本軍と日本人から強要されたものであリ、その責任の一切は日本人にあると吾々に転嫁されたい。その方法として先づ一番に金子君(元興南組 金子啓蔵さん)が責任をとり、最后の全責任は大崎がとるから、後日の再起と、独立の達成を心から祈る」と涙を流して説得された。
ラトランギも額に青筋をたてて「とんでもない。インドネシア民族の独立は吾々の悲願であり、私にはその遂行の責任がある。今までは日本人の一部指導者に、牛の鼻に輪をつけ紐で引っ張られる式の泥縄的独立運動を強要され、不愉怏なこともあったが、これからはインドネシア8千万の民衆と共に、独立を勝ちとるべき秋である。日本人の皆様に責任を執って貰ふ考へは毛頭ない。貴方達は一日も早ぐ無事帰国し、母国の再建に邁進され、日イ両民族が提携する日が実現することを熱望する」とこれまた落涙しきりである、と書かれてある。
ラトランギは1945年9月5日、初代スラウェシ州知事に就任する。しかしスラウェシ島は海軍の管轄地域であったため、インドネシア 国軍の基礎となる防衛義勇軍(PETA)は創られていなかった。したがってオランダ軍がマカッサルへ戻ってきても、ラトランギ州知事を守る軍隊はまだ存在しなかった。ラトランギ州知事の下には、事務局長 Mr.Andi Zainal Abidin、副事務局長F.Tobing、総務部長 Lanto Dg.Pasewang、経済局長 Mr.Tadjoedin Noor、調査局長には毎日新聞系の Harian Selebes の編集長を務めた Manai Sophiaan らがいた。Manai Sophiaan も戦時中マカッサルにおいて近藤三郎とともにインドネシア独立運動の中心にいた。
戦後最初にマカッサルにやって来たのは豪州兵であったが、豪州兵が来る前に、マカッサルでは武器の引き渡しを要求する現地の若者と、それを拒絶する日本軍との間で戦闘があった。豪州兵がマカッサルに上陸したのは9月21日である。そこで日本軍の武装解除が行われ、同時にマカッサルにあった敵国捕虜の解放が行われた。現地の統治権は完全に豪州国に委ねられた。 (写真上:マカッサルにおける日本軍の降伏調印式)
この日、戦前この地を統治していたオランダの将校、官僚、警察官らが、収容所から解放され、彼らは豪州軍の統治の一部を担う役割を与えられた。旧職場には戦争前の書類も残されていたので容易に業務の再開ができた。じつはこのようなマカッサルにおける統治のあり方は、8月15日に英国とオランダとの間で協議、すなわち英国の任務終了後はオランダに統治権が戻るという約束が行われ、これに基づいて、1945年9月2日、豪州のブリスベーンにおいて準備計画されたものであった。
9月22日、オランダ(NICA)は、マカッサルにて戦前の統治を復活させた。マカッサル市長にはオランダ人 Wagner が就任したが、数日後には旧蘭印の将校と交代している。マカッサルにはアンボンから兵器も持ち込まれ、マカッサルの緊張はいっそう高まっていった。現地の若者達はこれに反発、戦時中、兵補としての経験を積んでいる彼らはグループを結成した。
10月2日から5日にかけて市内数か所で蘭印軍とマカッサルの若者たちとの戦闘が行われた。 こうしたなか、1945年10月15日、市内 Jongaya にあるボネ王 Mappanyukki の自宅に、ラトランギ州知事のほか、ルウ王国の Andi Jemma ほか南スラウェシ各地の王族など40名が集まり、この年の5月初め、スカルノがマカッサルに来たとき開催された際話し合われた、インドネシア共和国の「スラウェシ州」としての結束が再確認され、Jongaya 宣言が出された。
10月25日から28日にかけて、元海軍兵補や中学校生からなる決死隊が組織され、マカッサル市内各地で蘭印軍に対しての抵抗運動が展開され、その結果多数の犠牲者が出た。27日にはJongaya にある決死隊の本部が蘭印軍から反撃を受けた。そのため本部は市外の Polombangkeng へ退却した。こうした中、オランダ(NICA)側に協力的な者も出てきた。この中にはNadjamuddin Dg.Malewa, Baso Dg. Malewa 等もいた。こうした状況のなか、州知事ラトランギ自らも11月にスラウェシ住民安全本部(Pusat Keselamatan Rakyat Sulawesi)を立ち上げている。この団体は 前述の「民族決起集会」(SOEDARA, Sumber Darah Rakyat) が改組されたもので、これが南セレベスの独立闘争の先頭に立った組織であるというという。(日本軍政とインドネシア独立 ジョージ・S・カナヘレ P320)
ジャワ島においては1946年1月4日、インドネシア共和国の首都をジャカルタからジョクジャカルタに移している。ジョクジャカルタでは1946年1月26日にはインドネシア人民軍( Tentara Rakyat Indonesia) が発足している。同じ時期、ジョクジャカルタを基地に、スラウェシからの留学生によるスラウェシへ遠征し戦闘するための部隊〝ハサヌディン連隊”も発足した。
しかし手遅れであった。1946年1月末には、南スラウェシ地域は豪州軍傘下のオランダ軍によって完全に支配される状況となっていた。ラトランギは1945年9月5日からスラウェシ州知事となって、各地の領主、地域社会の支持を得ていたが、1946年4月5日でオランダ軍に対する反逆罪でマカッサルの Hoge-Pad へ投獄され、知事としての活動は7か月で終わった。2か月後ラトランギはニューギニア(西イリアン)の Serui へ流刑された。
島では作物を栽培するなど自給自足の生活であったが、オランダ官憲の取り締まりをかいくぐり、地元の青年たちに植民地からの脱却を訴えイリアン独立党 (Partai Kemeredekaan Irian) また夫人も "Ibunda Irian" 運動に尽力したという。1948年3月23日解放されジョクジャカルタへ移ったが、オランダ軍が同市を占領すると、再度逮捕される。心臓病とマラリアのためジャカルタ滞在を許されたが、1949年6月30日ジャカルタで心臓発作で死亡した。まだ58歳の若さであった。
ラトランギがマカッサルで投獄されたあと、ルウ王国の Andi Djemma、ボネ王国の Mappanyukki ほか多くの南スラウェシ諸国の貴族たちも投獄、流刑となった。南スラウェシ各地とも外出禁止令が出され、マカッサルの監獄も政治犯により満杯状態であった。Hoge Paad(現 Jalan Ahmad Yani)の NICA の事務所は独立運動に関わった男女の拷問場所となった。1946年7月、スラウェシの統治権は豪州からにオランダに移行した。(文責:脇田清之)
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