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1940-41年頃のセレベス島

渋川環樹著 カメラとペン「蘭印踏破行」を読む

脇田 清之

欧州ではすでに第二次世界大戦が始まっていた。1940年5月オランダはドイツ軍に降伏。同年の9月27日には日本が日独伊三国同盟条約に調印。インドネシア(蘭印)においても、戦争が迫りつつある緊迫した状況となっていた。この時期に、読売新聞社会部記者の渋川環樹氏が、軍の依頼によって、戦争突入直前の蘭印を駆け足で踏破、各地で取材をもとに書かれた本がある。昭和16年7月に発行された、渋川 環樹著「蘭印踏破行 カメラとペン ジャバ、スマトラ、ボルネオ、セレベス」(発行所有光社)には開戦間際の1940-41年頃の蘭印各地の様子が記されている。実際に渋川氏が旅行した時期は本文の内容から、現地は雨期、日本では雪が降る頃などの記述があるので、恐らく昭和15年末から昭和16年の初めにかけての頃と思われる。4ヶ月を掛けての旅行であった。文中「 」で囲った部分は同書からの引用です。渋川環樹氏は同盟通信社の社会部記者を経て読売新聞社に移り、それまでは文芸欄中心であった「読売」の社会部欄を充実させた功労者の一人とのことです。なお文中の地名は原著通りとしました。

マカッサ

 同書では 当時のマカッサの人口は9万人、うち白人が3500人、中国人16,000人、日本人170人と 書かれている。



「マカッサに在住する日本人は170名。メナドと共にセレベスの邦人活動の中心地である。自転車販売業の12軒をはじめ、貿易商10軒、その他雑貨、写真店を営んでいる。とくに玉城組を組織する沖縄の漁夫32名が、すでに10年、日章旗を南海の潮風にはためかせて活躍している。年収益5萬円、マカッサ市場へその消費の半分を供給している。なお特記すべきは緒方商店主緒方唯一氏(47歳 東京麹町区上2番町出身)がマングローブ(の樹皮)から製造されるカッチ(染料)の輸出販売に特許を得ていることだ。この特許は蘭印で緒 方氏のみ、カッチの大部分は日本へ輸出される。」(P277)

 「町にはジャバでよく見る馬車は通って居なかった。馬車の古めかしい鈴の音はなくて自転車のけたたましいベルの音が鳴り響いていた。町の“足”は主としてテガロダとよばれ、自転車の前にリヤカーをつけた やうなものである。いわば自転車と乳母車の混血児だ。」(P274)

 「これは6年前、自転車商、瀨古田吉氏(51歳、和歌山県宇久井村出身、「瀬古周吉」の誤植)が考案、一時は4000台も のティガロダが町を埋めるほどに氾濫していたが、自動車運転手免許と同じような厳めしい許可制をとるやうになって千台に減った。しかしこのお陰で邦人自転車商は繁盛、この町に12軒もある。そして蘭印の首都バタ ビアにまで進出している。」(P274)。 瀬古周吉氏は「1938-39年頃 セレベス島の日本人」(マカッサル地区)の中に出てくる自転車 輸入業の「北島商店」の責任者である。一覧表に出てくる自転車商は朝日商店、土井秋太郎商店( TOKO A.DOI)、土井国松商店、浜口浩一商店、岸下商店、北島商店、岡本商店、鶴間商店、矢倉商会、矢野商店と 圧倒的に和歌山県出身者が多い。渋川氏の「邦人自転車商は繁盛」はこれだけ自転車関連の商店が多かったことから裏付けられる。

 「町のメイン・ストリートには“セレベスを守れ”と書いた横幕が渡され義勇軍が募られていた。だが36 年前まで血みどろな反抗を試みた精悍無双のマカッサ人  いまでもその婦女子に戯れる白人に鋭い蕃刀を突き刺すと言うマカッサ人の応募する者は殆ど無い。土人の戦争に対する無関心がここにもある。 300余名の義勇兵のうち半数は中国人、その残りは蘭人である。陸軍大佐の指揮下にある800名の軍隊は倍に増員され、海岸には例のごとく塹壕、トーチカが築かれ、鉄条網が張り巡らされている。しかしそれらの防備のなんとはかなく頼りなげなことか。」(P274)

 太平洋戦争直前の1941年11月13日、最後の引揚船日昌丸でマカッサルの邦人180名の内、50余 名の邦人が帰国している。昭和18年2月10日付けのセレベス新聞に、戦前マカッサルの日本人会長であっ た松森陽之助氏の講演内容が掲載されている。戦争が迫る中、オランダ政府は軍事上の警戒と経済上の脅 威を感じて、日本人に対して弾圧が厳しく、入国が制限され、最終的には資金凍結令で閉め出してしまった。 漸く建設の軌道に乗りかけた邦人達の引き揚げは悲壮だったという。松森陽之助氏は最後の引き揚げ船による帰国者の一人で、開戦後、産業開発部門の仕事でマカッサルに舞い戻ったと書かれている。昭和18年2月10日は日本海軍がマカッサル進駐一周年にあたり、各種祝賀行事が行われ、この講演会もその一つと思わ れる。

パロポ



「人口約5000人、邦人の雑貨店が2軒、隣り合わせてあった。青山猪三吉氏 (45歳、和歌山県新宮氏出身)の店ともう1軒は10年前夫に死に別れ女で女手一つでやっている桂しんさん (47歳、京都市伏見深草藪ノ内出身)の店であった。南セレベスではマカッサのほかこのパロポに邦人の店が あるばかりである。」(P285)
 パロポでは石橋正樹老(65歳 島根県出身)が金山開発を行っていることが書かれている。場所はパロポ から南に30kmの山地で、渋川氏も籠に乗って現地を訪れている。「しかし車道まで20キロ、金山とするには まづ山を拓き橋を架けそれ相当の設備をせねばならない。大資本と技術とそのいづれも石橋老は持っていな い。老人の抱く黄金の夢はいつ実現されるであらうか。石橋老はいま森を伐りその後に菜園をつくり鶏を飼い 自給自足の道を講じて持久戦に備え、黄金の花咲く日を老い先短い身に願っている。」(P303)

メナド

「大きさは我が国の岩手県ほどで、人口40万人、日本人も400名を数える。メナドの町はアメリカ映画 の田舎町といった印象である。商店街にはトタン屋根、白ペンキ塗りの店舗が続き、現地人たちも殆ど洋装、 ことに若い女たちが清楚なワンピースを上手に着こなしていてハイヒールで闊歩する様子はジャバの大都会で も見られぬ光景だった。」(P317)

ビートン

「ビートンは邦人の建設した町である。10年前。大岩漁業(社長大岩勇氏、40歳、愛知県知多郡豊浜 村出身)がこの地に漁場を開いたころは戸数僅か11戸。現在では戸数400,人口3500と飛躍的に膨張してい る。レンベ水道は幅こそ1,2千メートルに過ぎないが水深深く、巡洋艦級の行動が出来る一寸した海軍基地と なるであろう。そのためか邦人漁夫が初めてここに本拠を定めたとき、疑心暗鬼の当局はなにか軍事目的が 有るのではないかと水上飛行機を飛ばして発動機船の行動を監視するなど陰に陽に圧迫を加えた。しかしこ れを切り抜けた10年の苦闘は報いられて、今では200名の邦人が6隻の発動機船に日の丸の旗をかかげ、 鰹、鮪を追って1日平均5000尾という蘭印一の漁獲高を上げ年収益百万円に達している。冷蔵装置、鰹節製 造工場もあり、現地人の働く者400名。彼等はフィリピンとの中間にあるサンギエ島の住民で、工場の裏手のブランコに乗ってちぢれ毛の子供たちが遊んでいた。」(P320)

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