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戦時中のマカッサルの造船所にて

内田 勇(技術少佐)

マカヅサルにはKPM汽船会社所属の小さな修理工場があった。これを接収し、第102海軍工作部マカッサル分工場といういかめしい名前をつけた。施設としては100屯位の修理用引揚げ船架と五、六台の旋盤に、ハンマーが1台位のものであった。修理用の船架も、引揚げの動力設備がなく、インドネシア人が人力で引揚げるのであるが、回教徒の断食の日には詼がへって力が出ないので船体引揚げ作業は中止という、いかにものんびりしたものであった。マカッサル分工場には播磨造船所から幹部がきておられた。技術担当の梅野重造さんは実に積極的によく働かれた人であった。

まず最初に施設の拡充を行なったのは鉄板細工でキュポラを造ることであった。鋳物工は二人ジャワから連れてきたが、これがセレベス唯一の鋳物工場であった。このキュポラはオランダ軍により破壊された施設の復旧に、また艦船の応急修理用に大変役に立ったものであることを特筆しておく。ニューマチックハンマーやドリルを動かす原動力は土木用のエアーコンプレヅサーを徼発してきた。これも後に大いに活躍した有力武器となったのである。電気溶接機は勿論スラバヤ依存であった。こんな設備のない、しかも薮医者である私しかいないところにも重傷艦船がかつぎこまれたのには驚いた。私は実際は役に立つたかどうか判らないが、機関のことでも、電気のことでもできるだけの作業を行ない、船の人に少しでも気がすむようにしてスラバヤの第102海軍工作部まで行ってもらうことにしていた。一番の重傷は駆逐艦帆風が攻撃を受けフォックスルがちぎれ落ちそうになってはいってきたのである。これも落ちかけたフォックスルをワイヤーロープでブリッジに吊り上げ、切れ目に木材で外板にそえ木をするという手を折った負傷兵の戦場の応急治療に似た手当を行なった。後に同艦はスラバヤでさらに修理し仮設艦首を取り付け内地に無事帰還したと聴いた時は嬉しかった。

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