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洋画家・庄司栄吉の北セレベス滞在記



庄司栄吉画伯(しょうじ えいきち、1917-3-20 - 2015-2-7)は太平洋戦争中、海軍教員として北スラウェシのトモホンに滞在し、現地の中学校および師範学校で教鞭をとりました。

戦後60年の節目となる2005年4月、庄司画伯は日本に持ち帰り大切に保管していた60点ほどのスケッチ、油絵を一冊の画集”セレベス追想 庄司栄吉スケッチ集”として出版されました(下の写真、出版社 ㈱サン・アート)。

上の表紙絵、油彩画 (15号)
(絵の説明:サロン姿が人形のように可愛いジャワ村の子供。モデルになってくれたお礼として、お父さんに布地をあげたらとても喜んでくれた。終戦後、収容所に鶏を一羽持って訪ねてくれたが、会えなかったのが今でも心残りとのことでした。)


このスケッチ集は、村の人々、生徒たち、モスクでの祈り、日本軍の兵士たち、などの日常が水彩画五十数枚、油彩画3枚、貴重な60年前のミナハサの記録です。出版の際には、当時の駐日インドネシア共和国特命全権大使アブドゥル・イルサン(Abdul Irsan)氏が”歴史的価値をもった芸術作品”と賞讃されて巻頭に挨拶文を書いています。

このスケッチ集出版のあと、2006年2月には、庄司画伯は61年ぶりに現地を訪問し、当時の教え子達と劇的な再会を果たしました。画伯の61年ぶりの再訪は中津義人監督によってドキュメンタリー映画化され、すでに一部のテレビでも放映されました(「メモリーズ オブ セレベス」洋画家・庄司栄吉の太平洋戦争」VHS/76分 監督 中津義人 制作 オフィススリーウエイ) 。“日本と日本人がセレベスに残してきたもの” を見つめる感動のドキュメンタリーです。

以下に庄司画伯のスケッチ集に書かれた記事と画像から、北スラウェシ滞在時の状況をご紹介したいと思います。


海軍教員として赴任

海軍教員(現地校の教師)として北セレベスに赴任するため、昭和18年の秋、客船浅間丸にて神戸を出航し、敵の潜水艦を避けるために一旦北上し、朝鮮半島の済州島の北側を迂回してから南下して行きました。高雄、マニラ湾を経由して、シンガポールのセレター軍港に到着します。シンガポールに1か月滞在したあと、清川丸という軍艦に乗りパリクパパンに到着、着いたとたんに同地の石油タンクを爆撃に来たアメリカ軍の空襲に逢いました。まだ船の中にいた画伯は逃げ場もなく、首を出して見ているほかありませんでした。

 バリクパパンからは600トンくらいの小さな船で、油と汗にまみれてマカッサルに到着したのは昭和19年の1月でした。マカッサルは、並木道の立派な大通りと、広い海岸通りのプロムナードがあるヨーロッパ風の大きな街でした。

2週間ほどマカッサルに滞在した後、北の任地メナド(マナド)へ出発しました。すでにアメリカの潜水艦が島を取り巻いていたので、陸路を取ることになり、民生部赴任の20名が苦力(クーリー)を連れて徒歩で北上します。パレパレ、パロポ経由でポソへ向かう途中、蛭が落ちてくるような峠を越え、またカヌーで鰐の出るポソ湖を渡りました。ポソからは船でウナウナ島経由、ゴロンタロへ渡りました。ゴロンタロから再び船で、ビトゥン経由でメナドに着きました。メナドの商店街はカラフルで異国的な印象を受けました。


トモホンの学校で

メナド近郊のトモホンに着いたのは、1月の末でした。
 私が赴任した時には、男子中学校、女子中学校、師範学校、農業学校などがありましたが、私が直接関わったのは男子中学校、女子中学校、師範学校の3つです。男子中学校と女子中学校は道を隔てて隣接していました。両校とも、以前はオランダが運営していました。寄宿舎が完備した全寮制の学校で、かなり選ばれた生徒たちでした。


私たちが赴任するまでは、海軍書記の二人の方が教鞭を執っておられました。女子中学では、朝礼の時「朝みどりすみわたりたる大空の広きをおのが心と思うかな…」と、明治天皇の御製を日本語で唱和していました。朝礼のような儀式(upatjara)は、日本が初めて導入したもので、大変喜ばれていました。オランダ統治時代は、団体の集合が禁じられていたからです。

教師は、多田校長、中村教頭、そして私と久世教員、インドネシアの教員などでした。私は美術のほか、日本語と体操を受け持ち、久世さんは音楽を教えました。美術は、それまで写生も自由画も全然教えられておらず、教科書の臨画(模写)が主だったようです。初めての写生で屋外に出かけた時、生徒たちがモノサシや定規を持ち出してきたのには驚きました。遠近法らしきものをやるつもりだったようです。

音楽では、譜面は1、2、3がドレミで、五線譜は教えられていませんでした。女性教師の久世さんは、苦労して五線譜を教えられたようです。体操も、ラジオ体操のように全員一緒で行なうことはなかったようです。私は、赴任途中で習った海軍体操や剣道の型を取り入れた体操を教えたりしました。

マラソンも生徒と一緒にやりました。彼らは一生懸命走り、復路では私はついて行くのが精一杯でした。しかし、先生はみな自転車で伴走するけれど、庄司先生は一緒に走ってくれたと喜んでくれました。

学校を出て、地方での宣撫的な仕事もしました。広場でラジオ体操の指導をした時は、バンブーの演奏をバックにやるので、とてものんびりした雰囲気のものになりました。

授業は「アジアは一つ」の思想を軸に、主として日本語とマライ語で行いました。マライ語は、赴任してすぐ小学校の教科書で勉強しました。大阪外語のマライ語科出身の方が州知事の通訳をされていて、その方のマライ語は立派だと現地の人は言っていました。

トモホンは海抜500㍍くらいの高地で、ちょうど日本の軽井沢のようなところでした。とにかく涼しくて、寮の生徒たちは、夜に毛布をかぶっていても「ディンギン、ディンギン(寒い寒い)」と言っていました。近くに富士山のようなきれいな山があり、天候が急変するから危ないと言われましたが、私は生徒たちを連れて一度登ったことがあります。全山に籐(ロタン)がうねっていて、それを掻き分けながら登りましたが、頂上に上がっても籐がいっぱいで、視界が利きませんでした。

学校には立派なバドミントン・コートがあり、子供たちは椰子の実の殻を蹴ってサッカーをし、私はバトミントンを上手な女子学生に教わりながら楽しみました。

また、池のような不規則な形をしたプールがあって、女子生徒たちに誘われて昼休みなどによく泳ぎました。中国系のラオ先生の奥さんが、さっそうと飛込みをしていたのを覚えています。ラオ先生というのは、新任した私に教員住宅を明け渡さなければならなかったのですが、病気で部屋に伏していました。病が癒えるまで待っていた私に大変感謝して、漢字で「徳建名立」と書いた書を進呈してくれました。


 

インドネシアの歌

まだ暗い早朝、働きに出る労働者たちが、私たちが寝ている宿舎の前をきれいなコーラスで歌いながらよく通って行きました。インドネシアの人たちは本当に歌が大好きで、コーラスも上手でした。先の「ブンガワン・ソロ」や、「サプタンガン(ハンカチ)」というハンカチに寄せて思いを伝える歌が流行していました。「カロウ・サヤ・マティ」(もしも私が死んでも)もパーティーでよく歌われていました。「私が死んでも花束なんか供えてくれなくていい、私を思い出して泣いてくれればそれで充分…」という内容でした。また「インドネシア・ラヤ」は、オランダ統治の頃は表立って歌えなかったようです。独立願望や民族意識の覚醒が、植民地時代は抑えられていたからです。

 ペスタと呼ばれるパーティーもみな好きでした。ペスタでは「マカン・サンパイ・マティ」(死ぬまで食べる)などと言われていました。

日本語教育の一環として、学校での日常会話は全部日本語でした。軍隊の慰問では、生徒たちの日本語劇も上演しました。皆一生懸命に練習してくれました。演題となった「マライのハリマオ」は、戦中から戦後にかけてイギリス領マレーで義賊として英雄として知られた原豊という実在の日本人でした。「イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのはマレーを愛した一人の日本人だった」と、後にマレーシアのテレビで放映されました。この劇には日本の家庭や殺された妹などが出てくるので、それを見た兵隊さんが泣いていた、と後で生徒たちが話していました。終戦後、トラックに乗って移動した時に、歩いている労働者たちの中にハリマオを演じてくれた少年を見かけましたが、声をかける間もなくすれ違い、彼の幸いを祈るほかありませんでした。 軍隊を訪れて、生徒たちが角力を教わった事なども楽しい思い出の一つです。私も生徒と一緒にやらされましたが、生徒に日本兵が「遠慮するな」とかけ声をかけたりしていました。

 

上の絵
(腰にクリス(短刀)をつけた」劇団の立役者。
第二次大戦中マライ半島に実在した日本人義賊ハリマオ(虎)の感じ。)


戦況悪化の中で

上の絵
(メナドとラングアンの猛爆に挟まれたトモホン師範学校に、やぐらを組んで
生徒たちが迷彩を施した。幸運にも爆撃はまぬがれた。)


メナドと飛行場があるラングアンに挟まれた位置のトモホンは、戦況が悪くなると、爆撃の音がもの凄くなりました。空襲を避けるために校舎に迷彩を施したりもしました。トントンと木槌で知らせる以外に空襲警報はなく、いきなり爆撃を受けました。私も、教員宿舎から運動場の端にあった防空壕まで逃げ込む間がなくて、宿舎前の側溝に腹ばいになって難を逃れたことがありました。

上の絵
(勤労奉仕でミシンを使っているトモホン中学校の生徒たち)


いよいよ戦況が悪化すると、秋(昭和19年)には中学校、師範学校とも閉校になりました。生徒たちをそれぞれの郷里に帰し、各地方に臨時指導所が設けられることになりました。しかし、農学校だけは閉校が遅れて、爆撃を受けてしまいました。防空壕に向かって運動場を横切るように走った生徒たちが、直撃されて大勢死んだのは悲痛な出来事でした。1㌧爆弾が落とされた跡の穴は大きな池のようで、私は慄然としました。

閉校後もしばらくの間、私たち教員はそのままトモホンに残り、学校裏の山の中で待避生活を送りました。裸同然で同地に残された形で、本当に心細い思いをしました。頭上すれすれに敵機が飛ぶようなこともあり、ある夜、3人の民政部員と共にトンダノを目指して、トモホンを脱出しました。それをどこで知ったのか、学校で働いてくれていた女性の一人がハンカチで顔を隠し、ウイスキーを持参して暗闇で待っていてくれました。 

この頃には、アメリカ軍の上陸に関してさまざまな噂や憶測が流れるようになりました。しかし後に米軍は、メナドを通過してボルネオに上陸しました。ボルネオ上陸時には、おびただしい米軍の船で水平線が見えないくらいだったそうです。


民政部の人たちは次々にトンダノに集結し、教師たちの中でも若かった私は、最も危険なラングアンの臨時指導所をまかされました。飛行場のあるラングアンの中心街は完全に破壊されていました。私は街の外れの民家に居住し、指導所はヤシの茂みの中に造られたのですが、海軍がいた所でしたから始終爆撃に襲われて、怖い思いをしました。授業を中断して、海軍が掘った横穴に逃げ込んだこともしばしばでした。

近くの飛行場には、もう日本の飛行機は全く来ない状態でしたが、アメリカ機が毎日のように滑走路に爆弾を落として行きました。この飛行場は、かって日本の落下傘部隊が降りた所です。早朝に、生徒たちを連れて、降下時に戦死した兵のお墓参りに行くと、ひと気のない飛行場にハゲタカのような鳥が居て不気味でした。落下傘部隊長の堀内大佐は、善政をしいてインドネシアの人たちに慕われ、大佐が日本に帰る時には、見送る人たちの荷車が何キロも続いたという話を聞きました。しかし彼は、戦後(昭和23年)にB級戦犯としてセレベスで処刑されました。戦時中にはその落下傘部隊を歌にした「空の神兵」が愛唱され、数年前には古谷一行が大佐役、梶芽衣子がその夫人役でテレビドラマ化されたこともあります。

終戦、帰国

私は、日本に原爆が落ちる直前ころまで、現地で教鞭を執っていました。日本は原爆一発で手を上げてしまった、と後で聞かされました。それまで毎日のようだった空襲がぴたりと止んだので、おかしいなとは思っていました。

 戦争が終わってからも、私たちは軍隊に所属していたわけではありませんから、現地に残っていました。生徒はもういないから授業もなく、臨時指導所は閉鎖されました。この地域にいた日本人たちは一旦トンダノに集結して、さらにしばらくしてからビートン近くのマディディールへ移動しました。地元住民が住んでいた所を日本人がキャンプ地としたのです。そこでは戦勝国側の監視もまったくなく、日本人の自主運営の形でした。粗末な原住民の小屋に5、6人ずつ分かれて住みました。村民が作っていた畑のものを食用にしたり、山に入って色々なものを収穫しました。


 住居前には椰子の林があり、器用な人はその木に登り、先端の花が開く前に茎をトントンと何日も辛抱強く槌で叩いて袋に樹液をためました。ちょうどカルピスのような白い液でサゴアエルといい、味も良いものでした。これを蒸留すると強いウイスキーになりました。ビートンの沖にあるレンベ島にはカヌーで渡り、スケッチもしました。収容所から自由に出て、島に渡ることもできたのです。

 上の絵
(マディディール沖合のレンベ島から望んだセレベス島本当のメナド富士、当時、島には通信隊が5名ほどいたと思うが、物音一つしない島だった。)

 

マデディールにあった小さな教会は海軍病院となっていて、マラリアに罹った海軍の兵隊が大勢入っていました。私は頼まれて少年と少女を描いた2枚の油絵を病院に貸しました。軍隊の中にいた本職の額縁職人が額を作り、正面の壁に掛けられました。病気の人たちの慰めに少しでもなってくれたらと、私は願いました。

 年が明けて5月(昭和21年)、突然の帰国命令が出ました。皆、焼け出された故国を思い、ありったけの布や毛布を使ってリュックを作り、持てるだけの日用品を詰め込みました。

 マデディールからメナド港まで約50キロの行程で、インドネシアの兵隊にガードされて行軍しました。途中で一泊。川で水浴した時の快感は忘れられません。行軍も後半になると背負った荷物が重くなり、みな途中で少しずつ荷物を捨てていくようになりました。私もとうとう重いセザンヌの画集を道端の草の上に捨ててしまいました。この画集は、私が絵描きであることを忘れないようにと、日本から持ってきた大切なものでした。上下二巻のタテ31センチ、ヨコ24センチのかなり重いもので、私は断腸の思いで諦めたのです。

 ところが終着のメナド港で、行軍の最後尾を牛車で付いていた衛生班の内藤君に「これ君のだろう」と、その画集を手渡されました。置き忘れたものと思い、拾ってきてくれたのです。夢かと思うほど感激しました。この画集は今でも私の愛蔵本です。捨てる時に、せめてカラーの口絵1枚だけでもと、破ってリュックに入れたのですが、その方は無くなってしまいました。

教え子達との再会

2005年、庄司さんが戦時中、現地で描いた、多数のスケッチを収録した画集「セレベス追想―庄司栄吉スケッチ集―)が出版されましたが、この画集出版の話は、北スラウェシの教え子達にも伝わりました。庄司さんは、2006年2月1月、60年ぶりに北スラウェシを再訪し、当時の教え子達と再会を果たしました。この奇跡的な再会を記録した映画「セレベス追想」(監督 中津義人)の中で、70歳(当時)を超えた師範学校の教え子の一人が、「庄司先生がいたから日本を許せる。」と涙ながらに語るシーンが胸を打つ。戦時中、日本軍によって、愛する家族を惨殺された人達の悲しみは、70年を経過しても消えません。

 上の写真
(庄司栄吉さんと教え子の60年ぶりの再会ー2006年トモホンにて前列中央が庄司さん。)

庄司栄吉画伯 略歴

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