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インドネシア独立戦争に参加した元日本兵(南スラウェシ)

Prajurit Jepang yang ikut Perjuangan Kemerdekaan Indonesia
di Selawesi Selatan

脇田 清之 (K.Wakita)

ハサヌディン大学のラシッド・アスバ(Prof Dr. A. Rasyid Asba)先生によると、日本敗戦後インドネシア独立のためにスラウェシに戻ってきたオランダ兵に抵抗するため、現地の青年団や兵補のグループ等によるゲリラ活動に参加した日本兵は、日本兵の身分を隠すため軍服を脱ぎ、椰子の葉をまとい La karoro と呼ばれていたという。1945年8月17日にインドネシアの独立を宣言し、スラウェシ州が発足したものの、ジャワ島、バリ島など昭和19年初期頃から築き上げてきたようなPETA (義勇軍、のちのインドネシア国軍)は存在しなかった。スラウェシ島では終戦後数か月してオランダ軍が支配力を強め、これに反抗する小規模のゲリラ隊に請われて参加して命を落とされた方々が多い。3名の興亜専門学校出身者はオランダ軍基地を手榴弾と機関銃でで襲撃したが、逮捕されBC級戦犯として処刑された。マカッサルの英雄墓地への埋葬はジャワ戦線で戦った日本人部隊長杉山長幹(インドネシア名スカルディ杉山)の墓以外には無いが、後年戦友が慰霊碑を建立した例、地方の村の英雄墓地に埋葬された例などが戦友会の回想録などに散見されるが、今となっては全貌はわからない。

1)コラカ・ポマラの樺島一郎中尉ほか

東南スラウェシ州コラカのポマラの丹下隊の樺島一郎中尉、甲板下士戸渡勝身上曹、従兵渋江二曹がコラカ方面の独立軍に身を投じた。連合軍は日本軍に再武装させ、討伐隊を編成、独立軍の討伐を行ったが、地理に明るい現地インドネシア人の独立部隊は神出鬼没に行動し、逆に討伐隊に戦死者が出ただけで、その効果は上がらず、次第に長期戦化した。また、オランダ側に入ったインドネシア人と独立軍インドネシア人との間で激戦が交わされ、多数のインドネシア人が死んだという悲しい話もあった。樺島中尉等はオランダ軍と戦い、負傷して捕らわれ処刑されたという。(元海軍大尉 国分俊一著「南海の青春」より)  

当時樺島中尉の部下であった米山友一氏は、1992年(平成4年)、マカッサル総領事館の佐久間徹氏やコラカ県知事の全面的な協力を得て、当時の兵補アリーと再会、遂に樺島中尉ほか3名の最後を知った。そして平成7年、現地に慰霊碑が完成し除幕式が行われた。(米山友一著 「南十字星 私の履歴書」上の写真:右が米山氏、左が当時米山氏の部下だった兵補アリー氏) そのほか、戦後に書かれた回想記などで、戦後オランダ軍との小規模の戦闘で犠牲になった元兵士のことが記載されているが、詳しくはわからない。

米山友一さん(1925~ )は興亜専門学校でインドネシア語を学び、学徒動員で海軍の花機関(インドネシア独立支援のための組織)に組み込まれた一人だった。米山さんは、東南スラウェシ州コラカで終戦を迎えた。終戦後、上官であった樺島中尉はインドネシアの独立戦争に参加した。米山さんも参加を希望したが、樺島中尉から諭され、止む無く帰国した。しかし戦後67年を経過しても、インドネシアの独立戦争に参加し、命を落とした上官や仲間のことを忘れることが出来なかった。現地に慰霊碑は建てたが、死ぬ前には、一度、どうしても樺島中尉のご遺族に一言お礼が言いたいと思った。2012年5月21日、当編集部が Twitter を使って「太平洋戦争のあと、スラウェシ島でインドネシアの独立戦争に参加し、戦死された、海軍、丹下隊の樺島一郎中尉のご遺族を探しています。」と発信した。そしてインターネットの凄さか、または英霊のお導きなのか、ついに2013年8月10日、椛島家から連絡入った。

樺島一郎中尉の孫にあたる椛島義行氏によると、戦後、姓が樺島から椛島になったこと。中尉はセレベス島に行くまで、横須賀や、佐世保、呉で海軍士官学校で教官をしていたとのこと。終戦後、部下を日本に帰してセレベス島に残り、後のインドネシア独立戦争に参加したと、その後、靖国神社に合祀されているとのことでした(上の写真で前列中央で日本刀を持っているのが樺島中尉)。

米山氏によると、昭和20年9月、濠軍がケンダリーに進駐してきた。いよいよ日本軍の武装を解除させるために濠軍がポマラにも来るということでコラカ周辺がせわしくなった。すでに独立宣言が行われてコラカ周辺でも民族意識が急速に高まっていた。地元民は一斉に民族旗を掲揚し独立気分を謳歌していたので、日本以外の国の者が来るのを排斥しなければならないという雰囲気になっていた。現地人による蘭印軍(アンボン兵)へのゲリラ戦も始まっていた。こうしたなか濠軍から、連合軍の指揮下に置かれた日本軍に「ニッケル鉱山の防衛をしていたポマラ隊を直ちに再武装して、インドネシア人暴徒を鎮圧し、進駐軍を安全に導入せよと」の指令がきた。インドネシアは過去300年にわたりオランダの植民地にあって、搾取を受けてきた歴史があった。現地の仲間はもう植民地はいやだという。こうして日本軍は、オランダの復帰を支援するか、インドネシアの独立を支援するか、難しい二者択一を迫られることになる。樺島中尉は当時40歳を過ぎていて特務中尉という立場にあった。

米山氏は海軍の花機関に属し、吉住留五郎の指導の下でインドネシア独立運動の支援を行っていたが、その後、海軍特別警察隊に編入され、通訳として活動していた。「オランダの復帰を支援するか」、「インドネシアの独立を支援するか」、二者択一を迫られるなか、米山氏等は夜が明けるまで樺島一郎中尉と話し合ったが、「おまえ達はまだ若い。やり直しがきく。一度内地の様子を見てからでも遅くはない。とにかく一度日本へ帰れ」と諭された。米山氏によると樺島中尉はたいへんに正義感の強い方であったという。

その後、セレベス島にいる日本人はメナド地区を除いて全てマリンプンに集められた。米山さんもポマラ引き揚げの第1便に押し込まれてボネ湾を渡った。米山さんは、桟橋で涙で顔をくしゃくしゃにしながら踊るような格好で懸命に手を振り別れを惜しんだ樺島中尉の姿は一生忘れることが出来ないという。

2)特別警察隊 清家兵曹等4名

1949年12月11日、蘭印軍とインドネシア独立義勇軍が南スラウェシ各地で激闘した。特別警察隊 清家兵曹等4名はこの戦闘に参加し、タカラール地区で全員戦死したことが元興南組の金子啓蔵氏の手記に記されている。その手記の中で、この4名をインドネシア陸軍墓地に合祀することが私に課せられた使命と書かれているが、詳細は不明である。(現地側に資料が残っているか調査中)

3)エンレカンで戦死の菊池康郎(現地名ラシッド)

三国隆三著「ある塾教育ー大東亜戦争の平和部隊」には弱冠20歳でインドネシア独立戦争に身を捧げた菊池康郎(現地名ラシッド)の英雄墓地にお参りする記述があった。(P201 独立戦争に身を捧げた元日本兵の墓標)青年は陸軍少年戦車兵学校出身で、現地人ラシッド家の養子となり、エンレカンの戦闘で戦死したとされている。街道の右側に立派な墓地が見えた。ところが、立ち寄ってみると英雄墓地だが、少し様子がおかしい。各墓標を手分けして探したが見つからない。諦めずに他の場所も探して、やっと茶屋で聞いてそれらしい場所に辿り着いたが、門扉が閉ざされていて入れない。向かいの電話局の職員に聞き、管理人の家に案内して貰って、やっと目的の墓標を発見したとき、一同は思わず歓声を挙げた。と墓地探しの際の苦労が書かれている。

写真下:Taman Makam Pahlawan Massenrempulu Kab. Enrekang
(エンレカン県マッセンレンプルの英雄墓地)菊池優氏 提供



4)興亜専門学校出身 花機関所属 畑田実、金井清、池田末吉

興亜専門学校(現亜細亜大学)の出身で、海軍嘱託として「花機関」に所属した畑田実、金井清、池田末吉の3名は、終戦後、日本軍の集結地に向かわず、請われて、インドネシア独立闘争に加わった。同じ興亜専門学校同期の岡田晃三氏によると、インドネシアの独立戦争が始まった直後、彼らが赴任していた地域のある部落が、オランダ軍によって焼き討ちされ、村民の多くが殺されたという知らせが3名のところへ届いた。3名は、これを座視出来ず、手榴弾と機関銃でオランダ軍の兵舎を襲撃したという。ダイナマイトによる兵舎の爆破に失敗し、 3名は即刻逮捕され、昭和22年6月19日処刑された。資料「一インドネシア人がまもる旧日本軍人慰霊碑 」では1947年7月19日刑死と書かれている。また花機関については、「興亜専門学校生の太平洋戦争」をご参照下さい。

金井清さんの遺書(群馬県出身 元海軍嘱託 当時22歳)

ご両親様

私は大正14年1月1日に生まれる。爾後ご両親の薫陶を受け19歳に達す。日本人に生まれ殉皇の心情切実のものあり、愛国心に燃え勇躍南洋に向かう。以後一死奉公の道を尽くす。
嗚呼然し理想半ばにして終戦の大詔に接す。国破れて愛国の情益々ふかし。同志 H・I 兄と語らい新興インドネシア国家の独立運動に挺身すべきことに決す。あ`しかしその荘図も空しく破れる。
昭和22年3月28日、異国人に囲まれて軍事法廷にて休戦条約違反、敵対行為により死刑の宣告を受ける。自分の信念に基づき行動したことにより死刑なりとも何ら悔ゆることなし。
ご両親様はじめ皆様、たとえこの身はセレベスの土と化せんとも、短き22歳の一生を顧みて非常に幸福なり。私はその幸福感に包まれて祖国の弥栄と皆々様のご幸福を祈りつつ暁の白露と散ず。これぞ大和男子の本懐なり。
1.国破れて山河荒れ 海はあせなん世なりとも
  君に尽くさん其の心 これぞ誠の大和魂
2,死して尚君に尽くさん益荒夫の 心は祈る国の弥栄
昭和22年6月19日 午前7時      清拝 


出典:岡田晃三著「アジアに立ちて」

5)スカルディ杉山さんのこと

太平洋戦争のあと、インドネシア独立戦争(1945年 - 1949年)では、一時期、日本人部隊長を務め、動乱の時代を生き抜いた杉山長幹(インドネシア名スカルディ杉山)は、いまマカッサルの英雄墓地 ( Makam pahlawan, Jalan Urip Sumoharjo ) に静かに眠っている。左の写真の右側、鞄を持っているのが杉山氏。 この写真は1995年8月25日、杉山氏がジャカルタで渡辺泰造駐インドネシア特命全権大使氏より日本・インドネシア両国の友好親善に寄与した功績により表彰された日に撮影された。(撮影:長洋弘氏) ジャカルタの残留者の相互福祉団体である福祉友の会(YAYASAN WARGA PERSAHABATAN)の名簿によると杉山氏は大正7(1918)年7月12日新潟県生まれ, 所属部隊は16軍憲、階位は曹長と記載されている。杉山氏のことについては、かって新潟のテレビ局から放映・紹介されたこともある。1996年6月16日、杉山氏は逝去、葬儀はインドネシア国軍の主催で執り行われ、マカッサル(当時ウジュンパンダン)の英雄墓地に埋葬された。享年78歳であった。以下断片的な情報をもとに杉山氏の足跡を辿ってみたい。

インドネシア独立戦争(1945年 - 1949年)時代

インドネシア独立戦争時代の杉山について、福祉友の会の月報に広岡勇氏の原稿「市来隊長の戦死」(1987年6月号、7月号)に下記の記載がある。  「市来竜夫隊長の戦死された日は、1949年1月3日が正しく、午前7時30分頃のことでした。(中略) さて、市来隊長が戦死された、オランダ軍第2次侵攻時のアルジャサリー戦闘に参加した特別ゲリラ隊の残留日本人は次の通りでした。市来竜夫隊長(戦死)、杉山長幹(健在)、前川辰治(健在)、林源治(健在)、若林(後日戦死)、山野五郎(健在)、酒井富夫(後日病死)、広岡勇(健在)・・・ (中略)・・・さて、市来隊長亡きあとの特別ゲリラ隊は、スカルディ杉山大尉を隊長(3代目)として選出しました。・・・ (中略)・・・追って、日本人8名にインドネシア兵を配した小部隊が、完全武装したオランダ軍1ケ中隊を相手に1時間半激闘したことは、インドネシア国民からも想像以上高く評価される事となりました。」 と書かれている。1948年12月までは、オランダの近代兵器の前になす術なく、一時は海岸線まで追いつめられたインドネシア国軍が、次第に優位を確立して行ったと言う。オランダ軍との停戦協定のあと、1949年12月、杉山は部隊をインドネシア側に委譲する。

インドネシア独立戦争のあと

1950年6月、スカルディ杉山以下5名の残留日本兵は東部ジャワ教育部隊の命令によりマラン市で軍部が所有するメラピ工場勤務となる。杉山は8月には工場長に任命されている。工場は機械整備を必要としていたが軍部からの資金は皆無であったという。また同じ頃、杉山氏はマラン市内の女性と結婚している。

戦後スラバヤに領事館が開設されたのは1952年8月5日であるが、前年の1951年11月に連絡事務所が開設されている。1951年12月ごろ杉山はスラバヤの領事に面会し、残留日本兵の国籍問題について相談している。1958年4月に日本とインドネシアの国交が樹立し、同時に、日本が総額8百3億8百80万円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、12年間の期間内に、賠償としてインドネシアに供与する賠償協定が効力を発生する。このような状況の中、残留日本兵にインドネシア国籍が認められるのは、1962年6月頃のことである。

福祉友の会によると1945年、日本敗戦の後、903名の元日本兵がインドネシアに残留し、オランダからの独立戦争に参加した。903名の残留日本兵のうち246名が独立戦争で戦死し、さらに288名が行方不明となっている。実に60%の方々が独立戦争の犠牲になった。インドネシア独立戦争後、生存者のうち45名が日本へ帰国、残りの324名は日系インドネシア人として第二の人生を選択することになった。しかし、インドネシア国籍となったものの、残留日本兵たちは、戦時賠償プロジェクトを契機として一斉に進出する日本企業に生活の糧を求めていく。  1968年頃、杉山氏はジャカルタの商社 Japan International で、近郊のタンゲランで“もやし豆"の試験栽培を行っていたが、1968年にマカッサル近郊のマロスにプロジェクトを移している。これは当時杉山氏と行動をともにしたことのある小池利家氏からお聞きした。

ウジュン・パンダン(マカッサル)時代

1968年ごろ、小池氏は Jl. Sungai Sadang にあった Japan International のマカッサル寮で杉山氏と一年間生活をともにされている。 Japan International は賠償プロジェクトであるマカッサルの合板工場の契約者であったが、1968年10月に倒産する。  小池氏は次のように回想する。「杉山さんは、時折一人で一週間ほど寮にもどらず、尋ねてもその行動は教えてもらえませんでした。後年それがトラジャのコーヒー栽培調査だったことを聞かされました。数ある杉山さんの話の中に、思い半ばにしてジャワの地で亡くなった吉住留五郎(よしずみためごろう)、市来龍夫(いちきたつお)両氏には心打たれる思いがあります。」  キーコーヒー社によれば、トラジャコーヒー農園の開発事業では、1974年の調査段階での道案内、通訳から始まって、特に行政との折衝や、住民への栽培指導などの面で大変活躍されたとのことです。 1995年8月25日、駐インドネシア特命全権大使渡辺泰造氏よりインドネシア独立50周年を記念して日本・インドネシア両国の友好親善に寄与された功績が認められ、他のインドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」68名とともに表彰を受けた。

マカッサル英雄墓地にて(2009年7月20日)

2009年7月20日の夕方、スラウェシ研究会のメンバーがマカッサル英雄墓地を訪れた。墓地の管理人の案内で杉山さんのお墓を見つけることができました。管理人の話では日本人は2柱が祀られているという。最初に案内されたお墓は”チモサケ”というモスレムの日本人であると言う。当方はチモサケさんには全く心当たりが無かった。そのあと数分歩き、杉山さんのお墓に辿り着くことができた。十字架の墓標の中央に張られた標識で杉山さんのお墓であることが確認できた。(写真下右側)



マカッサルの英雄墓地の一部 (Makam pahlawan, Jalan Urip Sumoharjo)



墓の標識には下記の文字が読み取れます。
(一部不鮮明な個所があります)

NAGAMOTO S. SOEKARDI
KAPTEN (PURNI)
AMOT VETERAN PXRI GCL "A"
LAHIR:JEPANG 12-7-1918
WAFAT: U.P 16-6-1996
BLOK Y/12

参考資料

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