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スルタン ハサヌディンとマカッサル戦争

Sultan Hasanuddin dan Perang Makassar

脇田 清之 (Wakita Kiyoyuki)



 マカッサルの国際空港や国立大学の名称にも使われているインドネシアの英雄、スルタン ハサヌディン(Sultan Hasanuddin)は、1631年1月12日マカッサルで生まれた。1653年11月、弱冠22歳の若さで、第16代ゴワ王国の王位を継承した。東部インドネシアに進出するオランダ(正式にはオランダ東インド会社、Vereenighde Oost Indische Compagnie、略称VOC)に対して、徹底的に抵抗し、‘東に雄鶏あり’と怖れられたという。しかしハサヌディンは、1670年6月12日、39歳の若さで、この世を去った。ハサヌディンは303年後の1973年11月6日、インドネシアの英雄としてインドネシア政府から正式に認定されている。

 スルタン ハサヌディンに対する、当時の西欧諸国側の評価は、気まぐれ、かっとなる気質で、前線の司令官としては優れ、勇敢ではあったが、行政能力はあまりなかったという。しかし老練で外交手腕も優れていたカラエン・パティンガロアン首相のような行政能力を、22歳で王位についたスルタン ハサヌディンに求めるのは、酷な気もする。マカッサルとオランダとの関係は、ハサヌディンの時代に入り、さらに悪化する。東南アジアの広範な地域を支配し、繁栄したマカッサル王国は、マカッサル戦争(1666-1667,1668-1669)によって、灰燼に帰した。

1)17世紀前半におけるVOCとマカッサルの関係

 西暦1600年ごろ、オランダは、ゴワ王国との関係を強化し、マルク諸島の香料貿易を独占することを画策していた。1601年、両国の提携調印が行われた。しかし、その後、1607年、オランダのアブラハム・マイツ(Abraham Matyz)と、当時のゴワの王、スルタン・アラウディン(Sultan Alauddin)との、独占権取得のための交渉が決裂し、両国の対立が決定的なものとなった。オランダの要求は、世界に開かれた交易を旗印とするゴワ王国の政策とは相容れないものがあった。

 1615 年になるとオランダとマカッサル王国間の対立・反目が顕在化してきた。オランダとマカッサル王国の間で会談が行われたが、王国側は「地球は神の創造によるもの。海はすべての人類のもの。誰も公海の航行を制限することはできない。マカッサル港はすべての人種に対して公平に開かれている。オランダと、スペイン、ポルトガルを差別ですることは出来ない。」と応えて会談は決裂した。1615 年4 月、オランダ東インド会社代表部のマカッサル事務所は閉鎖された。

 1616年10月、オランダの商船デ・エンドラ号(De Endrach)がソンバ・オプに接岸中、ゴワ側との争いが起こり、オランダ人船長、船員が殺害された。これが契機となり、両国の関係が悪化する。オランダ総督ヤン・ピーターソン・コーエンは、これはゴワ王国のオランダへの宣戦布告と理解した。

 1627年-1630年、マルク海でオランダ・ゴワ間の海戦があった。当時、ゴワ王国はテルナテ王国と友好関係にあったが、このテルナテの地で、オランダが勝手に振る舞うことは看過できなかった。

 1632年、バタビアから、オランダのアントニー・コーエン(Antony Coen)がゴワ王国を訪問、和平交渉を行うが、不成功に終わった。

 1634年、ゴワ王国は、ゴロンタロー、トミニなど北スラウェシへの派兵、同時に、オランダに抵抗する住民を支援するため艦隊をマルクへ派遣した。当時オランダはマルク諸島で、島民を殺害し、島民のクローブの林を焼き払ったりするなどの行為を行っていた。1635年、両国間での戦闘が行われ、6人のオランダ人将兵が殺害されている。

 こうした中、マカッサル王国は要塞建設、ガレー船建造と軍事力を高めるとともに、周辺地域の支配力を強めていった。1616 年にはマルク方面への航路にあたるスンバワ島を、1626 年にはフローレス島、ソロール諸島、ティモール島、ブトン島を、1634 年にはムナ島、スラ諸島、マナド、トミニ、1638 年にはゴロンタロ、マカッサル海峡の対岸、カリマンタン島東海岸のクタイ、北海岸のブルネイなどを支配下に収めていった。同時にマカッサル王国は香料を産出する諸島とも緊密な関係を保っていた。

2)スルタン・ハサヌディンの王位継承以降

 1653年11月、スルタン・ハサヌディンが、父親、スルタン・マリクサイド(Sultan Malikussaid)から、第16代ゴワ王国の王位を継承する。王位を継承した後も、スルタン・ハサヌディンは、艦隊司令官として各地の戦闘を指揮していたようだ。ゴワ王国とオランダとの敵対関係は一層厳しいものとなる。1654年-1655年、再び、マルク海における海戦がおこなわれた。1655 年、マルク諸島のいくつかの海域でオランダ艦隊、マカッサル艦隊の間で戦闘が行われる。マルク諸島の玄関口にあたるブトンはすでにオランダによって占領されていたが、ハサヌディン国王の指揮の下、マカッサル軍が攻撃を仕掛け、オランダ軍は大きな被害を被った。そのときハサヌディン国王の指揮するゴワ軍は、オランダからは‘東に雄鶏あり’と怖れられたという。

 ほんとうにオランダは、“雄鶏”ゴワとの戦闘に手を焼いていた。そこで、オランダは、マルクを含む、南スラウェシ諸王国間の、対立につけ込んで、南スラウェシの王国間の、分断工作を画策し始めた。ゴワ王国を除く、南スラウェシの各国王を説得し、オランダとの同盟関係の強化に努めた。

3)マカッサル戦争



オランダ東インド会社は、香辛料貿易の独占のためには、マカッサル軍を制圧し、マカッサル港を独占する必要があった。しかしオランダ東インド会社単独の力では、マカッサルを制圧することは不可能であった。そこでマカッサル王国(マカッサル族)に押さえ込まれ、日頃不満を募らせていたボネ王国(ブギス族)のアルン・パラッカ(Arung Palakka、 写真右はワタンポネにある銅像)を利用する。因みに、同じブギス族でも、ワジョ王国や、ルウ王国などは、最後までゴワ王国を支持し続けていた。1666年、スピールマン指揮するオランダ・ボネ連合軍はゴワを攻撃する。この戦いに、ボネ王国は、大量の兵力を投入し参戦する。これがマカッサル戦争(1666-1667,1668-1669)である。欧州でも例を見ない激しい戦闘であったという。例えば1667 年7 月19 日の戦闘では、双方から休みなく大砲が発射され、オランダ艦隊側だけで4,000 発以上の大砲が発射されたという。ゴワ王国側の要塞は、ひとつ、また一つと、オランダ・ボネ連合側の手に堕ち、最後はソンバ・オプ要塞、ウジュンパンダン要塞(現在のロッテルダム要塞)の2か所しか残らなかった。ところで、オランダに協力しマカッサル王国を壊滅に追い込んだアルン・パラッカは、インドネシアにとって、国賊のように思えるが、地元ボネ王国を、マカッサルから独立させた英雄、という位置づけのようだ。地元の英雄ではあるが、インドネシアの英雄には認定されていない。

 ゴワは敗北、1667年11月18日、スルタン・ハサヌディンは、ゴワにとって、受け入れ難い、ブンガヤ条約(Perjanjian di Bungaya)に調印せざるを得なかった。この条約は、マカッサル王国側にとっては屈辱的で、VOCに一方的に有利な内容であった。いくつか例を上げると、オランダ人を殺害したマカッサル人の処刑(第4 条)、マカッサル人の指定地域以外への渡航の禁止(第9 条)、戦争中ゴワ王国により没収されたVOCの財産の引き渡し(第3 条)オランダ人以外のヨーロッパ人のマカッサルからの退去(第6条)などである。ゴワ王国に莫大な損害を与える、このブンガヤ条約の調印により、ゴワの人民の怒りが燃え上がった。因みに、このブンガヤ条約は、二つの言語、オランダ語とムラユ語で書かれている。条約の全文は、ベンテン・ソンバ・オプ地区に出来た新しい歴史博物館、カラエン・パティンガロアン博物館に飾られている。



1668年4月12日、ゴワ王国の残存部隊が若者達を集め反抗し、オランダ船を爆破し、船員17人を殺害した。これが契機となり、マカッサル戦争が再発する。1669年7月14日、オランダ・ボネ連合軍は、ソンバ・オプ要塞の擁壁を、20mにわたって爆破し、要塞内に突入した。この戦闘によりソンバ・オプの要塞は徹底的に破壊された。この状況に至っても、ゴワ軍は、最後まで抵抗を続けた。7月15-17日の間だけで、この強固な要塞に、3万トンの爆薬が使用され、最終的にオランダ・ボネ連合軍に制圧された。マカッサル市の南部、ソンバオプ地区に、古い要塞が潅木の中に残されている。ここが300年前、ゴワとマカッサルの間の1500 Ha に及ぶ世界有数の大商業都市であった面影は、いまは全く無い。

 ゴワ王国はVOCとの戦いに敗れ、カラエン・ガレソン(Karaeng Galesong)カラエン・ボント・マラヌー(Karaeng Bontomarannu)などのゴワの貴族と軍隊は、ルウ王国の貴族、軍隊とともに、ジャワ島へ向かい、ゴワ出身のシェー・ユスフ(Syekh Yusuf)に迎え入れられた。因みに、シェー・ユスフもインドネシアの英雄である。

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