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脇田清之 Wakita Kiyoyuki
Nov 6, 2023 一部修正
インドネシアから遠く離れた南アフリカ共和国の南端、ケープタウンの東郊外にマカッサル(Macassar)という地名があります。二つのマカッサルに深くかかわる一人の偉大なイスラム教師 シェイク・ユスフ(Syeikh Yusuf、1626~1699)についてご紹介します。
シェイク・ユスフは1626年、国際商業都市国家として栄えたマカッサル全盛期に、ゴワ国王 14世、スルタン・アラウディン(Sultan Alauddin、1586ー1639)の甥として生まれました。のちにマカッサル王国の第16代国王となった、スルタン・ハサヌディン(1631年生まれ)とほぼ同じ年代です。
シェイク・ユスフの生まれる前ですが、1607年、ゴワとタロの連合王国は公式にイスラム教を国教としました。そしてゴワ15世、スルタン・マリクサイド(Sultan Malikussaid、1607-1653)の時代にイスラム神秘主義の影響が広がったとされています。
1644年、シェイク・ユスフが18歳のとき、ゴワ(マカッサル)を出発し、当時イスラム布教のセンターとして知られた、西ジャワのバンテンに滞在したあと、1645年9月、メッカ巡礼に旅立ちます。
先ずアチェに渡ります。当時アチェは偉大なるアチェのスルタン、イスカンダル・ムダの時代も過ぎ、その娘ラトウ・タジユル・アラム・シャリフッディン・シャの治世であり、シェイフ・ユスフは当時アチェにあった偉大なウラマー、シェイツ・ヌルッディン・アル・ラニーリに師事しました。彼はアル・ラニーリより神秘主義教団アル・カビリアの教説を学んで免許皆伝を与えられました。
そのあと、彼は、イエメンに渡り、今度は神秘主義教団ナクシャバンデイヤの師、シエイツ・アビ・アブディラ・ムハンマド・アブデゥル・バーキに師事しました。
ついで、彼は、やはりイエメンの地で、サイード・アリから神秘主義教説アッサダー・アル・バ・アルウィヤを学び、そのあとようやくイエメンを去ってメッカ巡礼の義務を果たしました。
メデイナのアル・ムナワラでは、彼はしばらくシェイフ・ブルハヌディンに師事し、彼より神秘主義説教シャッタリアの免許皆伝を与えられました。ついで彼は、メディナからダマスカスに移り、ここでは、シェイフ・アブドウル・パラカッについて、神秘主義教説「ハルワティア」の免許皆伝を与えられました。(出典:タウフィック・アブドウルラ編 白石さや・白石隆訳「インドネシアのイスラム」P123-124)
シェイフ・ユスフがゴワに帰還したのは、このように各地でイスラム神秘主義の教説を修めたあとのことで、おそらくゴワの地で「ハルワティア」の指導を行うつもりだったのでしょうか。しかし、このとき彼が再会したゴワは、かつてのゴワとは変わってしまっていました。
イスラム法はすたれ、ほとんど行われなくなってしまっていました。人々は、オランダ東インド会社に対する戦さに酔ってイスラムの信仰を忘れ、貴族達はイスラム到来以前の古い習慣を復活し、好んでこれに従っていました。いたるところ、人々は酒を飲み、貴族、文人のあいだにはアヘン吸引の習慣が拡がり、そして、偶像(バンタサ)が祀られ、精霊が崇拝されていました。(出典:タウフィック・アブドウルラ編 白石さや・白石隆訳「インドネシアのイスラム」P125)
スルタン ハサヌディン(Sultan Hasanuddin)は、1653年11月、弱冠22歳の若さで、第16代ゴワ王国の王位を継承していました。
このような状態を目の当たりにして、シェイフ・ユスフは、ゴワ王 Sultan Hasanuddin と大官に、オランダ来寇という困難に処するため、なによりもまず、賭博、飲酒、アヘンの吸飲を禁止し、偶像を破壊し、精霊崇拝をやめ、イスラム法を再び王国の礎とするよう願い出ました。しかし、それはゴワ王と大官達の容れるところとはなりませんでした。賭博を禁止すれば、市場はすたれ、王国の富は枯渇してしまうであろう。飲酒を禁ずれば戦士達は戦場において敵とまみえる勇気を失ってしまうであろう。アヘン吸飲を禁止すれば、文人達は知恵の源を失ってしまうであろう。偶像を破壊し、精霊崇拝を禁ずれば、貴族、平民の別が失われてしまうであろう。さようなことでは、国難に対処しえない。これが王と大官達の解答でした。
ゴワの年代記は、シェイフ・ユスフがこれについて次のように語ったと記されています。「これこそゴワ王国衰亡のもとなり。ゴワはこれによって滅びるであろう」。こうしてシェイフ・ユスフは、永久にゴワを去ります。しかし、かれよりその教えを伝授された弟子達はなおゴワに残り、その教えを説き続けまました。(出典:タウフィック・アブドウルラ編 白石さや・白石隆訳「インドネシアのイスラム」P125)
シェイフ・ユスフの予言どおりになったのでしょうか、マカッサル王国は、オランダ・ボネ連合軍との戦い、マカッサル戦争(1666-1667,1668-1669)で敗北し、輝かしかった時代は終わります。
シェイフ・ユスフはマカッサルを去り、ジャワ島のバンテン王国に上陸しました。しかしここでも第6代王スルタン・アジェン・ティルタヤサ(Sultan Ageng Tirtayasa)がオランダ植民地政府に対抗して戦っていました。ユスフはスルタンの求めに応じ、バンテン王国の最高宗教裁判官となり、またスルタンの個人的なアドバイザーとなりました。
バンテンのスルタンの陣営に参じたシェイク・ユスフは、スルタン・ハジをおすオランダ東インド会社の軍勢に捕らえられて、1683年、セイロン島に流刑されました。2人の妻、12人の子供を含む、計49人の従者とともに、1694年4月、辿り着いた最後の流刑地がこの南アフリカの「マカッサル」でした。
当時、南アフリカもまた、インドネシアと同様にオランダの植民地でした。とくに、南アフリカは1681年以降、オランダ東印度会社によって政治犯の流刑地に指定されていました。シェイク・ユスフは、ジャワ島からセイロン島(現スリランカ)を経由してケープタウンに送られてきましたが、当時の南アフリカ植民地政府は、シェイク・ユスフの影響力を恐れていました。そこで、ケープタウン市街地から離れた農地であるザントフリ-ト(Zandvleit)に隔離させました。
ところがその目論見は、見事に外れました。シェイク・ユスフのところには、他のオランダ領東インド(蘭印。現インドネシア)からの流刑者や、現地社会から逃亡した奴隷たちが次第に集まり、南アフリカ最大のイスラム教の聖地と化していきました。南アフリカの研究者によると、シェイク・ユスフの信奉者は100万人に達したと言われています。
シェイク・ユスフは南アフリカに到着して5年後の1699年5月23日、ケープタウン市内のファウレ(Faure)で亡くなりました。73歳でした。
周囲の人たちはシェイク・ユスフを偲び、彼が5年間住んだ地域を、彼の出身地と同じマカッサル(Macassar)と名付けました。実は、シェイク・ユスフは1644年にマカッサルを離れてから、その後、一度も故郷へ戻ることができませんでした。
シェイク・ユスフの死後ほどなく、彼の故郷であるゴワ王国の国王は、バタビア(ジャカルタ)の蘭印政府に対して、シェイク・ユスフの遺体・遺族を本国へ帰すよう請願しました。そのかいあってか、1704年にシェイク・ユスフの未亡人、娘たちの帰国が実現した後、1705年、シェイク・ユスフの遺体はマカッサルへ運ばれ、ゴワ王国のカタンカ(Katangka)村に埋葬されました。
ところで、シェイク・ユスフは、インドネシアと南アフリカの両国で国家英雄の称号を与えられました。このような人物は、他にいないかもしれません。
シェイク・ユスフがインドネシアの国家英雄の称号を受けたのは、1995年8月7日でした。その後、南アフリカを公式訪問していたインドネシアのスハルト大統領(当時)は1997年11月21日、ケープタウン郊外にあるシェイク・ユスフの廟を訪れ、インドネシアの国家英雄として認定されたことを墓前で報告しました。墓碑には、英語で次のように記されています。
PRESIDENT SOEHARTO
of the Republic of Indonesia
visited this shrine on 21 November 1997
to pay respect to the late Sheikh Yusuf of
Makassar upon whom the title of national hero
was conferred by the Indonesian Government
on 7 August 1995
それから8年後の2005年9月27日、シェイク・ユスフは、南アフリカの市民と共に戦い、植民地解放に貢献した功績により、南アフリカ政府から叙勲(The Order of the Companions of OR Tambo in Gold)を受けました。
さらに2017年、南アフリカ政府は、南アフリカの市民とともに戦ったシェイク・ユスフに南アフリカ共和国の国家英雄の称号を与えました。2013年に亡くなったネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)元南アフリカ共和国大統領も、「シェイク・ユスフは最良のアフリカ人の一人だった」と賞賛したそうです。
現在のゴワ県カタンカ(Katangka)村にあるシェイク・ユスフの墓は、その後1795年に場所を移し、現在はマカッサル市内に移設されています。没後300年以上経過しますが、今も多くの方が参拝に訪れます。
Syekh Yusuf の墓はマカッサルのほか、ケープタウン、スリランカ、ジャワ島のバンテン、東部ジャワのマドウラ島(Sumenep, Madura, Jawa Timur)にもあります。
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