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1999年までインドネシアに勤務していました。私がインドネシアで暮らしていた時,いろいろな伝統的なインドネシア料理を食べる機会もありました。そこで,ささやかな私の食べ物あれこれの経験をここに綴りました。どこからでもお読みいただければ幸いです。
人と一緒に食事をするとき, “Enak” =「美味しい」,は体験を共感する最高の言葉です。ジャカルタの町に時々大きな看板が掛かっています。その一つに,男の子が口一杯に頬張ってお多福の3倍ぐらいに頬っぺを膨らませているのがありました。これは,果物味のキャンディの広告ですが,そこに,Enaa・・akと書かれてあります。これは,日本語でいえば,「うまーー~い」というところです。広告のお多福3倍の下膨れ顔があまりに傑作なので,このEnak(うまい,美味しい)はすぐ覚えてしまいました。
インドネシアではキャンディを口一杯に頬張って,一言“Enak,美味しい”です。
インドネシア料理で美味しかったものといえば,ココナッツ油で揚げた(goreng)地鶏の唐揚げ(Ayam goreng),焼き飯(Nasi goreng),焼きそば(Mie goreng)。そして,サテー(Sate,焼きとり)。山羊の焼きとりは健康にも良いと評判。いろいろなスープ(sop)やツミレ入りスープ(Basok)はなかなかのものです。ガドガドは野菜サラダをピーナッツ味噌で和えたものです。チャップチャイや田んぼや川の近くで採れるカンクン(Kangkeng)もご馳走の野菜になるでしょうか。ターフ(Tahu,豆腐)や醗酵大豆食品のテンペーなどもあります。魚(Ikan)はグラメ等川魚も多く,焼いたり揚げたりチリソースで炒めたりします。バリ島などの観光地では新鮮な海の幸やエビ(Udang)等シーフードも楽しめます。
出来合いの料理を次から次へと並べるのはスンダ料理です。いっぺんに20以上も皿が並びます。最初は「こんなに頼んでないよ」と驚きますが,大丈夫,食べた分だけの勘定です。スマトラのパダン料理や内臓も多いマドゥーラ料理など地域の料理もたくさんあります。中華料理や洋食は大きな都市ならば食べられますが,中国やタイよりは少し味が甘いようです。
スカルノハッタ国際空港に着いたとき待ち合わせ場所の一つにあるハンバーガーショップがあります。こんな風に1980年代後半からインドネシアでもハンバーガーやフライドチキンの店がかなり進出してきました。ファーストフードはまだまだ庶民にとっては高いのですが,ジーパンをはいているような,ちょっとお金持ちの人々にとっては時々寄ることが楽しみの一つです。どちらの店もご飯があるのが特徴です。
鶏肉は大好きな国民ですから,フライドチキンの店も多くKFCの他にもいろいろな店があり,CFC(カリフォルニアフライドチキン)等も目立ちます。Nr.Suharti等“○○小母さんの店”といった感じで,アヤムゴレンを中心に家庭料理を出すチェーン店もよく見かけます。
ダンキンドーナッツの店は値段が安い上に甘いので人気があります。ホカホカベントウ(HokaHokaBento)の店のプラスチック容器に入った弁当のおかずはすっかりインドネシア風ですが,ご馳走の扱いです。そして,日本人も皆いつもこういうものを食べているものと思い込まれています。
食後にはトラジャコーヒーやジャワティーをどうぞ味わってみて下さい。これがまたかなり甘い代物です。砂糖が多くてスプーンを立てたら立つのではないかと思うほどです。なお,コーヒーは粗挽き粉に湯をかけているだけなので,充分沈澱してから飲まないと口の中がジャリジャリしてしまう。そっと,啜り込む様に飲みましょう。
コーヒーやジュースを頼む時,砂糖を入れないでと言います時は“Tanpa gula”と言います。でも,それが“Tanbah gula”と,聞こえた時は,今まで以上に砂糖が入っている事になります。“Tanbah”とは「加えて」と言います意味だからです。“Mmmmm,Manis sekali(甘すぎる)”
インドネシア語では「甘い」は“Manis”です。英語のSweetに当たるので,同様に可愛いという意味もあります。日本人でよく知られている「可愛いあの娘は誰のもの」というインドネシア民謡がありますが,“ノーナ マニス シアパ ヤン プーニャン”ということで,ちゃんとマニース(Manis)が入っています。ついでに食味に関する言葉と言えば,しょっぱいがAsin,辛いがPedas,苦いがPahitです。
さて,外国語を覚えるとき,すぐ覚えてしまう言葉に「可愛い」という言葉があります(私だけ?)。インドネシア語では,Cantik(チャンティック)がそれに当たります。インドネシア語では,Caをチャと発音します。他にKaca(ガラス),Kacang(豆),Cabe(トウガラシ),やBecak(人力車),Kecap asin(醤油),Kecap manis,((甘い)醤油),Pancasila(インドネシアの五原則)・・・・・Cape(疲れた)等があります。 そして,私の好きなのはCicak(チィチャッ(ク))です。言葉というより,夕方,街頭の下やホテルなどの窓辺の明かりに集まる蛾や虫を求めてやってくるヤモリCicakを見ているのが好きです。「エーッ,そんなの嫌だ」という人もいるでしょうが,私は動物や昆虫が好きな割に,東京で生まれ育ち,ヤモリはあまり見たことがありません。私にとっては大きな輝く黒い目をした薄い肌色のヤモリの動きを見ているだけで面白いのです。あまりこの言葉を熱心に覚えたものですから,あるレストランで「そちらのお醤油(Kecap(manis))を取って下さい」と言うところ,思わず「そちらのCicakを取って下さい。」と言ってしまい,相手が“本当にCicak?”と言うので「ええ,Cicak manis(甘いヤモリ)を」と返事をして・・・・・,一瞬の間の沈黙。・・・・・そして,一緒にいたインドネシア人一同と大笑いしたことがあります。
イインドネシアの料理は基本的に辛い料理も多いようです。ロンボッ(ク)(Lombok)とは辛い小さな緑の唐辛子のことです。それが島の名前にさえなっているのです。
最後の楽園バリ島の東に位置しているロンボック島がそれです。ロンボック島は昔のバリ島を思わせるような鄙びた感じがあり,静かな雰囲気を求める人々には,意外な穴場的存在です。州都はマタラム王国の名を残すマタラム市。そこから北へ40分ほどのスンギギと小さな三つの島は南洋の隠れ家です。
インドネシアではトーフ(豆腐)を揚げたターフゴレンや春巻きにも唐辛子が付きます。唐辛子を名前に持つロンボック島の料理にも必ず唐辛子が付きます。大きい赤いものより,小さい緑のトウガラシが特に辛いので注意が必要です。ホテルや唯一の観光地スンギギビーチ辺りなら外国風の料理もありますが,他の地域や隣のスンバワ島に行った日には熱いお茶を片手にトウガラシを避けつつ食べないと結構口の中が火事になることがあります。
唐辛子の他に辛いものといったら,サンバルがあげられます。石のすり鉢に唐辛子や香辛料をおいて,石のすりこ木で擦って作ります。それぞれの家庭の味があり,手前味噌ならぬサンバル自慢があります。でも,便利さを求める近代社会は,食品工場に瓶詰めのサンバルを作らせました。中辛,劇辛等色々な種類がスーパーや店の棚に並んでいます。
インドネシア語は比較的覚えやすい言葉だと言われています。マレー半島とスマトラ,ジャワを結ぶ貿易に使われた言葉で,多くの人々が使いやすいように,男性形・女性形の変化や現在・過去・未来の動詞の変化もないし,冠詞もないなどの特徴があります。言葉(Bahasa)を覚えるこつは使うこと。ある程度言葉を覚えたら外に出て使ってみましょう。まずは,レストランに駆け込んで,Vサイン。“Bi r Bintang Besar(ビールビンタン大(2本))”緑の瓶に赤字の大きな星印のビールを傾けて乾杯しましょう。お酒を飲まないイスラム教が多いインドネシアといっても大都市のレストランでならオランダ仕込みのビールが売られています。こんなときバティック(Batik,ジャワ更紗)を来て,クロポック(元祖エビセン)を食べていると常夏のインドネシアにいる雰囲気が出ます。
インドネシア風のつまみとゆっくり飲んだら,“Minta bon(伝票お願いします)”。勘定書が必要な場合は,“Kwitansi(クイタンシ)”といってもらいましょう。
さて,熱帯の国に行ったときの楽しみの一つに,熱帯の果物類(Buahbuahan)を食べることがあげられます。インドネシアの果物をあげれば切りがない。甘く美味しいマンゴー(Mangga),パパイヤ(Pepaya),毛むくじゃらのランブータン(Rambutan),果物の王様ドリアン(Durian),果物の女王マンゴスチン(Manggis),ビタミン豊富なアボガド(Apokat),蛇の鱗のような皮のサラック(Salak),切り口が星形のビリンビン(Bilinbing,スターフルーツ),黄色や緑の大きなバナナ(Pisang),小さ目だけど断然甘いパイナップル(Nanas),スイカ3個分もありそうなナンカ(Nangka)。馴染み深い赤いスイカ(Semangka)や緑のメロン(Melon),黄色いバナナも出回っています。地域ごとにもパレンバンのパイナップル,メダンのドリアン,ウジュンパンダンのマルキッサ,マルクのバナナ等有名な果物もあります。熱帯の果物は,たくさん(Banyak)あります。市場に行っていくら(Burapa?)と聞けば値段交渉開始です。デパートに比べ断然安くて,美味しい物もあります。好きな果物を抱えてきて,“ウーン,バグース(Bagus=最高)”
でも一つだけご注意を。果物の王様ドリアンを食べてビールを飲むと体の大変悪い,死ぬ人もいるといわれています。テーブルの上でドリアンジュースにビールを注ぎ実験したところ,発泡が激しく胃の中でこんな風に泡を吹いているのかなと思いました。特に普段アルコールを飲まないインドネシア人にとってはかなり悪酔いしそうです。
ジャカルタの1980年代から1990年代の発展には目覚ましいものがありました。スカルノハッタ空港ができ,韓国の協力を得て市内までの高速道路が完成しました。市内には高層ビルがたくさん並び,日本のバブルの時期とも重なりたくさんの会社が入りました。日本食レストランも200軒弱ほどあったといいます。日本の景気低迷をアジアの発展の中で取り戻そうとした動きもありました。
仕事のストレス解消のためか,日本人はよくブロックM(Blok M)に集まっていました。ブロックMはバスの終着場であり,インドネシアの市場がある地域ですが,パサラヤデパートもあり,その裏には日本人がよく行く店も多いのです。
でも,大使館等がある市の中心街からブロックMまで行くのに普通は15分以内なのに40分以上かかることもありました。夕方の交通渋滞(Macet)が原因です。
ブロックMには,焼き肉屋,寿司屋,一杯飲み屋,カラオケスナック等がたくさんあります。いつも日本人が多いので,何となく不思議な感じがしました。夜,ブロックMなどで飲んで帰るときは必ず自分の自動車で帰るか,友人に送ってもらうことが肝心です。夜の流しのタクシーは決して使ってはならないというのが,金持ちに見られる外国人の常識です。自動車は生活必需品であり,良い運転手の確保はインドネシアにおける安全確保の常識なのです。
スラウェシ島はかつてセレベス島と呼ばれていました。ウジュンパンダンは南スラウェシ州の州都で,かつてマカッサルと呼ばれていました。飛行場から約15キロで市内につきます。海岸沿いにPegnibur通りがあり,そこからの夕陽が有名です。1997年は異常乾燥で山火事が発生していましたが,空気中に灰が舞っていて,夕焼けもかなり綺麗でした。残念ながら海の水はあまり綺麗ではありませんが,夕陽はとても美しい。 この通りは,夕方になるとカキリマ(Kaki Lima)と呼ばれる屋台が100台以上集まります。幅50センチほどの2輪車を2本足の人が引っ張る。止めるときに1本の木の板でブレーキにする。足(カキ)が5(リマ)本だからカキリマというわけです。カマキリではありません。カキリマには,夜アセチレンランプが灯されます。売り物にはバナナのゴレン(揚げ物)からターフ(豆腐)のゴレン等の揚げ物や果物,ジュース,ガドガド(野菜サラダ),サテー(やきとり),氷水が多かった。オタオタというのは当地の蒲鉾でバナナの葉に包まれています,葉っぱごと焼いて熱いうちに食べるとなかなかいけます。
もちろん,このカキリマは全国にある代物です。ワルンという椅子も置いた簡易屋外レストランと違って,流しで歩いていることも多く,パンやアイスクリーム,焼きそば(ミーゴレン),ソトーや果物等々いろいろな売り物があります。木や鉦を叩いたりそれぞれ独特の音を鳴らしたりしながら歩いていきます。子供も大人もその音を知っていて,好きな食べ物屋が通ることがわかると,音を目指して駆けだし ていきます。日本でも,豆腐屋さんのラッパ,夜鳴きソバのチャルメラ等いろいろ豊かな懐かしい音があった時代がありました。
インドネシアに行って,飛行機から陸地を見ると本当に緑が多いなあと感じます。そして,赤茶けた大地の中を,蛇行した茶色い泥の河が流れています。ジャワ島などでは河の周りの水田と山地の畑が何処までも続いているのが見えます。 土(Tanah)と水(Air)の豊かな国です。日本語では風と土で表す風土に当たる言葉が,インドネシア語では,TanahAirということになります。郷土とか祖国と訳します。
ところで,この水ですが,残念ながら,蛇口から出る水を飲むことはできません。古くからの長い水道管はどこかで水が漏れているようです。ということは,土と一緒になって,汚染されているというわけです。飲み水(Air)は土(Tanah)と一緒にしてはいけません。水も幾らか茶色がかっていますから,洗濯をすると下着やワイシャツが次第に黄ばんできます。
さて,水道の水が飲めないので,人々は水のボトルを買うことになります。アクアといって20リットルくらい入ったプラスチックのボトルを運ぶトラックをよく見かけます。値段は100円以下でそんなに高くはありません。しかし,一般の人は井戸を掘って汲み上げた水を飲んでいます。ジャカルタなどでは井戸と下水溝やトイレとの距離はそんなに離れていませんから下痢の類の発生はかなり多いと思います。そんな環境を乗り越えてきた人たちですからちょっとした病気には強いようですが,それでも時々おなかを痛くして休んでいます。日本人の場合は,すぐに1~2週間入院ということになってしまうかもしれません。インドネシアを訪問したときに,熱帯の雨に感動しますが,他にも歓迎のシャワーがある場合があるので,ご注意ください。特に,氷(Es)になったものにも気をつける必要があります。剥かれてある果物や生の野菜も水や寄生虫の関係で気を付ける必要があります。
インドネシアでは,雨季に夕方雨が降ります。暑い日を一気に涼しくしてくれるシャワーです。しかし,インドネシアには,観光客を歓迎してくれる別なシャワーもあります。何しろ,日本からインドネシアに行った四人に一人はかなり猛烈にお腹を壊します。これは,タイやシンガポールでの病気の比ではありません。正露丸やビオフェルミン,そして抗生物質を持参する必要があります。
インドネシアでは,一般の薬は箱から開けられ一粒売りされています。有効期限が分からなくなる点が心配です。お金持ちならデパートに行き,箱ごと買えるかも知れませんが,一般庶民は必要なときに一粒ずつ買うのです。
こんな時,インドネシアではJamuジャムーを飲むとよいといわれます。地方に行くと殊に多く,ジャムーは滋養強壮に効くお茶のようなものです。ジャムーは,インドネシア独自の伝統的な薬として地方に浸透していったもののようです。
漢方薬の一種でしょうか。でも漢方薬なら,「鼻敏感丸」などと日本人なら推測できるような名前がついています。ジャカルタの中華街に行くと,日本では高価な漢方薬がとても安い値段で売られています。種々の薬草や海馬(タツノオトシゴ)や犬のペニスやらが並んでいて,古めかしい秤で計りつつ,紙の上に色々な薬を混ぜていきます。薬のにおいもあいまって,なにやら不思議な光景です。でも,スマトラトラとかジャワサイ,コブラ等貴重な動物が薬(Obat)として違法に販売されている場合もあります。トラやサイはもう絶滅に近いほど減っています。ワシントン条約(野生動植物の種の国際取引に関する条約/CITES)で保護されているにもかかわらず,密猟は続きます。
オランウータン(Orangutan)といえば森(Hutan)の人(Orang)。年取った雄は哲学者風の容貌です。ボルネオ島とスマトラ島北部にいる霊長類の動物で,知能も高く心の動きも複雑な動物です。1999年,日本に密輸入されて問題になりました。他にクスクスなど原猿類はじめ珍しい動物も多いのですが時々ジャカルタの通りでなどでペットとして売られています。
外国で暮らしているとご飯がとても懐かしくなります。インドネシア語でご飯はナシ(Nasi)といいますが,日本と同様,稲(Padi),モミ(Gabah),米(Beras)そして,米を炊くとご飯(Nasi)になるというように人々の関心も高い主食です。米の生産量は日本の1000万トン弱に比べ,遙かに多い3500万トン。気温の変化の少ない熱帯の気候なので,いつでも米を生産しています。収穫している側から栽培しているので,緑や黄色や水張りの水田が一度に見られます。労働力や水の配分,貯蔵庫の問題からいっても,時期ごとに必要量を収穫していく形の方が良いのでしょう。
米はジャワ米で南アジアのようなパサパサした「外米」ではなく炊き方も同じです。それで日本人もインドネシアで比較的快適な食生活を過ごすことができます。チアンジュール米は美味しいといわれており,私はそれに餅米を混ぜたりしていましたが,最近はボゴールでコシヒカリを栽培していたり,カリフォルニア米が出回ったりしています。1997年はエルニーニョによる大旱魃で米の生産が激減しました。日本やタイからもインドネシアに対して米の緊急援助が行われました。日本で米の供給が不足したときにはインドネシアから米がお返しに戻ってくることになっています。
Pembantou(お手伝いさん)について話をしましょう。
家が決まるまで泊まっていたホテルの受付けの人が,「私の所のメイドの親戚が,日本人のメイドになりたいといっているので紹介したい。」と言ってきました。一応面接することにしました。その人が連れてきたのは,小さなカバンを持ってジョグジャカルタから夜行バスできたという小さい女の子。その娘の名前はサリーナ(Sarina)。「タムリン通りにあるデパートと同じ名前だね。」というとうなずく。「洗濯と料理はできるか?」と聞くと,できるという。もう帰るところがないという背水の陣で蒼ざめた真剣な顔で答える。仕事も忙しく他に捜すのも面倒なので,少し情け心を出して,洗濯がうまくできるならと考え,仮雇用はしてあげることにする。最初は,彼女に英語を教えつつインドネシア語を習ったりもした。一緒にミニバスに乗って,近くの市場(Pasar)にも行った。彼女も市場で買い物をするのに慣れていないような気もしたが,インドネシア人と一緒なので市場の奥のいろいろなところまで見に行けた。果物は山と積まれ客が手にとって選んで買っていた。米は少し長いジャワ米。小米も売っていた。魚はバナナの葉の上に乗せて,時々水をかけビニールを先に結んだ棒でハエを追っていた。肉は市場の奥の方にあり昼過ぎには売り切るようにしていた。豚肉は売っていなかった。椰子の実売りの男は何故かいつも寝ていた。
知人のSさんが家に来たとき「この娘はまだ中学生だよ」と言われたが,小学6年生ではないかとさえ心配するくらい背が小さかった。ただ一緒にいる間に少し背が伸びたような気がした。結局,料理はインドネシア料理,洗濯は洗濯機任せ,出かけている間にテレビで漫画ばかり見ている彼女は約束の仮雇用の3ヶ月で辞めてもらいました。彼女は辞める前から近くの日本人の家で子守りを手伝っていて,ちゃっかりそこで働くことにことになった。小さなカバン一つでジャカルタに飛び込んで来た彼女は3ヶ月間で,すっかり逞しくなっていました。
二番目のメイドは,スリ(Seli)さんといい,22歳だった。ボゴールで料理は3本の指にはいるというメイドを,ご主人が帰国の際に引き継いだ。給料は物価の安いボゴールより上げてやった。週に3回,午後1時から4時まで洋裁を習いに行かせた(洋裁学校の月謝は給料の10分の1だったがこちらで払ってあげた)。彼女はもうこれまでの働きの中からミシンを買っていたのだ。プロ意識を持った人で,買い物は家の自動車で運転手と一緒にスーパーに行って,野菜などは15~20種類くらい一人で選んで買ってきた。
このままずっと雇っても良かったが,一度田舎に帰った時にお見合いをしてきて,その2ヵ月後に結婚すると言うのでお祝いをあげて送ることにした。後から結婚式の写真を送ってきてくれた律儀な人だった。
三番目のメイドはサンティ(Santi)さんといって,知り合いの日本人のメイドのお姉さんだった。
通いで来てもらっていた。私が忙しくスーパーにあまり行かないので,時々“トアン(Toan=ご主人様),もう野菜とジュースがなくなります。”などといってきた。そんなときは,地元のパッサールミングーの市場に一人で買いに行かせると,果物などはいつも行くスーパーの三分の一の値段で買ってきた。日曜日にスーパーに買い物に行ったときも野菜などは念入りに矯めつ眇めつ調べ,私の取った野菜に痛みがあると,こっちの方が良いからと言って替えた。いつも“トアン,トアン”と何を買うかを尋ね,それ以外の物は一切買わなかった。スーパーで肉を買うとき,トアンは一人なので少しずつ買うと良いと言って,袋に分けてもらい,すぐ使わない物は冷凍庫に入れていた。牛の挽肉より鳥の方が安いのでそちらを余計に買っていた。結婚されている主婦の感じが良く出ていた。
しかし,料理のレパートリーは最初に教えたとおりだった。確かに最初にご飯の時には必ず梅干しを出してほしいと言っておいたら,その後スパゲッティの時も,パンの時も必ず梅干しが2個付いてきた。味噌汁も必ずどんな料理にも付いてきた。近所の奥さんが心配してくれて,一度料理を教えてくれるというので,見習いに行かせたら,「家のメイドより料理が上手です。」と言ってきた。「いろいろ他の日本料理も知っているのだろう」と聞くと,かなり読み込んだ「インドネシアの材料で作れる日本料理」(日本人クラブ婦人会編)を鞄から取り出した。昔仕えた奥様からもらったという。それに料理の言葉や日本語もかなり知っていることが分かった。“トアンがインドネシア語で話すから”と言って,その後もインドネシア語だけで会話をしていた。彼女は最初25歳といっていたが,帰国直前に29歳ということが分かった。中学を卒業して,日本人の奥様に十数年勤めたと言っていたから,これなら計算が合う。そういえば,彼女は“Kirakira(大体)“と言っていました。
インドネシアの農業は,パラウィジャヤや稲作を主とする耕種農業が中心で,畜産はそれとともに発展してきました。それにしても,その家畜の種類はきわめて多様です。インドネシアは,国土面積,人口共に東南アジア諸国で最大の国です。家畜の実頭数で見ても,アセアン地域内で大きな比重を占めています。牛,めん・山羊,鶏,アヒル,馬はアセアンで最大の頭数を持ち,水牛では,タイに次いで,豚ではフィリピンに次いで第2位を占めています
なお,イスラム教徒はコーランにより,食べてよいものといけないものを決められています。動物の肉では,豚肉,犬の肉,蛇の肉,鰻など鱗のない魚の肉,死肉,絞め殺された動物の肉等は,ハラレ(Halale)といって,食べてはいけません(コーラン第6章メッカ啓示146節)。牛や山羊,羊は食べてもよい動物ですが,敬虔なイスラム教徒がアッラーの神に祈りを捧げ,頚静脈と食道と気道を一気に切って,と畜したものでなければなりません。こうしてと畜した方法をハラル(Halal)といいます。食肉缶詰にもアラビア語で,“ビスミッ ラーッヒッ ラフマーニ ラヒーム”と書かれてあり,そして,Halalと記されています。スラバヤの屠畜場には,大きくHalalと書いた看板がありましたが,他の屠畜場では見かけなかったので,いつどうやってお祈りしているのかと聞いたところ,心の中で,一瞬にして“慈悲深く慈愛あまねくアッラーッの御名において”とお祈りしていると言っていました。
宗教上の行事でも,牛肉や山羊肉がよく使われます。特に,Idul Adha(犠牲祭)というイスラム教の祝日では,イスラム教の聖地メッカに行った人や金持ちの人が,肉を皆に振る舞います。その祝日の1週間前くらいから,町のいたる所で牛や山羊を繋いだ臨時家畜市場ができます。当日は,学校や大きな辻の公園などで,牛や山羊が生贄として屠られ,ぶら下げられた枝肉から少しずつ肉が,人々に分配されます。
インドネシア語で,山羊は,Kambing(カンビン)といい,めん羊は,Domba(ドンバ)といいます。多くの人は,山羊を自家用の食肉用に飼っているので,屠畜場でのと畜は多くありませんが,と畜され,肉になると,山羊もめん羊もどちらもダギン・カンビン(山羊肉)と呼ばれます。
そういえば,めん羊を飼っている人以外に,めん羊を指して「あの動物は何ですか?」と聞くと必ず,“山羊(Kambing)です”と答えます。まるで,ムササビとモモンガー(小さいほう),フクロウとミミズク(耳が出ているほう),アヒルとガチョウ(大きくて羽が長いほう)の違いを知らない人のように答えるのです。(ちなみに,昔よく言われた,ツチノコは,地面に落ちたムササビとのことです。頭を持ち上げ,膨らんだお腹,短い尻尾,そして,捕まえようとすると空を飛び,いなくなるというのは,ムササビでしょう。)
有り難うという言葉は生活している上で価値があります。お互いが相手を尊重して過ごし,その中で自然に“Terima kasih”「ありがとう」といえる状況・関係を持てれば幸いです。レストランでもこの言葉を使うとサービスが違うし,笑顔も良い。そう,インドネシアの人の笑顔はとても良い。この返事は“Sama-sama(どういたしまして,お互い様々?)”です。
こんな時,帰り際に少しばかり心付け(Tip)を置いていくのが良い。次に来た時も相手が覚えていてくれます。それはやはり有り難うの言葉と気持ちがあってこそのチップだからだと思います。
インドネシアはこれまで訪れた国の中でも好きな国の一つでした。インドネシアの自然や文化は勿論のことですが,インドネシアにはお米があり,お茶もあり,高原野菜や鶏卵があり,食べ物でもそんなに大きな問題はありませんでした。しかし,お米一つとっても生産・品質・保存・流通・加工・表示などいろいろ問題がありました。今後,これら食品の問題を一つ一つ解決していかなくてはなりません。農業生産部門だけでもまだまだ改善するところも多く,豊かな森や水田や海などの環境を大切にして,自然循環機能を活かした複合的な家族経営を続けていくのが良いだろうと思います。インドネシアではレバランの時期に断食(プアサ)の習慣があります。インドネシアでは普段の食事の量もとても少なく,腹を空かしておなかの虫を鳴らしている人が多かったように思いました。今後,世界の人口はアジアを中心に増大し食料の生産が不足するのではないかという見方もあります。日本は自らの食糧自給率を向上させ,さらには世界の国々に農業や食品の技術協力をしていく必要性が高まっていると思います。
最後になりましたがささやかな私の思い出にお付き合いくださった方々にお礼申し上げます。そして,いつか,あのはるか赤道の先,緑の森と水にあふれた南の島々に,お出かけください。豊かな自然はあなたに何かキラリと輝くものを与えてくれることでしょう。
Terima Kasih Banyak
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