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脇田 清之 Wakita. K
トソラ遺跡 裏側から (撮影:粟竹章二)
トソラ遺跡 前面から (撮影:粟竹章二)
南スラウェシ州のワジョー県(Kabupaten Wajo)は、南スラウェシ半島の東中央部に位置する。東はボネ湾に面し、南側はボネ県、ソッペン県、西側はシドラップ県、北はルウ県に接する。首都はセンカン(Sengkang)、人口約40万人、マカッサルからの距離は約242㎞、車で約4時間の位置にある。山岳・丘陵地帯が多いため、最高気温は29-30度程度、4月から7月が雨季、7月から10月が乾季、11月から3月は湿季、と半島の西海岸に位置するマカッサルと季節のパターンが大きく異なる。
ここに、かつて、ワジョー王国があった。
(上の地図参照 出典 Andi Ima Kesuma著 Migrasi & Orang Bugis)
王国の首都はマジャウレン(Majauleng)郡トソラ(Tosora)村にあった。Wajo は影、幻影を意味し、インドネシア語で bayang-bayang
(wajo-wajo) となる。
ワジョーの王家は、木陰での会議で、住民との意思疎通を図り、地域の住民の信任を得ていたという。ワジョー王国は、封建的な近隣諸国と異なり、民主主義的な風土があったという。
ワジョー王国の由来には、ほかの説もある。現在のルウ県(Kabupaten Luwu)のあたりにあったルウ王国の王女(We Tadampali)が、らい病を患い、国外追放となり、トソラ(Tosora)にたどり着き、その後ここに王国を築いたという。因みに、ここの地域名(郡名)、マジャウレン(Majauleng)、maja は病、 oli' は皮膚、皮膚病を意味するという。王女はその後、皮膚を水牛に嘗めさせ、病は完治し、ボネ(Bone)王国またはソッペン(Soppen)王国から王子を迎えたという。
トソラ(Tosora)は、センカン(Sengkang)の東方16㎞、周囲を8つの小さな湖で囲まれた地域で、かつてのワジョー王国の首都である。ここには、数多くの歴史遺産が残されている。ワジョー王国の墓、王国の弾薬庫、1621年に建てられた寺院、出陣前の兵士のための浴場、大砲などで、多くの観光客が訪れると県の観光案内には書かれていた。我々が2011年7月に訪問したときは、道案内の標識もなく閑散としていた。ここがワジョー王国の首都であった面影はない。
ワジョー王国は、15世紀に黄金時代を迎え、1610年イスラム教を正式に導入した。ボネ王国、ソッペン王国と並び、南スラウェシ半島における三大ブギス王国のひとつであった。16~17世紀、マカッサルの隆盛の時代であった。ブギス三国(ボネ、ワジョー、ソッペン)はマカッサルの勢力拡大を恐れ、1582年、三国友好同盟(Tellum Poccoe)を締結している。
三国友好同盟を締結したものの、その後、ボネ、ソッペン両国が、マカッサルの勢力拡大を恐れ、マカッサルのゴワ王国と対峙するオランダVOC側を支持、一方、ワジョーはオランダの侵略に対抗するため、ゴワ王国を支持した。これにより三国友好同盟は破綻する。オランダVOCは、ボネ、ソッペン、ブトンの軍事力を取り込んで軍事力を強化した。一方、ワジョー王国はわずか1万人であったが、マカッサルのハサヌディン国王軍を支援した。やがてマカッサル戦争 (1666 - 1667, 1668 - 1669) が始まる。ゴワとワジョーの連合軍は、ソンンバ・オプ (Somba Opu) 要塞ほか、各地の要塞を死守するが、ボネ、ソッペン連合軍を味方につけたオランダVOCは強力で、ついに、1667年11月13日、戦争中断、ゴワのハサヌディン国王は、不本意ながら、ブンガヤ条約に調印する。しかしワジョー王 La Tenri Lai Tosengngeng ArungMatoa Wajo (1658-1670) はこれに納得せず、ブンガヤ条約に調印しなかった。この調印のあとも、オランダVOC同盟軍は、ゴワとワジョーの残存軍の討伐を続ける。一方、ワジョー軍は、ゴワのカラエン・ボントマラヌー(Karaeng Bontomarannu)、カラエン・ガレソン(Karaeng Galesong) 軍と協力体制を維持し、ジャワ島へ渡り、オランダVOCによるジャワ島の植民地化に抵抗する闘争を続ける。
こうした中、ハサヌディン国王の率いるゴワの軍は、ブンガヤ条約により拘束され、動きが取れなかったが、条約に調印しなかったワジョー王 La Tenri Lai Tosengngeng ArungMatoa Wajo は、軍隊を率いて、オランダVOCと同盟軍に接収されたウジュンパンダン要塞(Fort Rotterdam)を包囲する。この、ささやかな反抗も、やがてオランダ側からの反撃を受け、ワジョー軍は撤退に追い込まれ、ワジョー軍の一部はドンガラ(Donggala)、ゴロンタロ(Gorontalo)、カリマンタン島のサマリンダ(Samarinda)へ逃亡した。サマリンダへ逃亡した軍隊は現地のクタイ国王から歓迎を受け、当地に自治領サマリンダを築いたという。
ワジョー王La Tenri Lai Tosengngeng ArungMatoa Wajo は残りの軍隊とソンバオプ要塞の守備に奔走するが、多勢に無勢、次第に劣勢に追い込まれる。これを見たゴワのハサヌディン国王は、ワジョー王に対し、兵力を温存し、将来の対オランダ連合軍への反抗運動に備えるため、故郷のワジョーに戻るよう促した。
一方、1669年11月18日、ボネのアルン・パラッカ(Arung Palakka)は、ワジョー国王に対して、ボネ三国で締結した三国友好同盟(Tellum Poccoe)を順守するよう促した。しかし、ワジョー国王は、ボネが侵略国であるオランダVOCに加担した状況で、同盟順守はできないとの考えを示した。アルン・パラッカ(Arung Palakka)はワジョーの首都トソラ攻撃を決意する。
トソラでの戦闘は、1670年8月7日から11月18日にかけて、3か月にわたった。1304人のワジョー軍の兵士は戦場に散った。国王は閉囲されていたが、トソラ要塞内から大砲を打ち続けた。しかし混乱状態の中、大砲が自爆し国王は戦死した。国王が戦死した無抵抗状況で、オランダ・ボネ連合軍は攻撃に拍車をかけ、要塞内の弾薬庫も爆発、ワジョー王国の首都トソラは炎上、灰燼に帰した。
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