総目次 |
和田 ひとみ Hitomi Wada
太平洋戦争勃発の1941年12月8日、スラウェシ島在留の日本人は、出漁していた漁民も含め全員、蘭印官憲によって拘束された。マカッサル和田商店の店主、和田治太郎氏もその一人である。和田治太郎氏は、マカッサルの刑務所、センカン、東部ジャワのナアヴィ収容所を経由し、昭和17年(1942年)1月末、豪州のラブディ戦時捕虜収容所に送られたが、昭和19年(1944年)2月、収容所内で亡くなられた。和田治太郎氏の姪孫にあたる兵庫県の和田ひとみさんはかねてより大叔父の墓地の所在を探していたが、最近ついに探し当て、平成24年9月、桜が満開のカウラ日本人墓地を慰霊のため訪れた。以下は和田ひとみさんのレポートである。 蛇足:マスコミ関係では「オーストラリア日系人強制収容」などと書かれることが多いが、全体で4300人のうち、蘭印(インドネシア)各地から送り込まれた方達は約2000人に達します。 (編集部)
私が小さい頃、祖父母はセレベス島に行って仕事をしていたと聞かされていた。時々祖父母が話してくれたのもかすかに記憶にある。小さいころ写真も見た記憶があるし、ウミガメの甲羅も家にあった。祖父母は結婚してすぐに祖父の兄の仕事を手伝うためにインドネシアに渡ったのだそうだ。私の父はセレベスで生まれ3歳くらいまでいたらしい。
それから詳しい話を聞くこともなく数十年が過ぎ、当時のことを知る人もあまりいない。なんとなく気になる場所「セレベス島」をネット検索「スラウェシ島情報マガジン」を知った。「和田治太郎」って名前がある。これが私の大伯父・・・ 祖父の兄にあたる人なのだ。名前が出てくるなんて思ってもいなかった。私は大伯父の存在もよくわかっていなかったのだから。
「スラウェシ島情報マガジン」の中で大伯父の名前は別のところでも出てくる。「開戦時のマカッサル残留邦人」実はそれがとても気になり私が大伯父の事を調べるきっかけになったのかもしれない。大伯父達民間人は開戦と同時にインドネシアで抑留され、オーストラリアに渡ったらしい。情報マガジンを通じいろんな方々からの情報をもとに大伯父の事を調べてみる。また祖父兄弟の除籍謄本を取り寄せたところ当時のいろんな事情のようなものが見えてきた。おそらく昭和初期に大伯父達はマカッサルに渡ったものだと思われる。戦前(昭和11年頃)祖父達は日本に戻ってきている。最初大伯父は日本に戻っていないと思っていたが一度日本に戻ってきたようだ。曽祖父が亡くなり一旦は長兄である冶太郎が家長になっていたようなのだ。しかし当時子供のいなかった大伯父ひとりが再度マカッサルに渡ったのではないか。大伯父の妻ゆきゑさんはマカッサルには渡らず日本に残っていた。その後、祖父松太郎が家長になっている。(それは大伯父が亡くなった後かもしれない)(写真は土井正治氏提供 昭和16年3月23日在マカッサル大日本帝国領事館開館記念写真の一部)
マカッサルからオーストラリアに渡り各所にある収容所に移送されているらしいのだが当時の名簿が無いらしく、どの収容所に移送されたのかわからない。オーストラリアに抑留された方々も終戦後には帰還しているのだそうだ。しかし大伯父が亡くなったのは昭和19年であり戦時中だ。祖父母も父も他界しており、当時の話を聞ける人がほんとどいない。
セレベス島で生まれ育ち当時の記憶も少しある伯母に聞いてみると、「治太郎さんは捕虜になって豪州で亡くなったんよ」という返事。大伯父はオーストラリアで亡くなっておりその遺骨は日本にはない。除籍謄本を取り寄せると「南豪州バルメラにて死亡」と記されている。バルメラ・・・バーメラ・・・ラブダイ収容所に移送されたようだ。おそらくラブダイ収容所で大伯父は亡くなっている。
戦時中オーストラリアで亡くなった日本人のお墓がニューサウスウェールズ州カウラにあることを知った。カウラ日本人墓地・・・カウラ収容所で起きた集団脱走事件による235名(オーストラリア人4名 日本人231名)の犠牲者とオーストラリアの他の収容所で亡くなった方々がカウラに集められ手厚く葬られているという。大伯父のお墓は必ずカウラにある。毎年桜の咲くころに行われているというカウラ戦没者慰霊祭に行ってみたいと強く思うようになった。カウラはシドニーから西内陸へ300キロの所にある小さな町で、車で走ると4時間くらいあとは鉄道とバスを乗り継いで行く方法しかない町。
シドニーにある「シドニー日本人会」が毎年カウラ桜まつり(慰霊式典参加)ツアーを開催していることを知り、日本から参加出来るか問い合わせたところ快く参加を承諾していただいた。大伯父が私を呼んでくれている、先人の魂を迎えに行こう。シドニーから約40名くらいの1泊2日のバスツアー。私以外にも日本から参加された方も数名。9月22日(土)バスで移動し隣町のバザーストという町で1泊。翌日23日(日)まずカウラ捕虜収容所跡地を見学。建物跡も少し点在した広い草原といった感じであるがここが「カウラブレイクアウト(集団脱走事件)」が起きた所。遠くに少し見ええる黄色の大地は菜の花畑。カウラは菜の花の黄色がとても印象に残っている。
カウラ捕虜収容所跡地
日本人戦没者慰霊碑
平成24年9月23日、とても天気の良い日曜日。桜の咲く中、豪日合同の戦没者慰霊祭がとりおこなわれた。私達も式典に参加させていただく。式典はまずオーストラリアの墓地から始まり豪日それぞれ代表者の方々が献花。そして桜が咲く日本人墓地へ。手入れの行き届いた霊園に戦没者の墓石が並んでいる。神式と仏式がとりおこなわれ、豪日代表者による献花。式典が終わりいよいよ大伯父の墓石を捜す。シドニー日本会の方も一緒に捜してくださいました。
WADA JITARO 8-2-1944 AGE 52
と記されている
日本人墓地
これまで大伯父の無念さを思っては涙することもあった。やっと見つけることのできたうれしさと、大伯父もよろこんでくれたのか笑顔の対面。うれしかった、本当にうれしかった。68年も経ってしまったけれど・・・「冶太郎おじいちゃん、初めまして遅くなりました」
大伯父のように人知れずここで眠られている方々がまだまだいると思います。 カウラブレイクアウトにより偽名のままの墓石がある方々。でも日本から遠く離れたカウラでこんなにも綺麗に整備された墓地の中、たくさんの日本人の方々と一緒に眠られているのはせめてもの救いのような気がしました。遺族の方々には思い出して見つけ出してほしい。忘れてはならないことだと思います。 いろんな情報を提供し助言をしてくださったみなさま、オーストラリアでお世話になったみなさま、本当に感謝しています。ありがとうございました。
Copyright (c) 1997-2020, Japan Sulawesi Net, All Rights Reserved. |