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そして、女性3人の2004年8月スラウェシへの旅が実現する。たくさんの方々とお会いした。80の母をしてこう言わしめた。「これまでの人生でこんなに歓待していただいたことはなかった。最高に幸せな旅だった」。ありがとう!スラウェシの方々。そして、それを支えてくださった日本の方々。
この最高に幸せな旅をかいつまんでご紹介していこう。
やはり遠い。一日では到底マカッサルまで行きつかない。しかし、リゾート・ムードたっぷりのバリ島で一泊、南国のゆったりした夜の風に心が和む。明日からのことを考えるとドキドキする。
マカッサル・ハサヌディン空港へは、タラップで降り立つ。さて、手続きはどこで行うのかと建物を見渡していると、すでにそこに、出迎えてくださっている方(渡邊氏、マカッサル市立博物館長など)がいるのに気づく。そして、レイをさげていただき、中学生男子10人位による豊作の踊りで歓迎される。
急にすべてが始まり呆然とする。私たちのために踊ってくださっていることに驚き恐縮しながらも、その軽快な踊りに心を奪われた。そのまま空港の応接室でご挨拶をする。こういう正式なことに慣れていない母は、挨拶をと言われても何を言ったものやらとどぎまぎしている。しかし母と姉は、マカッサル市立博物館長とは刀のことで日本ですでにお会いしており、打ち解けた雰囲気もあった。あとで漏れ聞くところによると、ここでの歓迎の踊り等はマカッサル市立博物館長の采配で準備されたことと聞く。感謝。
その後、通訳の方にマカッサルを車で軽く案内していただき、海上のレストランでお茶をいただく。通訳の方は日本の大学で勉強したこともあるインドネシア人で日本語が流暢、頼もしいかぎり。日差しは厳しいが、のんびりとした南国の時間にくつろぐ。
夕刻、ホテルから大海に沈むマカッサルの素晴らしい夕陽を初めて見る。言葉を失う。感動。
この晩は渡邊氏と会食。ここまでの不思議な巡り合わせを皆でしみじみ語り合う。
マカッサル市立博物館を訪れる。なかなかに重厚な建物である。マカッサル市立博物館長がにこやかに出迎え、案内してくださる。ここは、かつての市庁舎ということで、祖父が仕事をしたという部屋や机などがあった。議会を行っていたという部屋も広く、歴史を感じる。
(祖父も使ったという机)
(当時は議会室であったという部屋)
肝心の祖父の写真の展示は、今は独立記念日ための特設展示場に飾られているということで、車で移動。公園の中の展示場まで行く。テントの中にホームページで見た祖父の写真を発見。祖父のプロフィールも隣に飾られている。感無量。
この日は、私たちの取材ということで、何人かの新聞記者とカメラマンがずっと同行していた。これにもびっくり。母がマカッサルの印象はという取材に「マカッサルの人々は目が優しい」と答えていた。確かに、この地の人々は目が優しい。穏やかに笑みを浮かべ見つめ返してくれる。しかし、インドネシア語がさっぱりの私たちのために、通訳の方が訳しながらの取材なので、なんともまどろっこしい。どれくらい通じているのかいまひとつ分からない。
記者とカメラマンが同行しているせいかやはり人目を引くらしい。特設展示の他のテントに立ち寄るたびに、通訳の方が一々説明するはめになった。でも説明を受けた人たちが暖かい笑顔で歓待してくださったのは本当に嬉しかった。
夜は、マカッサル市長主催夕食会に招待される。たくさんのVIPと思しき関係者の方々が、私たちを招待するパーティのために集まってくださった。何事も計画していく内ににぎやかになっていくというのがインドネシア流らしい。男性はバテッィクのデザイン・シャツというのがここでの正装、涼しげでおしゃれである。
ここは、祖父も住んでいたという市長官邸で、玄関から応接室、パーティ会場にまでしか入れなかったが、がっちりした造りで明るい印象の建物だ。お食事をしながら、市長さんやきれいな奥様とお話する。市長さんにしてはお若い方で物腰も柔らか。奥様は笑顔の美しい優しい方でお料理を自ら取り分けてくださる。
食事の席での話は自然と今後の日本からの援助ということになっていき、日本との関係をとても重視していることが分かる。最後に玄関で記念写真を撮る。慣れないことなので、緊張のしっぱなし。それにしても、祖父は、良いところで働き、良い所に住んでいたのだなあ。
(市長官邸前で記念写真)
空港で出発を待つ間、今朝の新聞に私たちのマカッサル訪問の記事が出ているのを見る。通訳の方に読んでいただくと、母が「マカッサルの人々は目が優しい」と言ったのがしっかりタイトルになっている。本当に記事になるのだ、と初めての体験に気持ちが高揚する。
マカッサルは人々は穏やかで温かく、懐かしい感じのする町だった。滞在前も滞在中も惜しみないサポートをしてくださった、渡邊氏が最後まで見送ってくださる。感謝し名残り惜しみつつも、午後一のガルーダ航空の飛行機でマナドへ旅立つ。今回の刀の寄贈について橋渡し役としてご尽力くださったインドネシア人の方も同行。これにも感謝。
マナドでは、スラウェシ・ネットワークでつながりを得た日本人の女性が出迎えて下さる。ここでも北スラウェシ州政府の方々のお出迎えがある。これは刀の寄贈が生み出したつながりである。
まず北スラウェシ州知事に刀を返還し、その後北スラウェシ州立博物館に寄贈することになっていたので、その打ち合わせをする。と言っても、通訳の方が頼み。前述の橋渡しのインドネシア人の方の働きもあり、独立記念日の夜のパーティで刀の返還がメイン・イベントになると言う。また大事になりそうだと、私たち3人は目を合わせた。
日曜日のため、公のことはお休み。ついでに母もホテルで休養をとる。姉と私は、前述の女性の案内でブナケン島へ船で行く。ここはダイビングスポットとして有名なところだ。私たちは船の底のガラスから覗くお手軽コースで楽しむ。ドロップオフに集まる南国の魚が本当に美しい。海ではイルカも泳いでいた。命の洗濯をさせてもらった。
夕方、海に沈むマナドの夕日をゆっくり見る。南国の太陽はなぜこうも力強いのだろうか。この旅行をした当時、マナドの海岸線は開発工事の最中だったが、そのざわざわとした工事現場も気にせず、海は大きく泰然としていた。
午前、かの女性のサポートの下、母の生家探しをする。「教会の裏の白い建物」という手がかりとも言えないもので探すのだからかなり難しい。まず、当時から続いている古い教会がなかなか見つからない。昔の建物の写真も持参していたのだが、あまりに古すぎて、誰も分かる方がいない。「なぜおじいさんに聞かないの?」と素直に問い返す方までいる。
そう祖父に聞けたら、本当になぜ、祖父が存命の時に来なかったのだろうと、悔いる。当時の日本人はこの辺を中心に住んでいたという場所に行く。たぶんこのあたりにあったのだろう。母もそれで納得することにした。生家の近くに再び来られただけでもありがたいことである。尽力してくださった前述の女性に感謝。
午後、祖父母も訪れた避暑地トモホン高原に行く。緑が美しい。気温も幾分下がる。暑さがかなり堪えていたのでほっとする。
夜、北スラウェシ州知事官邸に行く。明日の刀の返還式の前に州知事と会見し、いきさつを再び説明する。祖父が偉い方からいただいたということ以外何の情報もないので少し落胆されたようだが、祖父の経歴には興味を示される。また刀の写真を見せると、鞘に施された伝統的な装飾と、刀そのものに刻まれた彫飾りの美しさに満足されたようだ。
ここでもたくさんのマスコミ関係者に取材される。新聞だけでなく、テレビカメラもある。刀は相当歓迎されているようなので安心する。
この日はインドネシアの独立記念日で町のあちこちで大きなイベントがある。私たちも午前中の独立記念日式典に招待される。州庁広場の階段の上の壇上で式典を見る。壇上の一番先頭に州知事がいて、その他偉いと思しき方々がたくさん並んでいる。その一番後ろの席である。
広場の中に、子供たちから始まり、陸、海、空軍の軍人さんまでが行進してくる。インドネシアの州知事というのは軍の権限まで持っているとのことで、式典の途中で、州知事に、国旗にと、敬礼が何度も起こる。ともかく、この式典は、たくさんの人が行進して入ってきて、ポールに国旗を掲揚することが目的であるらしい。
ふと目を上げれば、天井には、独立への道のりが描かれている。この8月17日は日本からの独立記念日である。日本軍との戦いの絵もある。ここに、この高い段の上に、たとえ末席であったとしても、上っていていいのかひどく落ち着かない気持ちになった。
この日の夜、独立記念日の夕食会に再び州庁に招待される。男性も女性も最正装である。100人以上の方が招待されているようだ。その中で、刀の返還式がメイン・イベントとして行われた。
返還の署名をした後、母の手から州知事へ直接刀を手渡す。州知事がすぐさま鞘から刀を抜き高々と振り上げると、歓声が起きた。刀を間近で見た専門家が、200年、300年の歴史がある刀の絵を見せ、それと同じ形のものだというコメントを出すものだから、民族の誇りが戻ってきた、と大盛り上がりになる。果たしてそれほど古いものかどうかは、私たちには疑問なのだが。
そのあとのパーティで、ミス・マナドとミスター・マナドが挨拶に来てくれた。確かに美人さんとイケメンさんだが、この地ではミスターもコンテストで選ばれるのかと驚く。男女平等ではあると妙に納得する。ともかく、私たちはメイン・ゲストらしく、このパーティに来ている目ぼしき方々が母のところに挨拶に来てくださる。母はだんだん受け答えが堂に入ってきている。慣れとはすごいものである。
パーティの空き時間に、昼間、国旗を掲揚するための高校生を指導したという文部省の役人さんと話した。彼は悠長な英語で話しかけてきた。日本にも来たことがあるという。いろいろな楽しい話のあと、彼はぽつりと言った。ここにはお父さんが日本の軍人という日系の人々がいるんだよ。お父さんの方は子供の存在も知らないだろうけどねと、笑って付け加えた。どう返事をすればいいのか分からなかった。
(パーティでの写真①)
(パーティでの写真②)(①②はMr Budi 氏にお送りいただいた)
昨日だけでは足りなかったらしく、朝食会も開いてくださった。と言っても、遅れて昼食会に近くなった。だがもうここまでくれば、インドネシア流の風任せゆったり計画にすっかり馴染んできていた。
北スラウェシ州立博物館の館長さんもおいでくださり、確かに刀は預かる、また、いつでもおいでください、とおっしゃってくださった。州の今回の責任者の方は、家族も同然だから、今度来るときは僕に直接言ってから来てくださいとまで、おっしゃる。やはり空港で飛行機が飛び立つまでの見送り、私たち3人は胸が熱くなった。
この旅のすがすがしさはなんだろう。スラウェシの人たちは心から歓迎してくれた。祖父は占領下での雇われ市長である。まったくわだかまりがなかったわけではないだろう。しかし、それは横において、歓迎してくれたのだ。その寛大さに私たちは抱かれた。
帰国後、日本でインドネシア・スラウェシからの留学生に、なぜ歓待してもらえたのだろうか、過去の歴史についてわだかまりがないのか、と率直に尋ねてみた。わだかまりはないわけではない。しかし、偉い方のご家族がいらっしゃれば、いつでも歓待するのがインドネシア流だという答えだった。
戦後、日本とアジアとの関係では負だけが強調されることが多いが、今回は、祖父がインドネシアにささげた正の熱い思い、絆を少し思い出してくれたのだ。そして、そこにその家族である私たちも加えてもらえたのだ。寛大さを見事に見せてくれた。そういうすがすがしさだ。
またなぜ今、私たちは、インドネシア・スラウェシ島に向かったのか?もし祖父の導きがあったのだとすれば、祖父は何を伝えたかったのだろうか。
祖父が青年から壮年へかけての人生の熱い想いを注いだ地であったことは分かる。しかしそれだけではないだろう。祖父は、第二次世界大戦の戦時下、スラウェシ島マカッサル市の市長を務めた。そして、そのことがその後の祖父の人生を変えてしまったと言っても過言ではない。純粋な熱い思いだけで終えられなかったもの、背負ってしまった何かを託したかったのかもしれない。祖父がマカッサルの市長であったことは、手放しで懐かしめる思い出ではなく、戦時下故の忸怩たる思いもあったのではないか。それを証拠に戦後祖父はあまり多くを語らなかった。
生粋の日本人である祖父とその子孫が、いかにそのことの意味を踏まえ考えていくべきなのか、今回の旅行にはそんなヒントが隠されていた。
祖父が重く背負ったものもある反面、祖父が残した正の記憶も確かにある。スラウェシの人々が寛大に示してくれたように、未来へ進むための足がかりとして過去の正のつながりを大切に育むことがあっても良いのではないだろうか。私たち側から正の記憶を前面に押し出すことは難しいが、インドネシア・スラウェシの人たちが自ら開襟し寛大さを示してくれることを祖父は知っていたのだろう。そういう寛大さが祖父の愛したもののひとつであったことは間違いがないと思う。
今、インドネシアと聞くと、私の中には何かが動く。2004年12月インドネシアを地震や津波が襲った。遠くの無関係の地ではない、長い歳月をかけて築いてきた、熱い血の通った関係を感じる。心が痛み、何をしたらいいのだろう、と思った。
それ以降もインドネシアでの出来事、インドネシアの人々とのかかわりを殊更に大切にするようになった。正の思いを引き継いでいくことは心の絆を強める。祖父は、母に孫に次世代にそのことを伝えたかったのだろう。素晴らしいスラウェシの夕陽を、人々の寛大さを見せ、かの地の魅力を伝えたかったのだ。そしてそれは新たな正のつながりを自ずとつくることを知っていたのだろう。
祖父からの贈り物。すべてを引き受けるスラウェシの寛大な海。人々との温かなつながり。それは歴史の中にも新たな歩みの中にもある。忘れてはならない負の歴史を胸に刻みつつも、私たち家族が今後何をするのか、祖父はあの世で見守っていることだろう。
旅行を契機に、こまごまとしたことを綴ったつたない文章ではあるが、これを読んで興味を持たれた方がもしいらしたら、そしてスラウェシに足を運ばれる方がいらしたら、どうぞ話の種に私たちの旅の足跡もお訪ねください。そしてそこからスラウェシ・ネットワークが新たな広がりを見せるなら願ってもないことだ。
マカッサル市立博物館には、祖父の写真とプロフィールが飾られている。残念ながら展示されているのは祖父の最晩年の顔写真なので、あまり見目麗しくはない。古いお金が展示されている部屋には、あの時偶然持っていた古いインドネシアのお金を母が寄贈したので、それも展示されているはずだ。
マナドの北スラウェシ州立博物館には、例の刀がある。本物はヒヤッという霊気すら感じさせるものだ。鑑定をお願いした方からは「この錆は実際に使ったことがある感じですねえ。」というコメントもあった。いつ、どこで、使われたのか何も分からぬが、刀も無事に祖国へ帰れてほっとしていることだろう。加えて、祖父のメナド時代の写真(コピー)も展示に加えられている。
最後に謝辞を述べたい。 ここで名前を挙げさせていただいた、渡邊氏、脇田氏、松井氏、永江氏はこの旅行のプロデューサーとも言える方々で、感謝の言葉が見つからないほどお世話になりました。加えて、名前を敢えて差し控えた方々、紙幅の関係で言及できなかった方々、すべての方々に、心からの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
(2007年9月佳日脱稿)
<山崎 軍太(やまざき ぐんた)略歴>
○1942年より45年の日本民政時代のマカッサル市特別市長、海軍経済顧問、 |
南洋貿易(合併後、南洋興発)駐在取締役兼マカッサル水産(株)社長 |
1894年〈明治27年〉11月6日、長崎県西彼杵郡〈にしそのぎぐん〉で出生 |
1914年(大正3年) |
福岡県伝習館中学卒 |
1917年(大正6年) |
長崎高商卒 |
南洋貿易(株)入社 |
メナド支店赴任、支店長。 |
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幅広い商社活動の傍ら日本人会会長も務める。 |
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1927年(昭和2年)頃、いったん日本へ帰国、外国課長、大阪支店長、本店営業部長。 |
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1934年(昭和9年) 再度、南洋群島総括支店長としてパラオ島赴任。 |
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1941年(昭和16年4月) 駐在取締役。 |
1941年(昭和16年) |
大戦勃発、現職から海軍経済顧問として徴用。 |
メナド、マカッサル攻略戦に同行。 |
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1942年(昭和17年) |
マカッサル市特別市長。 |
戦後 |
戦犯容疑で巣鴨拘置所収容、マカッサル刑務所に収監。 |
不起訴放免。 |
1984年(昭和59年)9月2日、静岡県で他界。享年89歳 |
人物像
性格は明朗、豪放磊落。
短躯ながら剣道部で鍛え、張りのある声の硬骨漢。
マレー語に堪能。敢闘精神を持ち、南方を愛した事業家。
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