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ロッテルダム要塞

Benteng Ujung Pandang (Fort Rotterdam)

脇田 清之 Wakita K.
追記:Jan 15. 2023

Fort Rotterdam (Benteng Ujung Pandang) adalah sumber daya pariwisata kelas utama di Makassar. Benteng itu dibangun oleh Kerajaan Goa di tahun 1545. Dinding tembok berbentuk seperti kura-kura berbentuk segi empat dan sekeliling kastil ada kanal untuk mencegah musuh dari invasi.
Sayangnya, dalam kondisi sekarang, wisatawan tidak bisa melihat monumen dinding tembok bersejarah "Benteng Ujung Pandang" karena tiga sisi Benteng ditutupi dengan bangunan bangunan umum dan menara, tanda iklan dll. Menurut Harian Fajar 27 July 2001, pakar pakar di Makassar mengusulkan mencipta taman sekitar kastil seperti kastil di Eropa dan Jepang.


 Foto by Tamio Ito, 2018


出典:Pesona Kota Makassar 2022, Keliling kota metropolitan https://www.youtube.com/watch?v=mQq-Cf_fEGs

ベンテンとはインドネシア語で要塞のことです。英文のガイドブックにはFort Rotterdam (ロッテルダム要塞)として紹介されています。残念ながら要塞の海側を除く3面は一般の建築物が城壁際一杯に建てられていて一般の人は城壁を見ることが出来ない。かっては海に面していたが、現在は流砂で埋まり海岸から50m位内陸に入っていて城の入り口の前を幹線道路が走っている。由緒有るロッテルダム要塞も今は一般の建築物、電波塔、広告看板の中に埋没していて余程注意していないと見過ごしてしまう。マカッサルの有識者の間で、欧州や日本の城のように周囲を公園化すべきとの声が上がっています。そのためには周囲の政府関係、その他の建築物を移転させる必要があります。周囲の建築物を移転させ、由緒有る要塞の城壁が見られるようにならないと折角の観光資源が生きてこない。一日も早くこの計画が実現することが期待される。

 

ベンテン・ウジュン・パンダンは1545年にゴアの国王によって建造されました。かっては海に面した要塞都市でした。四辺形の高い石垣の隅に突起物があり亀のような形をしています。また城壁の周囲には外敵の侵入を阻むための運河(堀)があります。(写真左 マカッサル市博物館所蔵)

 かってゴア王国は17の要塞を持っていましたがベンテン・ウジュン・パンダンもその一つです。このほかマカッサルの南方の郊外にソンバ・オプ要塞(Benteng Somba Opu)があり、復元工事が行われている。

マカッサル市博物館 (Museum Kota Makassar, Jl. Balaikota No.11A) に1885年前後に撮影されたとされる要塞の写真がある。写真を見ると当時の要塞の状態をうかがい知ることが出来る。


 要塞の遠景(1885年ごろ)


 要塞の後方に海がせまっているように見える


  要塞の入口


  要塞の側面


  1947年頃の外観


   1948年頃のロッテルダム城近くの海岸風景、太平洋戦争時の空爆で壊滅状態となっている。



   2005年頃の城内風景

ベンテン・ウジュン・パンダンは1667年オランダが攻め込んだときに破壊されましたが、その後オランダ植民地時代に再建され、Fort Rotterdam と名付けられました。このとき要塞は政治・貿易のセンターになっていました。また日本軍が侵攻してきた時は農業や語学学校になりました。今は博物館 (La Galigo Museum)、歴史学の研究所などになっています。博物館 (La Galigo Museum) には南スラウェシ州のブギス人、マカッサル人、トラジャ人など各民族の伝統的な文化遺産が展示されています。

 現地新聞 FAJAR紙 (2001-7-27 ) によればインドネシア政府の7都市の再生計画プロジェクトの一つとして、マカッサルのロッテルダム要塞は近くにある"Societet de Harmonie" の建物と共に再生工事に着手することになり、第1段階として予算(19億ルピア)がついた。第1段階は2001 年の 12 月始めに完了すると報道されている。

追記: 渡邉奉勝氏(在インド)より下記情報を頂きました (2005-11-24)


一部追記しました。(2021年6月9日)

ロッテルダム要塞は日本統治時代にはマカッサル研究所として利用されていました。マ研は,南方占領地域の海軍軍政地区の統治・開発に必要な基本的事項 を調査研究することを目的とする機関で、昭和18年5月に創設されました。戦況悪化に 伴い、昭和20年5月に解散、職員は民政部に転出しました。

研究所長は薗部一郎司政長官、総務部長桐野義隆海軍大佐、のほか地質鉱物部、農林水産部、熱帯衛生部、環境科学部、慣行調査部があり、その職員は約500名を擁していた とされています。なお熱帯衛生部の実験所は明石通りにあり、また、付属病院は海岸通りのマカッサル病院(ステラマリス病院)でした。同病院の院長は、東陽一元 東京厚生年金病院長でした。(東龍太郎東京都知事の兄弟、龍太郎氏もマカッサルにあった「セレベス民生府」(海軍占領地域全般を統括する機関)に おられました。民政府はその後スラバヤに移転しました。)

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