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スラウエシ島の歴史と民族(1)

- 南スラウエシ ブギス・マカッサル族 -

庵 浪人(イオリ・ナミオ)

興味あふれるスラウエシ島



そこはどんなところなのでしょう

 広いインドネシア列島のほぼ中央に奇妙な“K”の字の形で横たわるスラウエシ(旧セレベス)は、多様性での調和を国是とするインドネシア共和国のなかでも地質学はもとより生物、民族学の分野で最も変化に富み世界でも特異な注目を集める島です。

 その昔創世のとき神が人間に‘それぞれの岬の方向に散りそれぞれの国を造れ’と命じ今の世になったとゆう昔噺(注1)があるように、総面積189,216平方km、日本本州の八割の広さのスラウエシの活発な地殻変動がこのような特徴ある島を形造っています。

 これは安定しているお隣のカリマンタン大島とは極端な異なりがあります。赤道が島の北を横切り、ランテマリオ(3455 m)、ラテイモジョンなど3千米級四峰をはじめほとんどが活火山を含む山岳地帯で、東のトミニ湾は過去の大噴火で出来た湾ですが、1983年湾内の小島ウナウナが爆発し消滅してしまったほどです。自然は複雑多様で、深いトウテイ湖 広いポソ湖 雨季に大きく面積を変える浅いテンペ リンボト湖、年間雨量もランテパオで4000 mm 山を越えたパルーでは500 mmと大きな差があり、火山地帯には各所に温泉が吹き出す一方、広大な熱帯多雨林、アルンアルン乾燥草原、石灰岩カルスト地帯、珊瑚礁、マングロープスワンプとまるで地質学の博物館の様相です。

ウオーレス ライン

 カリマンタンと隣り合う狭く深いマカッサル海峡がアジアとオーストロネシアとの生物分岐境界線ウオーレス(ワラッカ)ライン(注2)で、A.ウオーレス卿が近代自然科学の門戸を開いたダーウインの種の起源(1859刊行)に多くの示唆を与えたことで有名です。 この海峡の東にアジアを代表する虎や象などは生息せず有袋類の世界で、そう言われればマカクー猿の顔も違って見え、ウオレシアの生物相はこの島だけの始祖牛アノアやバビルサ(豚鹿)、世界最小猿タルシウス、有袋類クスクス、巨大卵を地熱で孵化させるマレオなど、昆虫や蝶の新種は多く生物学者垂涎の地です。

 1998年夏、それまでコモロ諸島沖でしか発見されなかった一億年昔の生きた化石魚シーラカンスが、なんと此処の魚市場で売られていてセンセーションになりました。まさにスラウエシこそアジアの終点で、この地から新しい異なる世界が展開するとも言えるでしょう。

 (注)

  1.  最も古いルウ王国-現在のパロポ-の天孫降臨神話叙事詩ラ・ガリゴはロンタル椰子にブギス語で刻まれた膨大な写本ロンタラで、13世紀以前の最大級の文学資料といわれる。

  2.  マカッサル海峡からロンボック海峡を貫くウオーレス線とハルマヘラ東側からタニンバル諸島に引かれるウエーバー線と合わせワラッカ線とも称し、それに挟まれたスラウエシには固有の生物相が確認される。インドネシアは中国インドに並ぶ蝶の宝庫で約1500種で巨大なトリバネアゲハは貴種である。

人々の暮らし

 そこにはどんな人々が暮らすのでしょう

 半島間の交流は峻険な山々で隔てられ海路のほか道はなく、先ごろ貫通した縦貫道路も地殻変動でしばしば崩落し住民は孤立して暮らしてきました。

 北の700 kmに及ぶ世界最長の岬の先端のミナハサ族がプロテスタント信仰を、南のブギス・マカッサル族は有数のイスラム国として習慣も性格も大きく異なり、とても同じ島に住むとは思えない相違があり、山間部には特異な祖先儀礼で知られたプロトマレイ族トラジャをはじめ中央山地ベソア、バダは未開発地帯で磁石も役にたたないとか、パリンドと呼ばれる巨大な石造人物遺構が林立していても未調査です。水上民バジャウ、森の人トアラ族などまだ原始が密かに息ずいているといわれ話す言葉は三十言語以上、勿論風俗習慣は固有で多彩です。

スラウエシには約一千万人が住み行政区は北、中央、南東、南の四州でそれぞれマナド、パル、ケンダリ、ウジュンパンダンが州都で、有数のニッケル鉱、貴重樹黒檀紫檀やロタン産地として政治的に遅れた開発に拍車がかかろうとしていますが人口分布は片寄り、北のミナハサと南のウジュンパンダンに集中してその他の地域の 密度はまばらといっていいでしょう。

 南スラウエシの州都が共和国第七位の大都市ウジュンパンダンで、東インドネシアへのキーシテイとして経済交通の要となっています。スラウエシ最大の街で共和国でも重要なウジュンパンダンから、それぞれの土地を紹介しましょう。

 これを読めばスラウエシがいかに多様性に富む島かがお分かり戴けると思います。

 

そよ風の街 ウジュンパンダン(1999年10月マカッサルの名称に復帰)



全国的に知られた名曲アンギン・マミリ(そよ風)、幾多の歴史を秘めたカユアサム大木並木にそよ風が渉り、暮れなずむ街並みにイスラムマグリブの祈りが流れ、ロサリ海岸を茜色に染める落日の息を呑むような美しさは、定めしこの街が誇る風情でしょう。1971年に旧名マカッサルから現在の市名ウジュンパンダン(パンダンの葉茂る岬)になりましたが、市民の多くは古くから南海の富を世界に齎した港として知られたマカッサルをこよなく愛しています。
 スラウエシでは最も大きい平野がある穀倉地帯南スラウエシ州は人口も稠密で、マカッサル、ブギス族の故郷です。街は空路海運交通のターミナルとし発展を続け現在80万人以上が住んでいますが、やはり昔からの海洋航海民族であり、共和国の海岸地域から遠くマレー半島に至る内海航路はマカッサル・ブギス族が占めて各地の港ではお国言葉が幅を利かせています。

 マカッサル王がバンダ、アラフラ海の富を握る、この事がその後の西欧列強の過酷な干渉を受ける結果になったのです。現在は昔程の繁栄がないのは産物(なまこ、真珠、鼈甲など海産物)需要が変化したことや、中国から南東への南海航路と言われる海の道が衰退したのが原因ですが、飛び魚の卵やてんぐさが日本市場で爆発的に売れてトビタマ御殿が出来たり、日本向けマンモスタンカーの新航 路が開設されれば、再び往時の繁栄を謳歌する都市になることでしょう。東方インドネシアの発展にはこの街は欠かせない存在に変わりはありません。

それではウジュンパンダンはどのような歴史を生き、人々はどんな暮らしなのでしょう。

南スラウェシ ブギス・マカッサル族



 この地方は共和国の中でもイスラム教信仰が厚く、西スマトラ・ミナンカバウの導師の布教によってマカッサル・ゴア王が入信(1605年)して各地にイスラム王国ブギス・ボネ、タロ、ルウが割拠して覇権争いに終始していました。マンガッサラ・ゴアの16代覇王スルタンハサヌッデイン(1631-70)は、オランダをして‘東に雄鶏あり’と怖れられたのも、バンダからアラフラ海の海産物の交易でインド、アラブ、中国商人も含め十万の人口の国際商業都市を死守する為だったのです。「海に境界線は引けない」とゆう名言も、1669年オランダのスペールマン提督率いる砲火とボネ王の姦計ブンガヤ条約で、ゴア王国ソンバ・オプは挟撃され街は徹底的に破壊されフォートロッテルダムの醜い名前になってしまいます。(注3)

海洋航海民の令名は広く列島に知れ渡っていてピニシ(注4) ランボ パジェロなど帆船造船技術も突出していますが、古老は「陸に住めない日々があったからさ」と呟くほど、潮の香渉る風情とは裏腹な、血塗られた過去が秘められたマカッサルなのです。

 王国同士の戦いは絶えず、男は子を成せば勇んで出陣したから「マカッサル人は戦う以外寝ている」「バタック人は勝敗を考えてから、俺らは死ぬ為に」。極端な男性社会で、名と恥の為には死の代償が待つシリッ(注5)の定めは他郷人には理解出来ない物凄さです。

 オランダはこの地の重要性からロコモビル(軽便鉄道)を敷設したり、道路を整備しましたが、残っているのは大木並木と簒奪拠点ベンテン(保塁)だけで今は博物館になっています。

 太平洋戦争時代には日本海軍基地になり僅かの期間軍政がひかれました。独立潰しの植民地軍ウエステルリング大佐は1949年暮れに共和国独立派弾圧でこの地に逆上陸し半年たらずで六万人を虐殺しました。逮捕された時「短期間でそんなには殺せない、せいぜい四万だ」とうそぶいて一層オランダ憎悪をつのらせたといいます。

 独立後もダルルイスラムの流れをくむカハル・ムザッカルの反乱(注6)で治安の回復は60年になってからで、この鎮圧司令官がスハルトだったこともあって後の開発が遅れましたが、元国軍総司令官アンデ・ユスフ将軍はブギス人でしたし、新大統領ブハルデイン・ハビビはウジュンパンダンから100 km 北の美しい港町パレパレの生まれです。

 独自の文字を持ち、強烈な民族的個性がある彼等にはジャワの人達も一目おく程際立っています。マカッサル族にはカラエン ダエン、ブギス族はアンデ、ルウにはオプの尊称が与えられて過去の身分は隠然たる影響力を持っています。その歴史の証人ともいえる支那交易でのチャイナ(陶器)が数多く発掘され好事家を喜ばせます。

 女性達はイスラムの定めから控えめで、男女の決まりは厳しく規制されて秩序がありますが、彼女たちが着る民族衣装は南アジアで一般的なサロンの発祥の地といわれ、ここではバジュ・ボドと呼ばれます。高原地方のソッペン、シンカンの絹で織られるチェック模様はステイタスで、蝉の羽にみまがう薄く長いブラウスをルーズに羽織り、腰布は結ばず必ず左手で托していなければなりませんから 時々ウエストラインが見え隠れして男衆の視線を止めるほどに優雅でセクシイです。

 過去の厳しい歴史、海路遠く帆走る生業、内に秘めた激情は音曲の隅々に滲み出ていて、鋭角的な金属弦で奏でられるカチャピ(マンドリン)の切々たる響き、感嘆詞E,AULEで心情を吐露するランガム(歌謡)はその哀愁と歌唱力で共和国随一と感じます。

 私たちは街から20 km 北のマロスにあるハサヌッデイン空港に降り立つのですが、東に向かう国営汽船PLNIは必ずここに寄港します。街の周辺には避暑地マリノやビリビリが、バンテムルン滝は数多くの蝶の宝庫ですし、旧港パオテレにはインドネシア周辺から多数の内航船を見ることが出来ます。沖にはラエラエ、カヤンガン、バラン、チャデイ、ランポ、クデインガラン珊瑚礁が散在し美しい貝の収集家やダイバーの夢の竜宮城の景観です。

 南に行けばタカラア、バンタエン、ジェネポント、ビラと生っ粋マカサルニーズの故郷で、帆船ピニシ造船も見ることが出来るでしょう。山には乗馬をよくする少数コンジョ族、海を隔ててサラヤール族が住みます。最南端を回りボネ湾を見ればそこはシンジャイ、ブギス族の領地でワタンボネ(ボネボネ)、シンカンへと続きます。ワタンソッペンからウジュンラムルウへ高原の冷気を縫って絹を織る機の音が聞こえるでしょう。

 空港から北にとれば海老養殖池を左に見ながらパンカジェネ経由パレパレまで一直線、ここで右へトラジャの国への登りに入ります。左手深く行けば山へマジェネ、ママサまでで、その先は未知の森があるだけです。

 

 (注)

  1.  ゴア王国の旧都スンバ・オプは市の中心カレボシ広場から8キロ南、ジェネベラン河口にあるが3つのモスクに囲まれて数個の石碑と石垣が残るだけで往時を偲ぶよすがはない。

  2.  ピニシは二本マストのガフリグ・スクーナ帆船で全長30m、100年以上、インドネシア内海航路を独占してきた。スラウエシ特産のパラピ、モリバウなど腐り難く弾力ある木材と古くからオーストラリア・アーネムランドまで海産物運搬の航海技術が結晶したものだろう。造船は通常とは異なり、先に外板を組み後から湾曲した自然木のフレームを挿入してゆく。舵や装帆に卓越した知恵が随所にみられる。半島南部のジェネポント、ビラの海浜で造られるが、完全な姿はピニシヌサンタラ(祖国号)と命名されて10000海里を航海してヴァンクーバー・カナダ万国博に参加したのが最後(1986年)で、現在は後部マストを外してエンジンを載せる姿に変わった。

    ランボは小型で西洋風セールを持ち、パジェロはいまだに古代からの四角帆を変えず飛び魚漁に活躍する。ピニシ型装帆はアジアにはなく、18世紀頃西洋から学びとったものだろう。

  3.  アダット(慣習法)はイスラム律に強く支配されて種族の掟となる。家族の尊厳を最重視するから、自身への侮辱はもとより通姦や婚前交渉には死の代償がある。時代が変わっても伝統は強く残り、男女交際には一般論は通用しない。仇打ちが就成すると加害者は故郷での裁判を求める。シリッが認められれば罪は軽くなるから。/p>

  4.  ダルルイスラムの流れをくむカハルムザッカルが1950年中央政府に敵対した内乱で、抗オランダゲリラが連邦共和国軍に統合される時、部下の処遇とかジャワ人支配に抵抗し南スラウエシの治安は長く混乱した。名誉、誇りを傷つけられると徹底して抵抗する種族性を表している。首謀者は1965年銃殺された。

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