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ミナハサ高地 Minahasa Highlands(2)
― ランゴアン飛行場 Lapangan Langoan

長崎 節夫 Nagasaki Setsuo

はじめに(飛行場発見)

先日、久しぶりにランゴアンの日本海軍落下傘部隊(堀内部隊)降下現場まで行ってみた。ランゴアン市街地の東端からカカス集落(西カカス)に向かって、水田地帯の中を細い道路が一直線に伸びている。直線道路の突き当りがカカス集落で、集落の向こう側にトンダノ湖がある。道路は片側1車線の細い道であるが、これでもランゴアンとカカスを結ぶ幹線道路であり、「カカス街道(ジャランカカス)」とよばれている。前回来たときは未舗装の部分が多く、でこぼこ道の感じであったが、久しぶりに来たら立派に舗装されていた。

 


カカス街道(Jalan Kakas)

昔、このカカス街道を斜めに交差するするかたちでオランダ軍の飛行場があったらしい。今では飛行場の痕跡もなく一面に水田が広がっているだけである。。日本から来られた慰霊参拝のみなさんに同行して何回かこの地を訪れたが、いつも見えるのは果てしなく広がる田園風景だけで、「昔は我々の目の前に飛行場があった」と言われてもなかなか実感がわかなかった。最近になってGoogle Earth で遊ぶ楽しみをおぼえて、ある日思いついて問題の場所を上空から覗いてみた。するとあら不思議! 飛行場があったと聞いている場所に、本当に滑走路の跡らしき直線の輪郭がはっきり現れているではないか。現在この辺りは水田が広がって、カカス街道から眺めるだけではこの輪郭は見えない。思うに飛行場跡を農地化するにあたっては、滑走路など飛行場施設に沿って区割り線を引いたのであろう。上空から鳥の目になって見下ろすと田んぼの境界線がはっきり見える、つまり、飛行場の輪郭が見えるということであろう。地上に立って稲穂とほとんど同じ目線で見ると境界線は稲穂に覆われて判別できない。上空からの写真を眺めてようやく「幻の飛行場」を見つけたというわけである。

1.ランゴアン飛行場攻略戦

いまから80年前(昭和17年1月11日)、このランゴアン飛行場に日本海軍の空挺部隊(落下傘部隊)が来襲した。その日は早朝からメナド西海岸とケマ海岸に海軍陸戦隊が上陸作戦を実施していた。戦史に残る「メナド攻略戦」である。両海岸の状況はランゴアン飛行場のオランダ軍守備隊にも電話連絡などで逐次届いていたと思われる。オランダ軍守備隊にとって、メナド海岸やケマ海岸への日本軍の上陸は、最近の日本軍の動きから見て、ある程度は想定されたことであった。守備隊は緊張のなかにも落ち着きを保っていた。日本軍が上陸した場所(海岸)からここ、ミナハサ高地にあるランゴアン飛行場まで距離的に離れているし、上陸地点からミナハサ高地に至る道はいずれもジャングルの中を曲がりくねる険しい山道(標高差は700メートル)であることから、上陸軍がいきなりここに現れることはないということで、気分的に少し余裕があったかも知れない。味方兵力が少ないのが心細いが、いざとなれば周りのジャングルに逃げ込めばよい。周辺の地理についてはある程度研究もしているし土地勘もあるので逃げ道の算段までしていたかも知れない。敵が本当にここ(飛行場)に現れるかどうかもまだわからないし「様子を見ようではないか」、というところであったかも知れない。

日米開戦以来、台湾で訓練・待機中の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(横一特、通称堀内落下傘部隊)は10日ほど前にミンダナオ島ダバオに進出して訓練を続けていた。1月11日いよいよランゴアン飛行場攻略の本番を迎え、夜明けとともに発進を開始した。この作戦のために九六式陸上輸送機(九六式陸上攻撃機を改装)45機と護衛の戦闘機(ゼロ戦)30余機が用意されていた。一個中隊9機編成で5個中隊、計45機の輸送機隊と護衛の戦闘機隊(ゼロ戦)はダバオを飛び立ったあと、サンギヘ諸島沿いに南下した。ビトゥン上空に達し、クラバット山(メナド富士・標高2000メートル)を右手に見て針路を右に転じる。進路正面にトンダノ湖が見え、その向こうに攻撃目標の飛行場が見えた。ダバオ発進後、途中までは雲量が多く作戦遂行も心配されたが、天の恵みかミナハサ半島に近ずくにつれて天候は回復し、視界はよくなっていた。輸送機搭乗員たちの眼前にミナハサ高地の鮮やかな光景が広がっていたであろうが、降下開始直前の緊張で、絶景に見とれる余裕などなかったかもしれない。

 

ランゴアン飛行場ではオランダ軍守備隊の当直兵士が、クラバット山の右手(ビトゥンの方向)に黒い鳥の群れが現れたのを見つけて叫んだ。もちろん鳥の群れではない。まだ敵味方の識別はできないが迷う余地はなかった。守備隊は一瞬爆撃を予測したが、飛行場に接近した輸送機から飛び出したのは爆弾ではなく落下傘であった。落下傘兵を降して守備隊上空を通過する輸送機の胴体に日の丸が描かれている。

トーチカに飛び込んだ守備隊は降下中の落下傘や着地した兵士めがけて機関銃射撃を開始。戦闘開始直後は守備軍が圧倒的に優勢であった。降下着地した兵士たちは敵機銃の集中射撃に晒され身動きもできない。命中弾を受けて戦死・負傷する兵士が続出した。くぼ地も遮蔽物も何もない地面に伏せたまま、頭を上げることすらできない。落下傘兵の手元には各自、小銃1丁、拳銃1丁とポケットに手榴弾数個のみ。機関銃、弾丸などの主要武器は「武器梱包」として兵士の降下と同時に別落下傘で投下されているが、敵の射撃でその梱包まで近づくことが難しい。それでも、運よく武器梱包に取りついた兵士がいた。また、輸送機から飛び降りたまま落下傘が開かずに、文字通り人間爆弾となって地面に激突・即死した兵士もいた。

激戦の中、時間の経過につれて戦いの潮目が変わってきた。落下傘兵は続々と舞い降りてくる。落下傘がヤシの葉にひっかかって宙ずりになった兵士や、牛の背中に着地(着牛?)した兵士もいた。驚いて飛び跳ねた牛は守備軍の機銃弾を受けてその場に倒れ、兵士は倒れた牛を弾除け代わりにして敵の猛射を凌いだ。トーチカの背後など敵機銃の死角に着地した兵士もいた。投下された武器梱包のすぐそばに着地する兵士もいた。武器梱包が敵兵の視線をさえぎってくれる。着地する兵士が増えるにつれ、守備隊側は対応がむつかしくなってきた。目標(敵兵)が増えすぎて手が回らなくなったのだ。あるトーチカでは、ついにトーチカ内に手榴弾を投げ込まれてほとんど全滅。かろうじて生き残った者も虫の息状態であった。コンクリートで堅固に造られたトーチカは、外部からの銃撃にはめっぽう頼りになるが、逆にトーチカ内部の爆発では威力が倍加し、手榴弾一発でトーチカ内部全滅という事態が起こり得る。

乱戦の中に、カカス街道を集落に向けて遁走するオランダ軍兵士も目撃された。兵士が逃げたあとのトーチカに踏み込んでみると、足を鎖でつながれたインドネシア人兵士がいた。「我々が逃げてもお前はここで最後まで戦え」ということであろうか。降下開始からほぼ1時間経過、11時過ぎにランゴワン飛行場の真昼の決闘はほぼ決着がついた。引き続き近辺集落や山中に逃げ込んだ敵兵の捜索を行った。その際、先ほどトーチカで拘束したインドネシア人兵士を案内に立てた。彼は期待に応え、捜索隊をオランダ軍のクラブハウスらしき家屋まで案内した。

この戦闘による堀内部隊の戦死は32名、戦傷も32名となっている。ランゴアンの実際の戦闘での戦死者は20名である。実は当日、落下傘部隊(輸送機)がビトゥン上空に近づいた際、付近を警戒中の海軍機(水上機母艦「瑞穂)所属の下駄ばきゼロ戦)の誤射によって輸送機1機が撃墜され、輸送機搭乗員5名と降下隊員12名が殉職したのであった。上記の戦死者数32名は殉職した降下隊員12名を含んでいるが、輸送機の搭乗員5名は含まれていない。輸送機搭乗員は編成上別部隊(陸戦隊ではなく00航空隊)であるので別集計になるということだろうか。この日ダバオ発進時の落下傘部隊編成は、ウイキペディアによると408名となっている。迎え撃ったオランダ軍守備隊兵力数はよくわからない。トーチカ7基に配置された兵士だけなら200ないし300名というところであろうか。戦車はなくて装甲車が2台あったらしい。そして不思議なことに、飛行場には1機の飛行機もいなかった。遠くジャワ島の基地にでも隠していたのだろうか。

2.戦いすんで

日本史上初の空挺作戦は多くの犠牲を出しながらも、敵飛行場の奪取という戦果をあげた。試合開始直後1回表に得点をあげたようなものである。しかし、この戦果の日本国民むけ発表は「機密保持」を理由にして約1か月待たされた。2月14日、予定を早めて実施された帝国陸軍のパレンバン降下作戦(スマトラ島)の成功を待って陸・海軍空挺部隊の戦果が発表され、日本中が湧きたった。蘭印での陸・海軍落下傘部隊の活躍は新聞ラジオで華々しく報じられ日本中を熱狂させた。軍歌で歌われ、映画にもなった。陸、海軍を問わず、落下傘部隊は一躍大日本帝国の花形軍種に祭り上げられた。しかし、堀内部隊長は、落下傘部隊に対するマスコミをはじめとする日本国民の浮かれ気味の賞賛を苦々しく見ていた。彼の脳裏には、約1年前の部隊編成から始まった苦労の数々、つい先日の戦闘で散った部下たちの姿が強烈に残っている。尊い犠牲と引き換えに得た勝利を鐘や太鼓で喜ぶような心境にはとてもなれなかった。堀内部隊長は内地に帰還した際、新聞社の取材に応じて、マスコミの報道姿勢や世の中の風潮にやんわりとであるがクギをさしている。「このたびの勝利は決して楽勝というものではない。幾多の尊い兵士の血をあがなって辛うじて手にいれた勝利であることをどうか忘れないでください」。戦いは始まったばかりだ。祝杯をあげるより先にやるべきこと考えるべきことがいっぱいあるだろう。

似たような話は真珠湾奇襲の直後にもあったようだ。開戦劈頭の大戦果に、山本五十六司令長官の郷里長岡では住民が万歳を叫んで祝賀行列をおこなった。その様子を伝え聞いた山本は「そのうちにこの連中が俺の家を焼き討ちにするだろう」と語ったらしい。

1月11日に引き続き、12日は周辺集落や山地に逃げ込んだ残敵の掃討が行われた。それもかたづいて、堀内部隊の任務はミナハサ高地一帯の警備と占領地行政に移った。堀内部隊の占領地行政については手元に資料を持ち合わせていないので端折るが、占領から約3か月後に部隊が次の任地(バリ島という説あり)に向かう際の逸話を付け加えておきたい。

落下傘部隊のランゴアン降下から3か月ほどたった昭和19年3月のある日、部隊は次の任地へ向かうことになった。兵士たちは部隊兵舎前でトラックに分乗し、メナドの波止場に向かうことになった。兵士たちを見送るため飛行場近辺の老若男女大勢が集まった。堀内部隊長の手を握って涙を流すお年寄りがいた。トラックの荷台にとりすがって泣いている若い女性もいた。去り行く兵士、残る現地住民、出発までの短い時間、そこかしこで別れの愁嘆場が繰り広げられた。部隊はこのあとメナドまでトラックで移動し、輸送船(駆逐艦?)で出発するのであるが、いよいよ出発という日、驚くことにランゴアンの駐屯地周辺のランゴアンやカカスの住民が波止場に集まっていた。波止場で見送るために片道40キロ余の道を徒歩で降りてきたのであった。堀内部隊による占領地政治がどのようなものであったか、この逸話からでも想像できるであろう。

3.時代背景

昭和17年1月の日本海軍によるランゴアン飛行場攻略作戦は、当然のことだがその作戦だけが単独でいきなり考え出されたものではない。この作戦は、ほぼ同時に開始されたメナド西海岸上陸作戦、ケマ海岸上陸作戦、さらにセレベス島に隣接する(ボルネオ島東岸の)タラカン島攻略作戦と連動している。作戦の大目標は「蘭領東印度の石油資源の確保」である。米・英と戦うにあたって、特に石油資源の確保は絶対条件であり、日本はその確保先をボルネオ島(タラカン、バリックパパン)やスマトラ島(パレンバン)など蘭印の油田地帯に求めた。ハワイ真珠湾の奇襲作戦、フィリピン攻略戦、シンガポール攻略、すべては「蘭印の石油」にたどり着くための作戦であった。

 

このような日本側の動きや意図についてはオランダ側も察知していた。昭和12年の日支事変勃発でオランダの対日警戒は黄色信号が灯り、昭和15年の日独伊三国協定締結、海軍の南部仏印進駐で完全な赤信号にかわった。

日本の戦略目標が蘭印の資源にあることは明白であった。当時、ジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)はじめ蘭印各地には数多くの日本企業が進出していた。北セレベス地方(ミナハサ地方)にも商社、農林・水産業、行商をふくむ小売リ・卸売り業、写真屋、自転車修理、歯医者など、多種多様の業者が進出していた。

大正4年(1915)ヨーロッパは第一次世界大戦の最中であったが、メナドではこの年に「メナド日本人会」が設立(会員186名)されており、22年後の昭和12年(1937)に在メナド日本領事館を開設している。北セレベス在留の日本人・日本企業はもちろん蘭印政府の管理下にあるわけであるが、支那事変あたりから日系企業に対する蘭印政府の対応が厳しくなって、日本政府もその対策に苦慮していた。さらに昭和15年の日独伊三国同盟の締結、16年の南部仏印進駐と事態が進むと、蘭印政府の対日警戒レベルは一気にあがり、日本企業の新規事業許可、蘭印在留資格の取得なども認められなくなった。蘭印の島々は日本人・日本政府にとって経済的には希望の土地で、当初はオランダ側も未開地の開発・整備という意味で日本に頼るところがあり、協力関係は順調に進むかにみえた。しかし、世界というのは日本とオランダ2国の都合だけでは回らない。米英など欧米諸国や中国もからんだ複雑なしがらみが、結局は日蘭の運命も決定したということであろう。

ミナハサ半島の先端近くに「ビトゥン」という名の港町がある。もともとは人家もまばらな寒村であったが、日本人漁民がカツオ釣漁業基地としての立地のよさに目を付け、大正時代末期から昭和初期にかけて入漁する日本人漁民が徐々に増えてきた。特に第一次大戦後はミクロネシアの旧ドイツ領の島々が日本の委任統治となったことも影響して、北セレベス(ビトゥン)に進出するカツオ釣漁民の数がふえた。北セレベスはもちろん「蘭印(オランダ領東印度)」とよばれるオランダ植民地の一部であるが、日本の漁民はオランダ植民地であるセレベス島まで進出していたことになる。

ビトゥンには日本式の本格的な鰹節工場もできた。ミナハサ人も男子はカツオ釣り漁船に乗組み、女子は鰹節工場で働き、日米開戦前にはセレベス島ミナハサ半島の先端にインドネシア人(ミナハサ人・サンギル人)と日本人混成の活気のある港町が生まれていた。

大岩富(故人・現地名TOMI SEMBENG)は昭和6年(1931)日本人の父、インドネシア人の母との間に生まれた。富のあと2男1女が続いて富は4人兄弟の長子であった。昭和16年、10歳になった富は父親に伴われて日本に渡ることになった。父親の鰹節工場の職員である青山さんが同行した。日本渡航の理由は父親から「日本で日本の教育を受けさせる」と聞かされていた。9月のある日、メナドから大型の貨客船に乗り、パラオを経由して神戸に到着、汽車で東京に向かった。富が乗ってきた船が日米開戦前にメナドから出発した最後の船であったと、あとで知らされた。大岩親子のほかにもメナド在住の日本人が何組も乗船していた。まだ10歳の富を母親から離して日本に移したのも、時局の切迫に不安を感じた父親が「長男だけでも」と緊急避難させたのだろう。東京に着いた富は、世田谷の青山さん宅にあずけられ、父と青山さんはビトゥンに戻った。富の東京移住から3か月後に12月8日を迎えた。

メナド、ビトゥンほか北セレベス地方(ミナハサ地方)在住者のうち、12月8日の日米開戦当日まで現地に残っていた日本人は蘭印官憲によってその日のうちに拘束された(セレベス島以外でも同様である)。拘束された人々は船でジャワ島に運ばれ、他の地方からの抑留者と合流して、ジャワ島南岸にあるチラチャップ港からオーストラリア南岸のアデレードまで運ばれた。チラチャップ(ジャワ島)からアデレード(オーストラリア)までの移送は牛馬以下の過酷な扱いを受け、船内で死亡する者が続出した。死亡した者は水葬された。
移送船がアデレードに到着したのが1月31日。「20日ぶりに船倉のハッチが開けられ、青い空と太陽の光に蘇生の思いがした」(石居太楼)。

逆算すれば、北セレベスで拘束された人々がジャワ島南岸のチラチャップ港からオーストラリア向け出発したのは1月11日ごろとなる。ちょうどその頃、日本軍は北セレベスや東ボルネオ(タラカン)で進攻作戦を開始していたことになる。

付記― 日本軍作戦行動の概要

昭和17年1月~2月に実施された主な蘭印攻略作戦を下に記す。敵の本丸はジャワ島にある。ジャワ島東部はオランダ海軍の根拠地スラバヤがあり、蘭印政庁はジャワ西部のバタビア(現ジャカルタ)にあった。日本軍は年初からセレベス島(メナド、マカッサル、ケンダリー)、ボルネオ島(タラカン、バリックパパン、バンジャルマシン)、スマトラ島(パレンバン)、アンボン島、チモール島、など順次攻略してジャワ島へ迫った。ジャワ島攻略をめざす陸軍の第16軍本隊(司令官・今村均中将)は3月1日ジャワ島西部のバンテンに上陸し3月7日バタビア(ジャカルタ)を占領した。

* 昭和17年(1942)1月11日未明、陸軍(坂口支隊)、海軍部隊(呉鎮守府第2特別陸戦隊  名)東ボルネオのタラカン島に上陸。同地の蘭印軍守備隊 1,400名は1月13日に降伏。日本側損害― 陸軍(川口支隊)戦死7名、海軍156名

  同日、メナド西岸に海軍部隊(佐世保鎮守府特別連合陸戦隊、同第一特別陸戦隊合計1,800名) メナド東岸(ケマ海岸)に海軍部隊(佐世保鎮守府第二特別陸戦隊 1,400名)上陸。
  同日、ランゴワン飛行場に横須賀鎮守府第一陸戦隊(空挺部隊。指令・堀内豊秋中佐, 408名)堀内部隊の戦死32名、負傷32名。

メナド攻略戦全体の日本軍損害 戦死 44 名、負傷186 名.
* 1月24日、陸軍部隊(坂口支隊)によるバリックパパン攻略。翌日【25日】までに占領。
* 1月24日、海軍部隊(佐世保鎮守府特別連合陸戦隊、同第一特別陸戦隊)によるケンダリー攻略。この部隊は1月11日のメナド西岸上陸部隊と同一。支援の掃海艇2隻が撃沈された。

上記のとおり、海軍落下傘部隊のランゴアン飛行場攻略戦は、「北部セレベス攻略戦(当時の通称は「メナド攻略戦」)としてメナド西岸およびケマ海岸への陸戦隊上陸作戦と連動し、さらにはタラカン(東ボルネオ)、バリックパパン(南ボルネオ)、ケンダリ―(東南セレベス)、マカッサル(南ボルネオ)など他の要衝の攻略作戦と連動していた。日本軍はこのあとアンボン島、バリ島、スマトラ島のパレンバンなど逐次「からめ手」を攻め落として「本丸」のジャワ島に迫った。

ミナハサ半島略図

関連資料

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