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この記事は1987年(昭和62年)、Bitung に建立した太平洋戦争犠牲者の慰霊碑建立に尽力した大之木英雄氏が、厚生労働省 社会・援護局に提出した書簡の一部で、北スラウェシ日本人会の会報14号に収録されています。海外に慰霊碑を建立そして維持管理することの難しさが読み取れるので、ここに転載させて頂きます。
財団法人水交会呉支部会長
呉水交会会長
元海軍飛行専修予備学生 元山(げんざん)海軍戦闘機隊 海軍中尉
大之木 英雄
インドネシア国、北スラウ土シ州、 ミナハサ、ピトン市地区マネンポネンポ村、タンジュン・メラ
1987年10月15日落成。除幕式実施。元海軍第14期会元山海戦闘機隊この碑を建設す。 責任者 大之木英雄
昭和17年1月11日、碑所在地近傍のカカス高原のランゴアン飛行場に落下傘降下せし、横須賀舗守府第一特別陸戦隊、堀内落下傘部隊、同じくピトン南方のケマ地区に敵前上磯せし、佐世保第二特別陸戦隊の戦死者、及び陸軍第108飛行場大隊、第375独立歩兵大隊の戦死者、並にニューギニア、ソロモン群島、ブーゲンビル、ラバウル他、南太平洋海域に於ける戦死者、又、無実の罪を背負ってB級戦犯として処刑きれた堀内豊秋海軍大佐他、当地区に於て戦後戦犯処刑された方々の霊を慰む。
碑面の「慰霊のことば」
(表) 鎮 魂
風薫り 雲は流れ 海碧き
南溟のこの地 君よ 永遠に眠れ
(裏)‘1987年10月15日
元海軍第十四期飛行専修予備学生
元山戦斗機隊建之
元海軍第14期元山戦斗機隊の戦友会は「元空戦の集い」という名称のもとに国内の慰覚は元より、1979年より東南アジアの戦跡地に於て慰霊祭を執行することを常とした。1987年に元山航空隊の中攻隊(元山は戦斗機隊の前は攻撃機の隊であった)が横須賀錘守府第一特別陸戦隊のメナド落下傘降下部隊を輸送したというご線もあり、メナド地区で慰霊祭を挙行することを決した。
責任者 大之木は事前調査の為メナドに赴いたが、慰霊碑は存在せず、たまに見かける桧づくりの墓標は概ね2年で腐敗損壊することを知り、帰国後元山航空隊の仲間とはかりトメナド地的こ元山の手で慰霊碑を建立すると決した。
人を介し、北スラウエシ州知事に面会し、事情経緯を述べ、州政府の承認を受け着工することとした。知事の命令でピトン市長 サルンダヤン氏に土地の選定、その他、趨設について便宜提供が指示された。 責任著大之木はサルングヤン市長と共に3カ所の土地を見学し、現在地を決定し、メナド所在の建投業者と契約し、施工せしめた。知事の承認は1987年3月、鑓投着工は1987年4月頃であった。1987年9月、北スラウエシ州知事より突癖呼出かあり、「外国軍隊の慰霊碑は州知事樺限ではなく、ジャカルタのインドネシア国軍司令官の棉隈であるのでどうしたものか」と非常に困惑した表情であった。 責任著大之木も愕然としたが、メナドより急遽ジャカルタの日本の駐在防衛官(海上自衛隊)松浦 永一佐に電話し、国軍司令官ムルダニ陸軍大将への口添えを依頼。松朴一佐はかねて寧懇の副官スウォンド空軍少将を通じ、国軍司令官に依頼してもらい、幸いにして2週間後正規にインドネシア国軍司令官ムルダニ大将の承総を得た。
従って、当慰霊碑は国軍司令官、 並びに北スラウエシ州知事の両名によって 正式に承認された日本軍戦没将兵の慰霊碑である。(注:尚同じく国軍司令官に正式承認を受けた日本軍の慰霊碑としてイリヤンジャワのソロンに日本陸軍のつくったものかある。) 尚、1987年10月15日、元空戦の40名が除幕式、並びに第1回慰霊祭等の為に到着した時はムルダニ国軍司令官の命により、メナド警察署長が一行滞在中警固に当ってくれた。
1987年4月、北スラウエシ州知事(サルンダヤン・ピトン市長立会)と「元空戦の集い」世話人大之木との間で契約を締結、署名を行った。内容下記の如し。
(1)土地の購入、並びに慰霊碑等建造物の建設費はすべて元山航空隊負担のこと。
(2)メンテナンス費用は北スラウエシ州政府が負担する。
(3)慰霊碑の実質的使用、慰霊祭等の執行その他はすべて元山航空隊の自由な意思によって行われる。
(注)
1.メンテナンスは州政府負担となっているか、支出縫費か少いカ!、或はとこかに消えているか、現地の雛持管理者(マネンポネンボ村長レンコン氏、及び元の地主カウナン氏)に充分渡っていない。その為絶えずトラブルがあり、当方へ支払方要請あり。契約に違背するので問題であるが、所要額の半分位を毎年元山が負担している。
2.このような状況で毎年当方が現地に行き点検をしないと急速に慰霊碑は破損してくる恐れがある。
(1)土地 約1,000 坪(所有)
(2)門
(3)塀
(4)構内トイレ
(5)石段100段余り
(6)慰霊碑本体 (参考:写真)
(1)毎年1回4月、慰霊蔡を行う。「元空戦の集い」主催。1987年より2002年に至まで16回の慰霊祭実施ずみ。
(2)現地よりビトン市長、郡長、レンコン村長、・小学校長2名、小学校児童30~70名参加。その他地元有志が参加。
(3)1992年1月11日、醇下傘降下50周年に当り、落下傘部隊の生存者、堀内隊長の教え子海兵78期、並びに元山戦斗機隊員計108名碑前に於て盛大に慰霊祭を行う。
(注)毎回来賓、並びに児童には、
a.文房具等の土産持参。 b.慰霊祭の度毎に当方の肴付せし鯉織りが高く空に舞う。 C.現地手配者 PANDU EXPRESS(旅行社) レンコン(マネンボネンポ村村長) カウナン(元の地主)
1087年10月、南スラウエシ州ウジュンパンダンの日本総領事館へ大之木以下10名表敬訪問。メナド慰霊碑の件を報告。
毎年元山の者が点検し、不良個所、損壊個所を現地業者に指示して修理せしめているか、赤道直下の地である為、損壊のスピードが早く、「元空戦の集い」責任者の高齢化と共に今後が憂慮される。
生存同期生は5~60名 その内出席してくるのは2-30名。当初建設の時集めた資金の内、 余剰金かあり、之と国内、海外の「元空戦の集い」の行事で余った残金を基金に寄付してもらって維持費にあてている。
「元空戦の集い」の責任著大之木か健在の間は毎年4月現地を訪れ、州政府、市、村、地主等への挨拶、交渉を行うので特に心配はないが、責任者も既に高相(80才)であり、余り長期のお世話が期待できない。
契約書の約定によれば、北スラウエシ州、並びにその下部機構のピトン市、及びマネンポネンボ村長が碑のメンテナンスの貴にあたることになっているが、予算も乏しく、又予算があっても中途紛失している場合が多く、之によって碑のメンテナンスか充分に行われるとは到底期待できない。
責任者の知人、身内で後事を託せないかとも検討してみたが、資金と心の両面に於て朋待しがたい。
ついては、今後の維持管理は日本政府(厚生労働省)に於てご担当戴けないかと切噸すろ次第である。
維持管理の方式としては、年に1度担当者が参拝し、その折現地関係者(市長、郡長、村長、小
学校長、旧地主)にご挨拶を行い、村長立会の下で現地の実際管理実行者(現在は地主カウナン氏。将来はカウナン串のご子息かよからん)に年間維持費担当分く日本円2~3万円)を支給すればよろしいかと愚考。
尚、メナドに於て北スラウエシ州知事考畢敬訪問し、マネンポネンポの稗について感謝とお願いをして戴く。
参考までに、メナド市、ピトン市、ミナハサ郡一帯、マネンポネンポ村の市民、町民、村民は極めて親日的、且温厚なり。
又、当慰霊碑は北スラウエシ州観光局の手によって観光地図に掲載され、「Japanese Monument」(日本記念碑)とされている。
以上、宜敷お願い申し上げます。
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