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父柳井洋蔵は、85歳の誕生日を迎えて数日後の2016年3月25日、3ヶ月の末期癌宣告を受けた後たった25日間の自宅介護の果てに、潔く,安らかに旅立って逝った。重い気持ちを引きずりながら少しずつ整理を始めた父の書斎から、一つの木箱が出てきた。 中には黄ばんだ手紙と数枚の写真が息を潜めていた。第一通目の手紙が書かれてから実に75年が経過していた。セレベス島メナド市で戦犯処刑となった祖父柳井稔が4年に渡って、内地帰還した家族へ宛てた15通の手紙と処刑に到るまでの在外事実を記した証明書であった。
父柳井洋蔵(6歳)と祖母千代、祖父が建てたというメナドのテカラ宅にて(昭和12年)
祖父柳井稔(撮影日時不明)
父の口から、子供時代に食べたマンゴやドリアンの味、自分が生まれた瞬間に噴火したセレベス最高峰の山、片言で覚えたインドネシア語、そして、祖父が戦犯処刑となって骨も遺灰もないことは断片的に聞いてはいた。けれども、祖父の手紙を何度も読み返すまでは、柳井稔という一人の人間象は浮かび上がってはいなかった。
昭和三年八月、妻千代と共に異国の地セレベス島メナド市に到着。 株式会社二葉商会を設立後、昭和十年七月、南洋拓殖会社メナド市店長に就任した。昭和十四年十月、開戦前に危険を察して家族は内地へ引き上げ、稔本人のみメナドに残って勤務に当たった。
1年中高温で亜熱帯雨林の広がるメナド、大流行のマラリヤで新生児の死亡率が非常に高いため出生届は1歳の誕生日まで待つことが当たり前のメナド、食事も言葉も服も家屋も子供の教育も何もかもが異なる異国の地で6人の子供を出産し、仕事に付き合いに奔走する夫を支えた祖母千代の肉体的、精神的強さには頭が下がる。昭和十五年の一番下の息子の出産は日本帰国後単身で迎えた。
その翌年15年1月より、主に妻へ、時には子供たちへ宛てた稔の手紙と、妻からの手紙と写真は終戦前年の昭和19年9月までの4年8ヶ月に渡り、メナドと日本を結ぶ航路を幾度となく行き来することになる。
ほぼ全ての文面から浮かび上がってくる柳井稔の人物像は、生真面目、責任感に富み、正義感の塊、時には自分自身や家族を二の次にしても、人のため、御国のために奉仕するのは正にこの時代の日本人男子魂そのもの。そしてその気質をそっくり受け継いだのが父洋蔵であった。
昭和十五年の手紙には、大日本帝国の意志を受け継ぎ、また自ずからの大志を抱いて異国の地の事業開拓に情熱を燃やす多数の日本人たちが、メナドの商経済を活気付けていた様子がまざまざと伺える。いかなる状況においても、常に御国のために誇りを抱き恐怖を持たず、事業の続行、に臨み続けた祖父であった。同十五年には日本人会会長も勤めた記録がある。 昭和十七年の日本軍によるメナド進駐以降はマレー語などの通訳として海軍第八警備隊橋本司令官付通訳兼相談役、昭和十八年、メナドにて海軍軍属司政官、メナド市長を拝命。模範都市と言われたメナドに誇りを持ち、地元の人々との交流、相互理解を図り、野菜農園での栽培、海軍の補助に全力投球した祖父であった。戦禍広がる十九年、兵隊と共にジャングルで過ごした過酷な二ヵ月を終えて帰宅した祖父は、今後一切文句を言うまいと決意した。
昭和二十年九月十五日、トンダノで捕われの身となり、モロタイ島にて強制収用された。 二十一年五月、再びメナドへ送還され、同年十月三十一日に死刑求刑、十一月十三日に死刑判決を受け、翌二十二年三月十七日、メナド市に於いて銃殺隊により処刑執行された。
死刑執行2日前に記した遺書の一言一言に伺えるように、最後まで悔いなき満足な人生を送ったと明言した祖父の生き様と死に様はどちらも父洋蔵のそれに共通するものが多い。
柳井千代殿、明後十七日、死刑を実施せらるる予定、これも運命なり。然し小生の一生を通じて南方進出を策し、国策亦、国運を賭して南方作戦に従い遂に敗れたり。
国家と運命を共にしてセレベスの土となる、小生のもって満足するところなり。
小生死後、子供の教育に任ぜられる貴女の御心労を深く謝すと共に、此の父の分をも愛せられ、子供四人只々新日本有用の人物たらしめん事を切望す。
冬すぎて 春うららかや 死出の旅
散らばとて 惜しくもあらぬ 姥桜
ただ 心にのこる 吾子のことども
日本領事館前庭にて、昭和15年(1940年)2月11日(紀元節)
メナド宅にて(ティカラ)
南宅メナド事業所職員 上園氏 滝澤氏 桶泉氏 (後列左より)
山縣氏 笹氏 千代 節子7歳 稔 洋蔵9歳 (前列左より)
同志と内地帰国か? 晴れ晴れしい笑顔(稔左から二人目)
メナド 二葉商会事業所で
メナド 日本人小学校にて(祖部の手紙に、メナドの学校設立に尽力して様子が伺える)
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