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長編記録映画「セレベス」の映画監督・秋元憲氏のこと

江口 浩
川崎市市民ミュージアム

 

長編記録映画『セレベス』の映画監督、秋元憲氏は1906年東京生まれ。官立東京商科大学(現・一橋大学)を経て1931年、松竹蒲田撮影所に入社。成瀬巳喜男監督の『髭の力』1931年)や『偉くなれ』1932年)、島津保次郎監督の『上陸第一歩』1932年)や野村芳亭監督の『島の娘』1933年)などの作品に助監督として就く。しかし記録映画を志して1936年、東宝映画文化映画部に移る。

1937年『軍艦旗に栄光あれ』で構成を担当し、演出家としてデビューする。翌年には『南京 戦線後方記録映画』を構成、亀井文夫の構成による『上海』『北京』(共に1937年)と三部作として好評を博した。1940年には亀井のシナリオにより『富士の地質』を監督。神格化されていた富士山を地質学的に捉えた科学的アプローチは、当時としては異色であった。国策による文化映画製作会社の統合により、秋元は社団法人日本映画社に転籍となる。そして海軍報道班員として徴用され南方に従軍し、現地で記録映画の製作に携わることになる。

『日本映画発達史Ⅲ 戦後映画の解放』に拠れば、1942年9月10日に決定された「南方映画工作要領」に基づいて日本映画社は海外局を本社内に設置。昭南島(シンガポール)に南方総支社を置くとともに南方諸地域に支局を開設してニュース映画や文化映画を製作することになった。セレベス支局長には田村潔が任ぜられた。セレベス島(現・インドネシア領スラウェシ島)のマカッサルに日本映画社のセレベス支局が支社として開設されたのは1943年1月のことであり、秋元は日本映画社文化映画製作局演出課セレベス支社長に就任する。

セレベス支社の主な仕事は『日本ニュース』や『大東亜ニュース』『南方報道』などのニュース映画に素材を提供するための取材活動が主である。しかしマニラやジャカルタといった、既に撮影スタジオや現像所など映画製作のためのインフラが確保されている箇所に比べれば極めて小規模だが、現地での宣撫活動用啓発宣伝映画もいくつか製作された。『海の兵補』や『インドネシアよ海へ』(共に1944年)といった作品はその一例である。またセレベスでは実際に撮影所建設の計画も進行していたようである。

フィルムと併せて御寄贈頂いた資料の中に『記録映画「セレベス」構想』と題された、謄写版印刷で版全ページの小冊子がある。この小冊子はそのタイトルからもわかるように、この長篇記録映画の企画書といってもよい文書である。これに拠れば海軍報道部は、1942年1月11日におけるセレベス島メナドへの落下傘部隊による奇襲攻撃から僅か4ヶ月目にはこの映画を企画・立案したことになる。陸軍の落下傘部隊がスマトラ島パレンバンに降下作戦を実施したのが1942年2月14日であるから、海軍が如何にこの戦功を誇り、競ってその記録を映像に留めようとしたことが伺える。この小冊子の内容をここに紹介し、海軍当局と製作者側がこの作品に何を求めたかを考える材料としたい。

この“企画書”は目的、内容、日程の三部分から成り立っている。「セレベス島とはどんな処か、そこを帝國海軍はどんなにして攻略したか、そして攻略後どんなにして、それを日本的に再建していったか」「これらの問題を内地の同胞に傳へると共に、併せてこの大事業を完成せんとしつゝある我々の姿を、長く子孫への贈物として残さんとするものである」といった目的がまず謳われている。しかし「内地の人々は勿論世界の人々も、ここをアフリカやボルネオの奥地と同じく猛獸毒蛇の巣窟であり、鰐やマラリヤ蚊の跳梁地、甚だしきは人喰人種の世界だと思ってゐる」「その爲に内地の爲政者がセレベスの認識を誤り、有能人士がセレベスへの進出をためらふようなことがあるとしたら由々しい問題である。だからこの映画は奇を衒はず、大衆の低い獵奇心にこびず、あるがまゝのセレベスをあるがまゝに記録し、内地爲政者と一般國民に報告せんとするものである」としているのは興味深い。

また“企画書”は、撮影すべき内容として三つの要素を挙げている。一つはセレベスの町や村についてである。メナドやマカッサル、ケンダリーなどの中心都市においては電気や水道、道路や宿舎などが完備されており、内地からやってくるであろう人々に対して、セレベスが手の施しようのない未開地では決してないことを紹介するという目的がここにある。

内容の二つ目はこの島に住む人々についての紹介である。宗教や風俗、習慣や気風を異にする様々な先住民がセレベス島には居住している。この映画ではその中でも特にミナハサ族、トラジャー族、マカッサル族、ブギス族の4つの部族に注目し、調査・記録を進めたいと記されている。その背景には「その各種族に就て何が彼らを喜ばせ、何が彼らを悲しませるかを知ることは、今後彼らを支配し統治せんとするものにとっては不可缺の知識であらねばならぬだろう」「勞働力としての彼らの能力や適應性はどんなであるか、彼らに與ふべき住居や衣食や作業姿勢はどんなであるべきか、休養や娯樂はどの程度に考慮したらいゝか、等は當面必要な知識であり、配給經済の面からもゆるがせにできない調査問題であらねばならぬ」という明確な狙いがある。

三つ目に描くべき内容として挙げられているのは、セレベスと日本との関係についてである。「帝國海軍が大東亜戦争全作戦の如何なる時期に、如何なる目的と方法とでこれを占領したか、そして占領直後如何なる軍政を施いてどんなに治安を恢復し得たか、それらを記録し、皇紀二千六百二年この島が日本の版圖に帰した歴史的時点に於ける我らの姿を内地國民に、そしてそれ以上に我らの子孫に永く傳へ残したいと思ふ」というこの映画の製作目的が改めて提示され、そのために取材すべき事項としてセレベス作戦の跡、捕虜とオランダ人の問題、町の経済統制の姿、資源調査、インドネシアでの日本語教育と日本人のマレー語講習、天長節に於けるインドネシア捕虜解放などを挙げている。

最後に日程として示されているのは、想定されるこの映画の製作スケジュールである。「平時とは比較にならぬ連絡交通の不便の爲、予想外に能率の落ちることも考慮」して、マカッサルとその近郊の取材に約1ヶ月、メナドとミナハサ一帯の取材に約2ヶ月、トラジャー集落の取材に約1ヶ月、そしてその他の各地方の取材に約1ヶ月、計約5ヶ月の製作期間が組まれている。

さらに御寄贈頂いた資料の中には『セレベス』と題された、社團法人日本映画社や東寶映畫東京撮影所の名が刷り込まれているB5版の用箋計 28枚に、万年筆や鉛筆でびっしりと書き込まれたメモがある。それに拠ればセレベスという名の由来から始まり、面積、住民の民族的構成、言語、教育、風俗習慣、地形、気候、植生、動物の固有種、火山活動など様々な観点からこの島についての研究が為されたことが解る。またこのメモには海軍次期策戦拠点としてのセレベスの重要性、共栄圏内におけるセレベスの地位、資源地政学的意義、香料資源上の価値、熱帯的性格・特質、民族心理、対日認識や文化教育の程度など25項目に及ぶ検討事項が列記されており、また作品構成上の推敲の跡も数多く伺えることからも、映画の製作プロセスを知る上での重要な資料であるといえる。

以上のことからも解るとおり、軍主導の下で作られる映画の利用価値は事前に周到に計算されている。しかし“企画書”において「この映画は先づ海軍報道班員としての我々が見たまゝを記録し、より深い専門的な探求は次の仕事に讓りたい」とまで強調しているように、この映画には記録を最優先とする作り手の真摯な態度が貫かれている。換言すればそれは取材対象に対する興味や愛情の表出なのであり、またそれは監督自身がナレーターを務めていることや、この大作のフィルムを長きに渡って自ら保存してきたという事実からも窺い知ることが出来る。

また秋元の書いた『南方映畫工作について』という文章の中には、その物々しい表題にも拘らず、次のような記述が散見される。即ち「インドネシヤ人を宿命的な怠け者だなどと報告する者に呪あれ! 私はそんな報告者の、東亞民族に對する愛の缺乏と、ものごとの表面しかみられない、歴史的な觀方の缺除(ママ)とに限りない憤りを覺えるものである。」 また“インドネシヤにうける映畫”という分析の中では「「インドネシヤなんか低級だ。彼らにはチャンバラと戀愛さへ與へればいゝのだ」と云ふ、流し視察旅行者の報告ほど、日本の映畫界を誤らせるものはない」と、記録映画作家としての自負を述べると共に、観客の嗜好や性向など、外地の状況を知らない内地の劇映画製作者たちに対して不満を吐露している。これらの記述からも、いかに秋元がこの土地や住民に対して愛着を抱いていたかが理解できるだろう。

秋元監督は1945年7月15日にマカッサルを離れ、スラバヤで終戦を迎える。ジャワ島ジョンバンやナウイの収容所を経て、1946年7月に浦賀へ帰国する。帰国後は外地から引き揚げて来る映画人の援護活動に尽力した。そして松崎啓次らとともに内外映画社を設立する。1956年には新理研映画の監督兼企画調査部長に就任し、『横山大観』(1960年)や『若戸大橋』(1962年)などの作品を手掛けている。1999年没。

関連資料

掲載 2010-6-10
全面改定 2010-7-18

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