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長編記録映画「セレベス」誕生の経緯

Film Dokumenter "CELEBES" pada tahun 1942


 

太平洋戦争初期に製作された長編記録映画「セレベス」が平成22(2010) 年1月9日から11日の3日間、川崎市民ミュージアム(神奈川県川崎市中原区等々力1-2)で66年ぶりに上映され話題になっている。当時の日本帝国海軍のプロパガンダ映画ではあるが、戦後66年を経過し、今や当時の島内各地の風俗や日本海軍の民政について証言する歴史的に貴重な遺産である。川崎市民ミュージアムが所蔵するこの記録映画「セレベス」構想(計画書)を読み、当時のセレベスにおける日本人の足跡について探ってみたい。(上の写真は特別上映のパンフレット、中央の写真はこの映画の監督秋元憲氏)

1)旧日本海軍のセレベス侵攻から日本軍政初期のあらまし

旧日本海軍特別陸戦隊は昭和17(1942)年1月11日未明に、ミナハサ半島東岸のケマに上陸、同じ11日午前4時20分には西岸メナドにも上陸した。さらに同じ11日午前9時30分、堀内豊秋(ほりうち とよあき)海軍中佐の率いる海軍落下傘部隊第一次降下隊の323名(28機)がトンダノ湖畔のランコアン飛行場に降下、メナドを中心とするミナハサ地域の蘭印軍を制圧した。ケマ敵前上陸部隊は169名、マナド上陸部隊は84名と記録されているのにたいして、落下傘部隊の323名は圧倒的に多い兵力であった。翌12日には園部竹次郎特務中尉以下173名の第二次降下隊が降下している。このメナドの落下傘部隊の降下が日本軍としては史上最初の空挺作戦となった。その後堀内豊秋中佐(のちに大佐)は住民に対し善政を施し慕われたという。

  旧日本海軍特別陸戦隊はその後スラウェシ島の東海岸を南下して、1月24日には蘭印空軍基地のあったクンダリ(現在の東南スラウェシ州)に上陸、2月9日にはマカッサルの南方約30キロにあるアエンバトバト海岸に上陸し、同日の昼12時半にはマカッサル市街を、また同日深夜にはマロスの飛行場を制圧した。アエンバトバト海岸を上陸地点に選んだのはマカッサル港が機雷で封鎖されていたためとされている。2月8日には一等駆逐艦「夏潮」がマカッサル攻略作戦中に敵潜水艦の攻撃を受けて沈没している。

  旧日本陸軍がジャワ島に上陸したのが3月1日と記録されているので、それに較べて旧海軍によるセレベス島上陸はかなり早かった。2月9日にマカッサルへ入ったあと、2月28日には現地住民向けの簡易日本語学校の開設、3月10日には民政部が設置され、4月下旬には市役所が開設されている。南洋貿易会社の山崎軍太(やまざきぐんた)氏がマカッサル市長に就任し活躍することになる。短期間に広大なセレベス島全土を統治するために地元民と多くの接点を持つ民間商社の人材が数多く投入・活用されていることが窺われる。また山崎軍太氏の市長就任にあたっては助役にインドネシア人を登用するなどの配慮がされている。

2)記録映画「セレベス」の製作の経緯

太平洋戦争緒戦の勝利で日本中が沸き立っていた時期であった。日本の本州の8割もあるこの大きなセレベス島を、これからどうやって統治していくか、その為には多くの優秀な人材を日本から送り込む必要があった。こうした中、長編記録映画「セレベス」製作の構想が持ち上がった。大本営海軍報道部の監修の下に製作する映画の目的は新たに日本の占領地となったセレベス島がどのような土地であり、その土地に住む人々の様子や習俗などを内地に紹介することであった。映画監督は秋元憲氏。記録映画「セレベス」構想の書類の裏に昭和17・5・22と記されているので、計画書の作成は17年の4月から5月にかけての間と思われる。その後の昭和17年後半から昭和18年初めごろにかけて、マナド、クンダリ、マカッサル、パレパレ、トラジャなどセレベス島各地で撮影が行われている。マナドの落下傘部隊の様子など一部ニュース映画の映像も取り込まれているが、その後、どこで編集作業が行われたのか現時点では明らかでない。BGMとしてインドネシア・ラヤ(現在のインドネシア国歌)が効果的に使われている。この映画は1944年7月27日に一般公開された。

  この時期同じ海軍のプロパガンダとして製作された映画にはアニメ映画「桃太郎 海の神兵」がある。こちらも昭和17年1月11日のメナドの落下傘部隊の将士の談話をベースにしたもので、こちらは子供向けの海軍PR映画である。 このほかニュース映画でも「セレベス奇襲作戦 落下傘部隊初活躍」が上映され当時の日本人は映画館の中で、手を上げ拳を握って画面に釘付けになるほど興奮したと言う。 「雲滾るマカッサル」の著者、内藤幸雄さんは “映画館を出ても興奮は醒めず、何度も何度も「空の神兵」の歌を絶呼して、我が家に帰ったものだった” と記している。その当時のニュース映画(日本ニュース 第88號、1942年2月9日号)は川崎市民ミュージアムで常時、ビデオ視聴が可能である。

 この長編記録映画が企画された直後、昭和17年年6月には太平洋ミッドウェイ海戦で日本海軍が大敗し、アメリカの本格反撃が始まるが、情報は管理され、悪いニュースはまったく日本の国民には伝えられなかった。今から考えれば、あれは、つかの間の夢物語であったようにも思える。

3)長篇記録映画「セレベス」66年ぶりの上映

2010年1月9日から11日の3日間、川崎市民ミュージアムで長篇記録映画「セレベス」が66年ぶりに上映された。きっかけは2004年に本作の監督である秋元憲氏のご令息である秋元翼(たすく)氏が当時のフイルムを映画・ビデオなどのメディア芸術作品の収集展示などを特色とする川崎市市民ミュージアム(神奈川県川崎市中原区等々力1-2)に寄贈されたことである。ミュージアム側は、秋元監督が戦前、戦後を通じて数多くのドキュメンタリー映画の製作に携わり、映画としての完成度が高く、文化人類学的資料としても大変貴重で、興味深い内容であると高く評価した。しかし戦時中に制作されたフイルムは劣化していて直ちに公開することが出来なかった。不燃化作業や劣化歪み修正作業などに年月を要し漸く今回の上映となった。

  戦時中のセレベス島の情報はほとんどが戦後書かれた「想い出話し」であり、現地で作成された資料は皆無に近い。敵国スパイが暗中飛躍する当地では一般市民がラジオを持つことは禁止され、ましてや写真を撮ることは不可能であった。また終戦時には現地の軍政・民政に関する資料はすべて焼却処分されている。こうした中、海軍のプロパガンダ映画であるとは云え約3時間に近い日本軍政初期のセレベス島内各地の記録映像は大変貴重なものである。

4)海軍報道部作成の記録映画「セレベス」構想

川崎市民ミュージアムに収められている表記の資料の全文を当時の仮名使いでご紹介する。漢字は現在のワープロ字体を使った。当時の映画製作責任者の意気込みが伝わってくるようだ。いま読むと不適切な内容・表現も含まれるが当時の帝国海軍のプロパガンダを知る歴史的資料としてご理解頂きたい。

一、 この映画の目的

(一) セレベス ー 今まで聞いたこともない島の名が、突如我々日本人の目の前に浮かび上がってきた。皇紀二千六百二年一月十一日、帝国海軍落下傘部隊のメナド降下を契機として。

  一月十一日メナドを占領した帝国海軍は、同じく廿四日にはケンダリーに上陸、二月九日には早くもマカッサルに僅々数日の間に付近一帯を席巻した。

 この映画は帝国海軍マカッサル占領後三ヶ月即ち昭和一七年五月から十月に至る約半年の間に亙るセレベス島の記録である。セレベス島とはどんな処か、そこを帝国海軍はどんなにして攻略したか、そして攻略後どんなにしてそれを日本的に再建して行ったか、―――― この映画はこれらの問題を内地の同胞に伝えると共に、併せて、この大事業を完成せんとしつつある我々の姿を、長く子孫への贈り物として残さんとするものである。

(二) セレベスは今まで余りにも内地に知られていない。否、内地ばかりか世界の学会にさへも未開の暗黒地として閉ざされてきた。全世界を通じてセレベスに関する文献は恐らく五本の指を折り切れぬ寥々たるものであるだろう。

 それはオランダの秘密政策の結果であったかも知れない。だが、そのため、内地の人々は勿論世界の人々も、ここをアフリカやボルネオの奥地と同じく猛獣毒蛇の巣窟であり、鰐やマラリヤ蚊の跳梁地、甚だしきは人食い人種の世界だと思っている。

 それも一つの夢の想像としては面白いかも知れない。だが、その為内地の為政者がセレベスへの認識を誤り、有能人士がセレベスへの進出をためらふようなことがあるとしたら由々しい問題である。だからこの映画は奇を衒はず、大衆の低い猟奇心にこびず、あるがままのセレベスをあるがままに記録し、内地為政者と一班国民に報告せんとするものである。

  セレベスに関してはまだ何ごとも新しい。単にそこがどんな景色かと云ふことを伝えるだけでさへ決して無価値ではないだろう。だからこの映画は先ず海軍報道班員としての我々が見たままを記録し、より深い専門的な探求は次の仕事に譲りたい。だが少なくとも次の項目だけは絶対に記録して帰らなくてはならないだろう。そしてこの映画は大体六巻から八巻位の長さになる予定である。

二、 この映画の内容

(一)町と村
  内地の人にとって先ず問題になるのは彼等が来て、とりあへず住まねばならぬ町と村の姿だらう。そして政治も経済もまた当然この町と村とを中心として考へられねばならない、だから我々はこの映画の最初に於いて、セレベスの町と村がどんなに開け、どこへ行っても電気と水道と道路と宿舎とがどんなに完備しているかを語るだろう。それによって内地人は帝国海軍の占拠したこの広大な島が、決してジャングルとマラリア蚊の手のつけられない未開地ではないことを知って驚くだろう。  セレベスに於ける中心都市としてはメナドとマカッサル、パレパレ(蘭軍潜水艦基地のあった処)とケンダリー等、小村としてパロポ、ワタンポネ等が記録されねばならぬだろう。

(二)人
 次に我々はこの島の民族に就いて語らうと思ふ。

 一と口にインドネシアと云ってもその構成は複雑であり、これを十把一とからげに考え、扱うことは許されない。その各々が文化教養の程度を異にし、宗教を異にし、風俗、習慣、気風を異にする。だからこれらのことを充分心得た上、その各種族に就いて何が彼等を喜ばせ、何が彼等を悲しませるかを知ることは、今後彼等を支配し統治するものにとっては不可欠の知識であらねばならぬだろう。

 又今後この島の産業を調べ、事業を企てんとする経済人にとっても、労働力としての彼等の能力や適応性はどんなであるか、彼らにあた興ふべき住居や衣食や作業姿勢はどんなであるべきか、休養や娯楽はどの程度に考慮したらいいか、等は当面必要な知識であり、配給経済のめんからもゆるがせにできない調査問題であらねばならぬ。

 この映画に記録される彼らの生活の姿は当然これらの問題に対し最も明快な指針を興へる鍵となるだらう。  我々はこれらの問題をセレベスの四大種族 ―北部ミナハサ族、中部 ―トラジャ族、南部マカッサル及びブギス族 ―の各々に就いて個々に調査記録したいと思ふ。

(三) セレベスと日本
 現在の処、セレベスと日本と云うことはとりもなほさずセレベスと帝国海軍と云うことになる。セレベスが我々とこんなにも密接な関係をもつに至った抑々の機縁は、昭和一七年一月十一日、帝国海軍によるメナド占領に始まる訳であるが。――――
 我々はこの映画に於いて、帝国海軍が大東亜戦争全作戦の如何なる時期に、如何なる目的と方法とでこれを占領したか、そして占領直後 如何なる軍政を施いてどんなに治安を恢復し得たか、それらを記録し皇紀二千六百二年この島が日本の版図に帰した歴史的時点に於ける我らの姿を内地国民に、そしてそれ以上に我らの子孫に永く伝え残したいと思ふ。

 この為、セレベス作戦の跡、捕虜と蘭人の問題、ラジャーの処置、町の経済統制の姿、資源調査、インドネシアの日本語教育と日本人のマレー語講習、天長節に於けるインドネシア捕虜解放等はぜひ記録されねばならぬだろう。

三、 我々の作業日程

我々の仕事は本来調査と下見聞に少くとも半年から1年を費すのを常とする。然し戦時下であると云うことと占領直後と云う時期を捕へんとする必要上、このやうな万全な仕事の仕方は許されないであらうから、且つ見且つ撮るやうな方法もとらざるを得ないだらう。
 このことは普通の場合より仕事の全期間を短縮させ得るわけであるが、又、反対に平時とは比較にならぬ連絡交通の不便の為予想外に能率の落ちることも考慮せねばならないわけである。これらすべてをにらに合わせた上次の程度の日程予想が大体当を得たものと思われるが、勿論我々は未だ現場を調査したわけでなく、この予想は極めて大ざっぱなものであり、とりわけ交通と天候によって動かされることは充分覚悟しなければならない。

一、マカッサルとその近郊 約1ヶ月間
一、メナドとミナハサ一帯 約2ヶ月間(交通 調査 共)
一、 トラジャーの部落 約1ヶ月間 (交通 調査 共)
一、諸地方 約1ヶ月間 (交通 調査 共)

以上 (裏表紙) (昭和17・5・22)



参考資料

掲載 2010-2-27
追記 2010-2-28

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