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1945年8月の日本敗戦のあと、ここ東南スラウェシのコラカ(Kolaka)でも、帰ってきたオランダ軍と、迎え撃つインドネシア軍との戦いが始まりました。このなかで、現地に留まり、インドネシアの独立を支援した残留日本兵の戦いの証が、現地の資料や遺跡に残されていました。
2024-10-18
コラカでは、太平洋戦争のあと、インドネシアの独立戦争に参加して戦死した日本兵士の功績をたたえ、その名を街路名として残しています。
添付のPDFは、
南東スラウェシ州コラカ県 コラカ地区の地域規制 2017年第10号
『コラカ地区の文化財保護区、文化的・歴史的価値の保存と管理について』
という条例です。
この条例の8ページに
「124. Towatari;」 という表記が確認できます。
これは、第7条の条文で「地域の大中道路の名前は、(昔のその地域の)王などの文化的人物の名前、戦闘員の名前、元政府首脳の名前、歴史上で役割を果たした他の人物の名前から付ける。」という条文の名前の一覧に名前があります。
ここに名前があるという事は、コラカ地区で功績をあげ名を残されているという事であり、道路の名前に使われる候補、あるいは、使われているという事になります。(なお、実際に使用・命名されている道路があるかは未確認です。)
※日本のイメージで言えば、「トワタリ通り」という感じに使用されることになります。
東南スラウェシ州北コラカ県にキャプテン・カバシマ(樺島一郎中尉)に関連した記念碑もある事が分かりました。1942年、カバシマは日本海軍がコラカを占領した際には、数百人の日本兵を率いていた日本軍将校でした。しかし、彼は残忍なことで知られる他の日本軍指導者とは異なっていました。彼は地元民アリ・カムリ氏と友人であるなど、地元住民との調和のとれた関係を維持していました。以下は、ナショナルジオグラフィックのインドネシア版に掲載された記事の一部です。
1945年12月、オランダ軍はコラカの占領に成功し、樺島氏は、若い戦闘員とともに亡命することになった。樺島大尉と日本人同僚の行方がすぐには分からないように、アリ・カムリはカバシマ大尉をマンスールと改名するなど、独立戦争に参加した日本兵の名前を変更した。
https://nationalgeographic.id/read/13289590/kondisi-monumen-tentara-jepang-menyedihkan https://gonganoa.wordpress.com/2015/12/14/sosok-kabashima-perwira-jepang-yang-terlibat-mewujudkan-kemerdekaan-ri-di-kolaka-utara/ナショナルジオグラフィックは、CS放送や有線放送のナショジオチャンネルとしてディスカバリーチャンネルなどドキュメンタリー番組として有名です。このネットワークのインドネシア地域向けのものです。
上記の参考記事は、1990年に東南スラウェシ州北コラカ地区のワラシホ村に建てられた日本軍のモニュメントが現在、荒れ果てている状況を報告しています。このモニュメントは、1945年に日本の敗北後に当地に残った日本軍のキャプテン・カバシマの功績を記念するものでした。
ワラシホ村はコラカからボネ湾岸に沿って約 90km 北方向にいったところにあります。
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