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道路から10m位の所に墓標が並んでいる
Bantimurung からCamba へ向かう道路、橋の手前左側に墓標がある
マカッサルから南スラウェシ半島を横断してボネ湾側に行く場合、一般的にはマロス県のチャンバ (Camba) を通ります。このルートは南スラウェシの東西を結ぶ重要な幹線道路なのです。悪路のドライブに疲れてチャンバの茶店で一服休憩される方も多いと思います。しかしこのチャンバが60数年前、旧日本軍とオランダ軍との激しい戦闘の場所であったことはあまり知られていません。
激戦のわずかな証跡として8柱の旧日本軍人墓碑が残っています。場所はマカッサルから北上、マロス市街地で右折、バンティムルンの公園を通り過ぎ、さらにチャンバ方面へ車を走らせて約10分、山が迫ってくるあたりで、墓標は橋の手前、左側、道路から約10m入ったところです。明らかに日本式の墓石で当時兵士がコンクリートを流して作ったものと思われます。8柱の墓石がぴったりと寄せて立てられています。一部将兵の名前は判読できますが、その他は風化して判読困難な状態です。(写真右上)
昭和17年 (1942) 2月8日、マカッサルの南30キロのアエンバトバト (Aeng Batoe Batoe) 海岸(註1参照)に上陸した旧日本海軍陸戦隊はマカッサルの南を流れるジェネベラン河 (Sungai Jeneberang) の鉄橋での戦闘、さらに街の北側を蛇行するタロー河(Sungai Tallo) の鉄橋で、次いでダヤ(Daya)部落(現在のKIMA工業団地近く)にあったオランダ軍陣地、マロス空港(現在のハサヌディン空港)での戦闘を経てセレベスの首都マカッサルを占領した。
戦争中の昭和19年 (1944) 6月5日に出版された海軍報道部文学班員湊邦三著「セレベス海軍戦記」(海軍報道班員選書 興亜日本社発行)にはマカッサル作戦について詳しく描写されている。特にダヤでの戦闘は”苦戦”で「わが方も戦死3名を出した。」と書かれている。背走するオランダ軍はマカッサルから約80kmのチャンバ(Camba)の山中に陣地を構築し立て篭もった。急峻な山岳地帯で九十九(つづら)折で細く険峻な山坂なので正面攻撃は困難であった。
そこで正面作戦の一隊をバンチムルンに残し、大部隊はマカッサルを南下、スングミナサ、マリノ、シンジャイ、ワタンボネ、センカンを迂回、多くの橋が破壊されていたため渡河作戦に時間が掛かったが、漸く2月28日チャンバの山岳地帯に両面から突入し激しい戦闘が繰り広げられた。戦闘の詳細は省略するが最終的には3月7日にオランダ軍の投降式が行われ旧日本海軍特別陸戦隊の約600kmにおよぶ大機動戦が終わったと前述の書に書かれている。
(註1 Nur Kasim 編 "Sejarah Kota Makassar" によると、日本海軍の上陸地点は Barombong の南 3km、Sampulungan に上陸と記されている。どちらも市販の地図には記載がない。2013年10月27日追記。)
マカッサル上陸作戦中の2月8日夜、一等駆逐艦「夏潮」(基準排水量 2000t、全長118.5m、左写真は同型の磯風)が被雷沈没して、艦は現在もマカッサル沖のケケ島近く海底に多くの英霊とともに眠っている。地元漁民の話では、艦橋には椅子に座ったままの姿の遺骨があるそうです。おそらく最後まで脱出せず運命を艦とともにした艦長の遺骨ではないかと思われます。漁民が知っているということは第11号掃海艇と同じように艦の解体が行われている可能性があるりますが、水深が40mと素潜り可能な水深を越えているので第11号掃海艇ほど解体は進んでいないようです。しかし解体工事現場であることには変わりはありません。遺骨の尊厳を守るため、早急の調査が必要と思われます。(詳細:セレベスの海底から)
2月8日の上陸作戦のあと、マカッサルを挟むジェネベラン河、
タロー河の二つのの渡河作戦を指揮した岩崎主市海軍特務中尉(のちに大尉)は、その後2月28日、チャンバの山岳地帯での戦闘で敵の狙撃を受けて戦死した。敵情を偵察して本部へ報告に来てH部隊長の前で敵の機銃弾を受けたことが「セレベス海軍戦記」に描かれている。
平成19年3月20日、福岡県久留米市在住で故岩崎主市特務大尉の長女の秋山喜代子さん(82歳)から貴重な写真を頂いた。故岩崎主市の長男の恭之氏(故人)が調査、整理された貴重な資料である。メモには岩崎主市海軍特務大尉は昭和17年2月28日戦死、チャンバ地方オランダ軍掃蕩戦に於いて突撃寸前オランダ兵より狙撃され左胸貫通六発、即死す享年四十九歳と書かれている。右上の写真 (毎日新聞社発行 「一億人の昭和史、日本の戦史(8)太平洋戦争(2)」 昭和53年12月25日 P160)はチャンバの山中で岩崎大尉が戦死した地点に慰霊碑が立てられ大勢の兵士が敬礼しているところ。慰霊碑には「故海軍特務大尉岩崎主市戦死の地」と書かれている。タロー河 の鉄橋は鉄橋を突破するため決死隊を指揮した岩崎主市海軍特務大尉の功績を称え「岩崎橋」と命名された。(左下の写真)
大尉は他の戦死者とともにタロー河 の鉄橋に近くに埋葬されたという話と、バンティムルン近くに埋葬されたという話があった。今回ご遺族から頂いた写真(右下)の背景には山が写っているので、バンティムルンの墓地に埋葬され、戦後、墓標が現在の場所に移された可能性が高い。秋山喜代子さんによると、ひょっとしたら、現在のチャンバの旧日本軍人墓碑に並ぶ8つの墓標のうち左端のひときわ大きいのが岩崎主市海軍特務大尉のものではないかとのお話でした。
岩崎橋
中央が故岩崎特務大尉の墓標
タロー河(Sungai Tallo) はマカッサル市の北の外れに位置し、全長66 km、大きく蛇行し、いくつかの支流に分岐する。 河口幅は120 mある。現在マカッサル市内から空港へ向かいタロー河を横切る道路は現在では二つあり、ひとつは現 Jalan Urip Sumoharjo, Jalan Perintis Kemerdekaan、即ちハサヌディン大学の前を通る道路、もう一つはIKI造船所の前を通る現在の有料道路である。「セレベス海軍戦記」によれば、タロー河の鉄橋は長さ80mと書かれている。60年前と現在で河の状態が変わらないとすれば、 Jalan Perintis Kemerdekaan 近くへくると川幅は小さくなるので80mの鉄橋は必要ないように思われる。気になったので昭和15年10月発行の地図、(といってもオランダの地図のコピーで Batavia 1922 と書かれている)を調べてみた。王宮広場(現在のカレボシ広場)からまっすぐ東方向へ伸びる当時のマロスウェイは現在のJalan Urip Sumoharjoの手前で北方向へ向きを変え、現在の Jalan Sunu を経て、現在の有料道路の料金所の方へ続いている。しかし現在の橋の位置より河口に近い。一方、Jalan Urip Sumoharjo は行き止まりになって、タロー河まで到達していない。現在の有料道路に懸かる鉄橋もこんな形をしている。ひょっとしたら、旧岩崎橋(といっても元はオランダが建設した橋)を、1車線から2車線へ拡幅して現在も使われているのかも知れない。何年か前に橋の老朽化、車両の大型化で強度不足であるとの記事があった。
岩崎橋の位置については、戦時中マカッサル研究所に勤務した倉茂好雄氏の著書「蘭印滞在記」(清水弘文堂 1988年12月10日発行 112頁)には、下記の記述がある。
”この橋から川下約1キロまでの西岸一帯がパチナン村であり、ここで小野田セメント会社がセメントを生産していた。ここから河口までは約10キロあるが、直線距離にすれば5キロほどで海岸である。パチナン村での川幅は30メートルほどあり、水量が豊富で、曲がりくねった川の両側には広大な湿地帯が形成されている。西岸に沿って、マングローブやニッパヤシの群生する湿地があり、その西に広い塩田地帯がこれに続き、さらに丘陵をなした竹林地帯が続いていた。20万坪(約66ヘクタール)の敷地を持つ小野田の工場はこの塩田地帯にあった。”
橋から河口までは約10キロあると書かれているので、岩崎橋の位置を海岸に近い有料道路とする説は説得力を失う。一方、小野田の工場はこの塩田地帯にあったとも書かれている。塩田地帯は現在の養魚池になっている辺りなので、有料道路説も捨てきれない。(2008年4月14日追記)
現地で8柱の墓石を管理しているスパエダー(Hj. Subaedah)家によれば、戦死者の墓は最初マロス街道の岩崎橋(タロー河 の鉄橋を突破する決死隊を指揮し、のちにチャンバで戦死した特務中尉の名前をとって名付けられた。現在名不明)のところにあった。しかし戦後日本人が引揚げたあと、現地住民が墓石を持ち去り家の土台にしたり散乱していた時期があり、事情を知っていた先代が、「これは戦死した日本人の墓だ」 と散乱した墓石を自分の家の庭に集めたとの話です。一方、この墓石は、バンティムルンでの戦闘で戦死した将兵の墓を、所属部隊がスバエダー家の周辺に建立したのではないかとの指摘もあります。今回、秋山喜代子さんから頂いた墓地の写真を見ると、山の近くのようなのでバンティムルン説が正しいのかも知れません。真相はわかりませんが、もう60年過ぎたことだし、あの場所に墓石を集めてくれたスパエダー家の先代に感謝して8柱の勇士の冥福を 祈るばかりです。現在も戦友など関係者が時おり現地を訪れて線香を手向けています。スパエダー家の連絡先は Hj. Subaedah d/a Tad, Deang Desa Samanggi, Kecamatan Simbang, kabupaten Maros, Sulawesi Selatan
タイトルをチャンバでなく「マロスの旧日本軍墓碑」としたのは墓石のある場所はチャンバの手前であること。また上記「セレベス海軍戦記」にはチャンバ作戦については詳しく描かれていますが、正面作戦のバンチムルン側については記載がありません。実際に両方で戦闘があったと考えられますので、そこでチャンバ(郡)、バンチムルン(郡)などを含む県名の「マロス」としました。
上記マロスの8柱の墓碑のほかにマカッサル郊外には旧日本軍人慰霊碑がある。これは戦後戦勝国によるマカッサルBC級戦争犯罪裁判によって刑死された34名の慰霊碑で、その中には大戦後の 1947年(昭和22年)2月頃、インドネシア独立のために戦い、逮捕、銃殺処刑された3名も含まれている。
掲載 2006-2-3
更新 2007-4-6
更新 2007-4-8
追記 2008-4-14
追記 2013-10-27
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