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Konsulat dan Perkumpulan orang-orang Jepang di Sulawesi pada Masa Pra-perang
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松田 勲 MATSUDA Isao
写真:昭和16年3月23日 在マカッサル大日本帝国領事館開館記念(写真提供:土井正治氏)
Orang orang di depan gedung konsulat Jepang di Makassar untuk peringatan upacara pembukaan pada tanggal 23, Maret 1941.
取り敢えず入手できました資料を基に標題について箇条書きに纏めてみました。 顧みますと、昭和14年という年は、5月中旬に起きた満州国境のノモンハン事件の結末が影響し、またその前年の「東亜新秩序」の発表などとあいまって、やがて南進政策が企画されようとしていた時代でした。
ところが、資料によりますとセレベス島にはもう既にこの年、かなり多数の日本人が在留しております。ということはこれら日本人在留者は、自ら求めてセレベス島に渡って行ったことになりますが、はるか海を越えてゆくことをもたらした、惹きつける何かがこの島にはあったということでしょう。たとえば、北部セレベス島モゴンド
ウでコーヒーその他有用栽培物を栽培する農園が日本人によって経営されていましたが、これを可能ならしめた何かがあったと推測されます。マカッサルなど他の地区で
も同様のことが言いうると思われます。
他方、これら日本人在留者を受け入れた現地側の実情はどんな状況だったので しょうか。この点は大いに知りたい所ですが未だ資料にお目にかかっておりません。 更に遡って草分け的な先人たちの状況、これらの方々を含め日本人在留者の残した足跡、遺産、そしてこれらが現地の社会にどう融和し受け継がれているか等調べる価値のある課題が多いかと思われます。
(戦前)
昭和12年12月18日に開設。バタヴィア、スラバヤ、メダンに次いで第4番目の領事館。昭和17年2月20日に閉鎖。従って先の大戦開始後も暫らく続いていたことになるが、この間の事情については資料見当たらず。この領事館が開設される以前は、当地域は在スラバヤ領事館が担当。
昭和16年2月22日に開設。第5番目の領事館。従ってスラウェシ(当時はセレベス)には二つの領事館が開設されたことになる。しかし同年12月8日には閉鎖。この領事館が開設される以前は、スラバヤが当地域を管轄し、メナド領事館はその開設後もこの地域を管轄していなかった。
バタヴィア、スラバヤ、メダンの状況は次のとおり
(イ)在バタヴィア領事館 ー 明治42年2月14日開設、昭和16年12月8日閉鎖。
(ロ)在スラバヤ領事館 -大正9年3月13日開設。昭和16年12月8日閉鎖。
(ハ)在メダン領事館 - 昭和3年3月26日開設。昭和16年12月8日閉鎖
(戦後)
次に戦後の推移に関しインドネシア全体について時系列的に記すと次のとおり
(1) | 昭和26年11月22日ジャカルタ在外事務所開設 | |
(2) | 昭和27年8月5日在外事務所が廃止され、在ジャカルタ総領事館開設 | |
(3) | 昭和27年8月5日スラバヤ領事館再開> | |
(4) | 昭和33年4月15日日本国とインドネシア共和国との平和条約及び日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定が発効。同日、在インドネシア大使館開設 | |
(5) | 昭和35年12月15日在メダン領事館再開 | |
(6) | 昭和52年1月10日在ウジュン・パンダン総領事館開設(平成13年4月1日名称が在マカッサル総領事館に変わる。) |
スラウェシ(セレベス)島に於ける最初の日本人会は、大正4年に創立された「メナド日本人会」。次いで大正7年にマカッサルに「マカッサー日本人会」が創立され、更に大正9年に「ブートン日本人会」(ブートン島)、昭和8年に「モゴンドウ州日本人会」が創立された。なお、「モゴンドウ州日本人会」は「メナド日本人会」から分離して創立されたもの。
他の近辺の島(現在のマルク州内外)では、メナド領事館の管轄内に「テルナテ日本人会」(昭和6年8月創立、会員24名)、「アンボイナ日本人会」(大正8年5月13日創立、会員30名)、「ドボ日本人会」(明治38年5月27日創立、会員76名)が存在した。
(イ) | 会員数 186名(メナドおよび附近の在留邦人) | ||||||||||||||||||||||||
(ロ) | 会の目的 会員相互の交誼を深め、共同利益の増進を計る | ||||||||||||||||||||||||
(ハ) | 登記 昭和10年12月7日付け蘭印政府に登記完了。(蘭文会則テキスト別添) | ||||||||||||||||||||||||
(ニ) | 活動・業績
(註)「メナド」日本人小学校の推移
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(イ) | 所在地 セレベス島マカッサー市 | |
(ロ) | 創立 大正7年5月 | |
(ハ) | 会員数 124名 | |
(二) | 村田益太郎 | |
(ホ) | その他 教育基金を設けているので何らかの在留子弟に対する教育を行っていたと思われる。それ以外については資料がなく不明。 |
(イ) | 所在地 セレベス島ブートン島 | |
(ロ) | 創立 大正9年9月1日 | |
(ハ) | 会員数 12名 | |
(二) | 会長 尾田勝蔵 | |
(ホ) | その他については、資料なく不明。 |
(イ) | 所在地 蘭領東印度セレベス島モゴンドウ州モダヤ | |
(ロ) | 創立 昭和8年5月1日。従来「メナド」日本人会モダヤ支部として存続してきた、しかしメナドとは極めて遠隔セル地理的関係その他特殊事情に鑑み別個独立セル日本人会を組織。 | |
(ハ) | 会員数 正会員14名、準会員38名 | |
(ニ) | 会の目的 邦人相互の親睦・共栄を計り、併せて当地方官憲及び一般外国人との和親を増進し、以って帝國臣民としての品位と信用を向上セシム。 |
日本人会ではないが邦人実業団体等として、「メナド」日本人商業協会、モダヤ邦人農園組合、沖縄県人会(メナド)、蘭印産業組合(アルー島「ドボ」)が存在した。
(イ) | 創立 昭和9年3月 | |
(ロ) | 会員数 7社 | |
(ハ) | 会の目的 会員の強調連絡を図り、共同利益を増進セシム | |
(二) | 会長 セレベス興業合資会社 長野 智 | |
(ホ) | 活動 創立後、蘭印経済省、監督官庁の公認するところとなる。 |
商業に関し、主要事項は、欧州人および支那人商業協会と同様電信・書信を受け、邦商の利益に供す。 理事のうち1名は、メナド税関より対日輸入商品に対する評価委員として選任せらる。 蘭印日本人商業協会聯合会に所属し、同会より諸法令、商業・事業関連事項統計類の訳文送付を受け、全会員に配布している。
(イ)創立 昭和11年2月1日
(ロ)組合員数 9名 モゴンドウ州モダヤ又はモダヤ附近在留邦人として農園を経営する者を以って組織す。
(ハ)活動、事業、業績
(イ) | 所在地 メナド(メナド、トンセラ、ビートン) | |
(ロ) | 創立 昭和12年1月3日 | |
(ハ) | 会員数 85名 | |
(二) | 会の目的 会員相互の交誼を厚くし、共同して利益を計る。 | |
(ホ) | 活動・業績 昭和13年来「ビートン」における沖縄県人子女の為、不完全ながらも日本人小学校の授くべき教育を施している。 |
(イ) | 所在地 蘭領東印度「アルー」島「ドボ」 | |
(ロ) | 創立 昭和11年7月1日 | |
(ハ) | 組合員数 邦人7名、土人(?)2名、計9名 | |
(二) | 組合長 浦中 久吉 | |
(ホ) | 目的 産業に必要なる物品の購入・漁獲物の共同販売 |
バタヴィア日本人会 | 会員 292名 | 大正2年創立 | |
スラバヤ日本人会 | 会員 479名 | 大正15年創立 | |
スマトラ日本人会(メダン) | 会員 211名 | 明治30年創立 | |
新嘉坡日本人会 | 会員 787名 | 大正4年創立 | |
マニラ日本人会 | 会員 2,325名 | 大正13年創立 |
マカッサル | 83名 | ||
マナド | 17名 | ||
ビトゥン | 10名 | ||
クンダリ | 24名 | ||
ソロン | 13名 | ||
ジャカルタ | 8,102名 | ||
スラバヤ | 550名 | ||
インドネシア全体 | 11,221名 |
注:この資料は外務省外交資料館に保存されている多数の資料その他を元に取り纏めたたものです。
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