セレウェス滞在記(2)

 

永江 勝朗

knagae@topaz.plala.or.jp


目次
第6話 夢の街マカッサル
第7話 マカッサル界隈にて




第6話 夢の街マカッサル

軍政下のマカッサル

 1942年昭和17年1月11日海軍の落下傘部隊は、北セレベス・マナド市外、ラングアン飛行場に降下、別にビトン港に近いケマ海岸に上陸した陸戦隊とともにマナド地区を制圧しました。4月には南セレベス・マカッサルを占領しました。マカッサル地区攻略戦では、マロス・チャンバ道路で激戦があり、日本側に戦死者 が出ましたが、全体の損害は軽微で、市街に戦闘の傷跡は全く見当りません。5月頃豪州から爆撃機が襲来し、地元にいた海軍機と空中戦を行い、海軍機が体当りで撃墜したと日本にいるうちにニュースで聞いたことがあります。

 オランダ統治時代セレベス島から東方パプア島までは「大東州」と云ったようです。それがそっくり日本海軍の軍政管轄となったのです。州都としたのは、やはりマカッサル市で、私の行った頃は民政部だけでしたが、後に州民政府が設けられました。軍政の実態は、日本の中央政府、地方都道府県から派遣された文官が、総てを仕切っていました。海軍ですから陸戦隊はいるはずですが、兵隊たちはどこにいたのでしょう。指令部の玄関に衛兵が立っていたくらい、街頭で兵士の姿を見ることは殆どありませんでした。

戦争の状況

 この年6月に、太平洋ミッドウェイ海戦で、日本海軍が大敗、それからアメリカの本格反撃が始まるのですが、情報は管理され、悪いニュースはまったく私達の耳に聞こえて来ませんでした。ですから6月から39日間の航海中は恐怖心も緊張感も持たずに済みましたし、マカッサルもも前通りの暮らしが続いていました。短波放送の聞けるラジオが残されていて、1、2度外国放送を聞いたことがありましたが、音質が悪く聞きずらく、もちろん聞いてはならないことになっていたし、無理に聞く気にはなりませんでした。軍発表に信頼すると言うより、皆事態を楽観し切っていたのかもしれません。

南洋貿易会社

 小さな会社ながら、南洋群島(サイパン・パラオ・トラック・マーシャルなどの島)での長い商業活動から海軍とは、密接な結びつきがあったようです。セレベスはマナドとマカッサル支店が、大正5年に開設されたとあり、コプラ、メイズ、綿、コーヒー、ココア、タンニン剤などを扱っていたようです。会社のマカッサル地域の土地感は抜きん出ていました。そんなことから前「南貿」マカッサル支店長の山崎軍太さんが、特命でマカッサル市長に任命されていました。ちなみにパレパレ市長は、三井物産出身のの牧野さんでした。南セレベスは、海軍軍政下では唯一の纏まった米作地帯でした。会社はこの地域の「米の集荷・供給と海軍への野菜、食品、の供給する」大使命を与えられたのでした。最も早くマカッサルに来た人逹は、直接南洋群島から私逹より1、2月も前に渡航、仕事を始めていた様子でした。沖縄・糸満の「追い込み漁業」を主力とした、マカッサル水産会社をすでに進出させていました。

NKK

 7月1日、私達の航海中に南洋貿易会社(NBK)は南洋興発会社に合併していました。南洋興発会社の事業の柱は南洋群島、サイパン、テニアン島の砂糖黍栽、砂糖生産でしたが、1944年この島は戦場となり、全施設と数多くの生産者、従業員、家族を玉砕戦で一挙に失い、終わった会社です。セレベスではNKK(エヌカーカー)と名乗りました。八月、南興社長栗林徳一さん(北海道・室蘭・栗林商船会社社長)が、南方に展開した支店を歴訪、新しい体制が整ってゆきました。

マカッサルに上陸

 さて、7月23日大航海から解放され、上陸できた6人はティガローダ(ベチャ)に乗り、会社の事務所に向いました。岸壁のギラギラと太陽に焼けかえる舗道を暫く走って、うっそうと街路樹の茂る広い舗装道路に入り、高級住宅地街「プリンセンラーン」43番地の大きな住宅を事務所にしたマカッサル支店に着きました。今の地図を見ると「プリンセンラーン」は「Tolempangan-St」でないかと思うのです。1991,96と訪れた時、地番を頼りに尋ねたのですが、建物が皆変わっていて結局所在がつかめませんでした。プリンセンラーンは戦時中「たちばな通り」と改名されたようです。

事務屋になる

 所長にお会いしました。当時は五十代、南貿会社の社暦は古く前職はトラック島支店長、叔父はこの方の下で次長をしていていましたから、私がその甥であるのは承知してくれていました。私達は「野菜栽培技術指導員」で派遣されましたが、私の他5人は千葉の農学校出身で、農家だったり本物の技術者でした。私も一応北海道の農学校出ですが、何しろ北国、家庭菜園の菜っぱもいじったことがなかったのです。

 「会社に入るまで何をしていた・・」
「12月学校を出て、地元の産業組合臨時雇で算盤の稽古をしていました」
「そうか、それなら事務所で庶務の手伝いをやりなさい」

 即決です。他に適当な見習いになれそうなのがいなかったからか、北海道で一冬家の中で過ごして、日に焼けていない生っちょろい顔をしていたのを配慮して下さったか、多分両方でしょう。「事務屋永江」がここで誕生したのです。所長はこの直後、マカッサル水産会社に転属しました。

主任はお殿様

 庶務、会計主任Mさんは東大考古学卒業、私より10歳年長、徳川家親藩岐阜・高須藩第16代の子爵です。色白でふっくらとして、如何にも高貴な方に見えました。自宅から、毎月200円の仕送りを受けていました。私と同じ本州避難組です。本物の殿様と向かい合っての毎日、係員は私1人、心許ない出発でした。避難組には元俳優という人もいました。一緒に来た4人は、既に発足していた高原「マリノ」野菜農場に行き、成田の親分は佃煮製造の経験が買われてそちらに回りました。後に私は「米穀部」に配置替えになりましたが、マカッサル支店勤務は7ケ月続きました。

 ミン・コレア(明・高麗)

 昼寝の時間に戸毎に古い陶磁器を売りに来ました。マカッサルで陶磁器をこう呼びました。Mさんはそれが専門、陶磁器のことを教えてくれました。「昔カンボチャ、中国とこの地方の海産物その他の品を盛んに交易した頃、陶磁器は貨幣の代わりに使われた貴重なものだ。この陶磁器の出処は、近郊スングミナサにあるラジャー・ゴア(土候)一族の墓の副葬品を盗掘したもの、その頃のものに間違いはない。気にいった品があれば手に入れたら良い。」。私も小さい品をいくつか手に入れ宝物にしていましが、移動の度に皆無くしました。

 給料 ー 東京本社で貰った辞令では「月額43円(ルピア)」でした。この他に海外手当が10割付きましたが、これは実家に送られていました。1ルピアは、戦前平和時は2円位の交換比率だったようです。そこへ乗り込んで、1対1の割で「軍票=戦地だけで通用させた札」を流通させました。

文化ショック

◇心得

 会社が外国経験の長いので、この土地で日本人として日常の生活をどう過ごすかその心得を言い渡されました。

  1、裸、裸足で外に出ないこと。
  2、街頭で立ち食いなどをしないこと。
  3、家庭使用人とは一線を画し、べたべたと付きあわないこと。

◇住まい

 48番地角の住宅の1室を与えられました。「プリンセンラーン」(アンパプルラパン)は最初に真剣に覚えたマライ語、これを 言わなければ帰って来れないからです。住宅の前に紅い花が咲き乱れていました。ブーゲンビリアと言うのでしょうか。廻りに大きな木が生え、森の中に家があるようでした。鳥の他に猿もいたようです。

ー 通りの名前 オランダ語の名前が付けられていました。プリンセン・ラーンの他に、フェネラル・ファンダレン・ウェフ=英語読みゼネラル・バンダレン・ウェィ、ゴア・ウェイが記憶にあります。

ー 地番のつけ方 通りの右が奇数なら、左は必ず偶数でした。どんな小路にも名前があり、同じ要領で地番が決められていました。今もそうらしいですね。

ー 家屋 全部煉瓦造りでした。地震のない処なので簡単に積み上げて作るようです。家主の大半が華系人、アルメニアの名もありました。国籍アルメニアというのは、ロシア人ということなのか、未だに良く分かりません。間取りはどの家も殆ど同じ、玄関に続いて廊下兼用の部屋が二つ、三つ続き、それに対応して寝室、この一番奥の部屋が水浴び兼トイレ室でした。母屋の奥の渡り廊下を挟んで厨房、下男(ジョンゴス)下女(バブ)の部屋がありました。

ー 寝室 とても広くとっていました。ベッドも大きい木製、それに昔の王様の座席にかかっている「みす」のような、蚊帳が天井から吊られていました。ごろんとそこに横たわるとなんとも言えない満ち足りた気分です。戦後に行ったバリ、マカッサルのホテルで蚊帳は見たことがありません。日本同様蚊の駆除は解決済みなのかも知れません。

ー 昼寝 あちらの勤め人は家で昼食をとり後昼寝をする習慣があって、私達もならいました。マライ語でなんと言ったか忘れました。寝る時にダッチ・ワイフ(長さ1メートル位の抱き枕)を使うのにもいつか慣れました。ちなみに私は後にデング熱にかかりましたが、マラリヤにはなりませんでした。「プリンセンラーン」通り、昼寝の時間帶は、トラック車の通行が禁止されていると聞きました。

ー カマルマンデイ 上等の家にはシャワーがありましたが、温水設備はなく、水溜めから柄杓ですくってかぶるのが普通でした。朝の水浴びはブルブルする位寒い感じ、でもこんな刺戟が南方の暮しに必要なんだと教えられました。

ー 石鹸 ルックス

 日本で使ってきたものに比べて、質が違うことは子どもでも分かり「すごい」と思いました。

ー 水洗トイレ

 水洗トイレもマカッサルで生まれて始めて出会ったようなものです。大体木の中ぶたがついていました。田舎に行くとこれが無い処もある。こんな時は日本式でやる外はありません。壁側にビール瓶が並んでいました。その瓶は私も半年後、田舎に行ってから使うようになりました。

ー ジョンゴス 各住宅には1人独身青年ジョンゴス(この職種を今何と呼ぶでしょう)がいて、掃除、洗濯、雑用を受け持っていました。


◇衣装替え

 日本から着ていった長袖、長ズボンは、全く用をなしません。中国人の洋服屋が寸法を取り、カーキ色の半袖、半ズボンを二着、厚地の白の木綿の背広の上下を、またたく間に仕上げて来ました。靴も靴屋が来てスマートなのに新調、東京で買ったヘルメットの外は全部南方物になり、恰好だけは一週間前の渡航組に追いつきました。少しずつ物が増えて来たので、住宅を回って歩く物売りから「楠」の衣装箱を仕入れました。オランダ人の空家からせしめたものかもしれません。

◇食事

 事務所の裏庭に厨房があり、母屋の奥に食堂が設けられていました。社員は全員単身ですから、ここで3食をとりました。ジャワ人のおばさんが「コッキィ」でした。本人はいつもシレの葉をグチャグチャ噛み、口は南蛮を食べるせいか真っ赤で、衛生的に見えなかったけれど、男女何人もの部下を指揮して、にぎやかに作る料理は皆さんお気に入っているようでした。

ー メニュー

 記憶は薄れたけれど、北海道出身の少年には驚きの連続でした。朝の定番は、パン・目玉焼・スープ・牛乳(水牛の乳もありました)コーヒー(釜でぐらぐら煮立た濃厚なものでした)パパイヤ・ピーサン(バナナ)など果物は必ず出ました。私の町では、1936年に初めてパン屋が開業した位ですから、このメニューは、映画でも見たことのない、最大の文化ショックだったと言えるものでした。昼と夜のメニュー、鶏肉、豚肉、野菜スープ、それに御飯がとても美味しいかった。(米はこの会社が集荷していましたから、最高のお米を食べていたのです)お酒は飲まなかったので、大人達が何をたしなんでいたのでしょう。

ー 食費

 最初は月15円で始まったのですが、毎日の物価の値上がりが大きく、数ケ月後に月18円と固定し、以上の経費は会社持ちになりました。

◇海外生活経験者

 「プリンセンラーン」住宅街なので、道を歩く日本人を多く見かけることがありました。中に体は私より小さく、相当年長なのに際立ってスマートな歩き方をする人がいました。うちの会社の人ではありません。首をあげ、胸を張り、手を振り、比較的大股に堂々としています。所謂「日本人離れ」をしていました。
「あの人は何なんですか」
「アメリカ帰りの人だよ」
連れが教えてくれました。私の「心得」にもう一つ大きい項目が追加されたのです。

◇街の物売り

 暑い日中様々な物売りが、独特ののどかな呼び声で通りを流して行きました。お客は各家庭の従業員のようでした。
カッチャン・ゴーレン! ナシ・ゴーレン! サッティ・アィアム!

◇自転車(スペダ)

 住宅の近くに女学校があり、時々下校の娘たちを見ました。少し色は黒いけれどそれは健康色で、手足はスラリ伸びスタイルは抜群です。その子達の多くが自転車で通学していました。自転車は日本で私の知っているものと大分違っています。タイヤの直径が大きいらしい、後は荷物台でなく、華奢な台でした。驚いたのは、後ろの台への乗り方、皆横乗りなのです。まことに「様になり」スマートに見えました。車はドイツ製だったようです。




第7話 マカッサル界隈にて

マライ語ことはじめ

会計係は落第

 庶務会計係見習になった私は、翌日から厨房と打合せのため、急いで「マライ語」を覚えなければなりませんでした。日本から持って行ったのは、小さな日マ辞典一冊です。(*当時「バハサ・インドネシア」ではなく「バハサ・ムラユ」と言っていました。)事務所の大金庫に鍵を入れたまま、ドンと扉を締め、開けられなくしました。スペアの鍵が無いのです。叱かられました。華系の職人が何日も掛かってやっと元どおりに直しました。

米穀課に移籍

 庶務係の成績が芳しくかったのと事務所が大きい場所に移転したのに合わせ、私は米穀課に移籍しました。課長はWさん、東京府下育ち、肝っ玉の太い人でした。米穀課の3年間、20歳そこそこの私に次々大役を預け、その度に「一生懸命自分で考えてやって見ろ。失敗したら骨は拾ってやる」と送り出しました。力不足で、泣いて支店に戻ったこともあります。でも傷が癒えた頃また新しい任務を与えてくれました。一生を貫く信条の一つをここで身に付けたように思います。

最初の挨拶

 何故その時「セゲリー」に行っのたのか、記憶はないのですが、上陸後1月余りたった頃です。セゲリーはパレパレに行く途中、マロス、パンカヂェネを越えた先にあります。国道から左に入った海岸に近い田舎街です。「行ったら郡長に挨拶するんだよ・・」と課長に言われ、道々「どう言ったら良いか・・・」沿道の景色も目に入りません。「サヤ・オランニッポン、ナマ・ナガエ・・・」棒のように突っ立って、そこまでは言いましたが、その後「スラッマット・シアン・トアン」握手もしたと思うけど、上がりっ放しの記憶だけ、後はおぼろになりました。

ミナハサ喫茶

 上陸したての頃、マカッサルのあちこちに日本人専用の「夜の喫茶店」が出来ていました。1つのテーブルに客1人女の子1人が付き、客の話相手をする。酒が出たかどうか、大人になる前の私に酒は用がなかったのですが、店で酔っ払いは見かけなかったようです。店のルールはこんなでした。コーヒーか紅茶、彼女と2人分を取ります。それは1杯50銭、ですから2杯で1円、彼女へのプルセン50銭(チップ・彼女たちの収入になるらしい)計1円50銭が私の支出、これで一夜、テーブルと彼女を独占できます。最初連れて行ってくれた人は1船先に着いた年長の人です。場所は大埠頭に近い中華街の3階でした。 丸テーブルに椅子4脚のセットが10組位、当時のことですから、音楽装置はありませんでした。先輩は私を紹介したままそれきり来なかったので、会社で通ったのは私だけでした。

 当時「海軍特別警察隊」が在留日本人の風紀を取り締まりや、憲兵の役もしていましたが、この喫茶店は公認らしく、警察隊の立ち入りはありまませんでした。考えたら私のようなケチな客ばかりで店が成り立ったのかと思います。しかし裏商売は無いように見えました。彼女達の多くは、親がオランダ人に近い位置にいたミナハサ人逹で、親が失業したり、家庭の事情で働くことになった20歳前後、女学校卒業か中退、キリスト教信者の人達です。私が偶然指名した彼女もミナハサ娘、背は高い方で18歳でした。美人ではなく地味で、年のわりに落ち着いて付き合い易くかったのです。名前は忘れてしまいました。服装は普通の洋装でしたが詳しくは覚えていません。化粧をしていたのでしょうか。女性がズボンの服装はまだない頃です。 私は4人兄弟の長男坊、日本では隣りの女の子と親しくしても叱られる時代でしたから、人生で異性との交遊は、おふくろの次がこのミナハサ嬢だったのです。当然大変高揚したと思います。 誰かが先に行って指名すると、その夜のデートは駄目になるのですが、そんな目にあった記憶が無いのは、いつも早く行ったか、ひまだったのか、売れなかったのかですね。

 夕食が終わると、殆ど毎晩通いました。行きは急いでティガローダー(ベチャ・三輪車)だったでしょう。何時間も、不自由な言葉で一体何を話していたのか・・・。「アパ・イニ、アパ・ナマ」「月がきれいだ、星が光っている、この花の名前はなに?歌を教えて・・」などと言った覚えはあります。前の晩に覚えた言葉、日中仕事で習った言葉を、皆んな思い出してビチャラ・ビチャラ話します。帰ったら辞書と首っぴきに復習でした。艶っぽい処に発展する余裕はなかったようです。

帰り道のコーラス

 店が終るのを待って、彼女たちと一緒に歩いて帰えることもありました。この種の店の終る時間は同じだったようです。月の光の明るい夜、連れ立って帰えるようになり、彼女達から自然に流れ出るのコーラスの美しさ、とてもロマンチック・・素敵です。いつもうっとりとさせられたものです。雨の夜は私のベチャ(三輪車)で送ったこともありました。彼女に熱を上げたわけではないのですが、事務所にはまだ同年代の者が居なかったので、これが憩いと充実の時間でした。

クリスマスの夜

 彼女の家のクリスマスに呼ばれたことがあります。母がふるさとのカトリック教会の信者で、私も小学校時代日曜学校の生徒で、信者を志したこともありましたので、喜んで招きに応じました。彼女は長女らしく、両親と兄弟、姉妹と大勢の暮らしのようです。賛美歌「清し・この夜」のマライ語で教えて貰い、皆んな一緒に歌いました。

 

 * ミナハサ族・メナド人 ー 今はどう言うか分かりませんが、当時は「オラン・マナド」とは言わず「オラン・ミナハサ」私にはこう呼ぶ方が懐かしいです。 マナドもメナドと言いました。地図で見ると「ミナハサ」とは北セレベスの先端部マナド市、ビトン市を中心とした一帯を言うのですね。当時から「ミナハサ」はインドネシア一「美人の産地」として定評がありました。1996年始めてマナドを訪れ、出迎えたガイド嬢の美貌に「なるほど、これぞ本場ミナハサ美人・・」驚いたことがあります。



見る見る増える借金

 私の初任給は43円(ルピア)食費は月18ルピア、煙草代もいる。見る見る前借りはかさみ、12月頃には70ルピアにもなって、課長にこっぴどく叱られ、喫茶店通いを諦めることにしました。

泣く泣く涙の別れ

 別れの夜は、手ぐらい握ったかも知れないけれど「口説く」などと言う術も知らない純情な付き合いで終わりました。その夜の2人はただ泣きの涙、信じて貰えるでしょうか。それから1度もこの店に行ったことがないので、彼女も店もその後はどうなったか全く分かりません。

言葉

 お陰で、この頃私のマライ語は、日常生活では不自由のない程度に上達していました。「言葉は楽しく使ってこそ覚えられるもの」ここで悟ったのです。「英語だって、こうして教えてくれていたら、きっと覚えられただろうに・・・」戦後思ったもの、でも後の祭でした。私は旧制中学、農学校と就学しましたが、日中戦争が日益しに拡大し米英排撃の風潮が高まり、英語教師は肩身を狭くした頃なので、それを良いことに学ぶことをしないで過ごしたのです。



良き友人たち

新しい事務所

 9月、事務所は埠頭に近い中華街の広い建物に移転しました。下が天井の高い倉庫の2階で、長い階段に続くベランダから中華商店街の屋根を見下ろすように見え、その先が大埠頭でした。華系人、インドネシア系男女の職員が働くようになりました。私の仕事は日本人家庭向けの米の販売です。お客に販売の伝票を渡し、倉庫から米を受け取って貰う案内、そんな仕事でした。

サインとタイプライター

 販売・出庫伝票に私のサインを書くことになりました。 あちらの連中の指導で「K,NagaE」をオランダ式筆記体で書いたら、仲々面白い。それをずうっと使い続けました。今はパスポートのサインもこれにしています。タイプライターも遊びで習いました。60の手習いで84年にワープロに取り付き、それは仮名打ちでしたが、98年暮れからのパソコンは、いつの間にかアルファベット打ちに変わっていました。50余年手が覚えていました。

アンボン族の娘

 事務所が移転し採用されたのが彼女でした。年は20歳前後、背は低く小柄、色は黒く、髪の毛は縮れ、アンボン族が一目でわかりました。目は澄んで、とても怜悧に見えました。実際付き合って見たら賢くしっかりして、ズバズバとものを言い、私はしばしばやり込められていました。父親はやはりオランダに近い高官で失職、彼女が働きに出て一家を支えていると言うのです。彼女の発音がいつも鼻に掛かかるのが気になり、それを言うと家の日常会話が使うオランダ語だからと言うのです。「フェネラル・ファンダレン・ウエフ」オランダ時代の道路の名前、鼻に抜ける音が沢山ありました。後に赴任したセンカンで出会ったミナハサ人の医師の家でも、家庭内会話はオランダ語だと多少誇らしげに言っていました。オランダが四百年近く支配した植民地です。その知識階級は仕事上数々の言葉を使い分けなければなりませんでした。何世代も故郷を離れ、長いオランダ人に仕える中で、家庭の会話がオランダ語になることに、最初は驚いたり軽蔑したりしましたが、やむを得ないことではなかったかと思うようになりました。

 * 戦後、インドネシアは独立戦争があり、ジャワ人中心の政府ができました。オランダ人との混血(ハフカース)アンボンなどオランダ色の強い人達は迫害から逃れ、オランダ本土に移住しました。その数は十万人余りと聞きました。彼女が生きていたら、今どこでどうしているでしょう。

北海道弁

 自分は気付かなかったけれど、東京弁とは相当違っていたようです。私は千葉弁を「すごい言葉・・」と思っていたのに「お前と話していると、いつも怒鳴られているみたいだ・・」こたえました。考えた末、女性語を使うことにしました。 習い性となり、帰国したら今度は就職先の女性たちに「言葉がおかしい・・」と随分笑われたものです。

カントン(広州)料理目当て

 事務所の日直を専ら引き受けた時期があります。昼食の中華料理が目的でした。カントン料理店が隣りでした。スープ、八宝菜、酢豚、焼飯位だったけれど、住宅で出るジャワ風西洋料理が鼻について来ていたからでしょうか。これはたまらなく美味しかったのです。

電柱の見えない街

 マカッサルの街の住宅街も、商店街にも表通りから電柱が見えません。始めは気付かなかったのですが、新しい事務所が3階ほどの高さなのでベランダから中華街の屋根を越えた後ろが見え手、ある発見をしました。商点の後ろが空き地で、そこに屋根よりも高い鉄パイプの電柱一本建っています。それから辺りの店に放射状に送電線が出ていたのです。この電柱と隣の区画の間の電線は地下埋設だったのでしょう。 終戦直前の8月1日、私も兵隊として招集され、そこで鉄パイプ電柱に再会しました。電柱を輪切りて迫撃砲にしていたのです。敗戦までの15日間、それで訓練していました。 あれから半世紀以上経ちますが、日本の街の表通りから電柱を追放する文化が、未だに生まれないのがいつも不思議に思います。

カンピリ婦女子収容所・山地海軍兵曹のこと

 海軍がセレベスを占領し、住んで居たオランダ人の男性、女性は別々に収容されました。47年8月頃まで、婦女子だけマリノに居ましたがその後、スングミナサに近いジェネベラン河畔のカンピリに移されました。(ここを訪れたことはありません)その所長を始めから終わりまで務めたのが山地(路)兵曹でした。 兵曹は会社事務所に定期的に収容所のお米を仕入れに訪れました。 太った温和な風貌の方、直接にほとんどお話したことは無いのですが、若い私にもいつも穏やかな物腰で接してくれました。その時はそれで終わったのですが、敗戦後南方の収容所の管理担当者が、捕虜・収容者虐待の咎で軍事裁判に掛けられ、時には死刑になるケースも多かったようです。しかし、山地さんも裁判に掛けられた時、カンピリに収容されオランダに帰国していた婦女子達が山地さんの刑免除運動に立上り、それが受け入れられました。こんな事例はカンピリだけでした。

 戦争末期、何度となくあったオランダ人婦女子を慰安婦にしようとする動きを「陸軍管轄下のジャワとは違う」と海軍セレベス軍政関係者、山地さん達の尽力でそれを防ぎ止め、日常の処遇も大変人道的に行われていたということもありました。裁判の後、オランダと日本の暖かい交流が始まったとのことです。山地さんは九州の出身、今は亡くなっておられるようです。 戦時下のマカッサルを語るの上で、欠かせない挿話だと思います。



友人交遊

華系人ホンさん

 戦前会社支店に勤めた唯一の人、華系ホンさんは、米穀課の会計係、仕事も出来るけれど、遊び人でもありました。彼はミナハサ喫茶通いを禁じられた私を、しばしば引っ張り出して、遊びの仲間に入れてくれました。この人逹との付き合いを通じ、インドネシア社会の華系人の重い存在を知りました。役所関係は別として、マカッサルで商工業を行うには華系人の助けを抜きにしては、仕事が出来なかったのです。会社が担当した米の集荷、販売も、戦争前実は華系人が全面的に支配していた仕事なのです。

華系人

  同じ北アジア人である日本人と華系人とは、大きな違いがあるように思いました。華系人は何世代たっても「オラン・チョンコ」の意識を失わない、顔付も華系人の面影げを残し続ける何か力があるようです。住宅も中国本土の様式のままに造ります。ぐるりを高い壁にし、入り口は一つ、とても外敵を寄せつけない閉鎖的な構造です。華系人相互の団結、助け合いはとても強固です。でもこの特質がインドネシア華系人を、ことあるごとに、原インドネシア人の憎悪の的になることが多いのです。その原因はインドネシア人にもあるけれど、華系人にも全くないとは言えないようです。同じ華系でも、タイの華系人は経済は勿論、政治の分野で大臣を務める人が何人も出ています。この違いはどうしてでしょう。

日系ダブルス

 ミナハサ(マナド)出身の日系ダブルスの青年、私より少し年長でした。彼はマナドで育ち、日本人の父親と戦前日本に引き揚げ、通訳として来た人でした。彼は一見して日本人離れの風貌、挙措動作でした。彼もホン氏同様発展家です。会社本隊が上陸した当初は通訳の用事も多かったのですが、私達が行った頃は、社員は各自大分マライ語がガ使えるようになっていたので、用事が減って手持ち無沙汰のようでした。 事務所が小人数で、彼より年下は私だけだったので、彼とミスターホンはよく夜の遊びに連れ出してくれました。翌年春私が辺地に行き、半年ほどして事務所に戻ったら、支店に彼の姿はありませんでした。いつどこに配置転換されたか、それに私が関心を持ったのは、実は近年マナドに通うようになった最近のことなのです。しかし、今は名前も忘れたし、マナドで聞いて見ても何の手がかりは掴めていません。

吟遊詩人 タン君

 タン君はミスターホンの引きで、会社の米倉の庫番になった人でしたが、夜の遊びの方は皆んなの指南役でした。丸々太って、細い目、元々は曲芸の芸人だったそうです。30代前半、トンボ返りなど得意中の得意、美事なものでした。ギターを弾くのにと爪を長く伸ばし大切にしていました。月の明るく照り映える夜、ティガ・ローダー(三輪車)に、何人も乗って、二階建て住宅街などに繰り出しました。タン君の弾くギター「恋の歌」の調べがゆっくり流れます。二階の女性が声をかけてくれました。「吟遊詩人」と言う言葉を知った時「そうだ、彼は正しくそれだった!」と思ったものです。

パッサル・マラム

 彼の本番の芸を見たことがあります。パッサル・マラム(夜の市・今も開かれているでしょうか。収穫の終わった時期、小さな博覧会に似た行事があって、この中で賭博が公認で行われるのです)年に一度のお祭りです。 彼は主催者に招かれ芸人の一人になります。私達は彼の演技時間に間近かに陣取りました。芸は自転車のハンドルに跨り、足で前輪を操作して立ち続け、ギターを弾きながら、幾つも歌を歌うのです。素晴らしい芸でした。歌が終りお客の拍手喝采を浴び、プルセン(チップ)を貰うニコニコ顔の彼の姿は今も目に浮かんで来ます。

サヤ・チョンコ !!

 あちらの人達だけが入れる、サービス女性もいる小さなバーがあちこちにありました。いつもの良友連が揃って出かけました。こんな時私は、昼の半袖、半ズボンスタイルから、取っておきの白上下の背広を着込んでお供しました。行って見ると格別のことのない店です。酒も椰子酒、皆でワイワイやっていました。私は当時酒はまだ全然飲めません。 突然警察隊(憲兵)が2、3人入って来ました。日本人が居るか臨検に来たのです。 居合わせた人間に順番に懐中電燈を突き付けます。この頃は、マライ語は板に付いています。あわてず眩しそうに「サヤ・ティオンコ・トゥアン=私は中国人・・・・」 無事でした。連中は私を顔つき、服装から華系人と認めたのです。 何故か華系人は、何世代経ても日本人より色の白い人が多い。私は南方に行く前、北海道で冬中外に出なかったし、マカッサルでも室内勤務ばかりなので日焼けしていないのです。

海軍バット(精神棒)

 一番暑い日中岸壁の倉庫の辺りを歩いていて、その辺の施設に立っていた海兵隊の歩哨(門番)に敬礼をしなかったらしく、掴まって倉庫のかげに連れていかれ、尻にバットを食わされました。(何か大切な物を保管する倉庫でもあったのでしょう・・・)バッタを喰うのは船の中に続いて二回目です。でも叩きかたが軽かったので、寝るまでには至りませんでした。海兵隊の歩哨も年は私と大して変わらない、一見して若くて生意気に見えて腹がたったのでしょう。その後もう一度何かでバッタを喰った気がするのですが、どこでだったか忘れました。

トゥアン と言う言葉

 これは今は死語らしく、旅していても全く聞こえて来ません。人と人の関係の差別語になったか、五十年の年月を感じました。

学んだもの

 この時期に得たものは沢山あります。「必要」と言うことが、最良の先生になったのでしょう。 外国語を学ぶにはどうしたら良いか・・インドネシアには様々の人逹がいることがわかり・・その人逹との付き合いを数重ねながら、いわれの無いコンプレックスを段々無くして行きました。そして、このインドネシアで生きる自信が次第に芽生えて行ったように思います。

モロタイ島から爆撃

 少し後のことになりますが、1944年昭和19年に入って、ハルマヘラの北モロタイ島にアメリカ空軍基地が設定され、そこからマカッサルへのB24爆撃機の爆撃定期便が始まりました。思い出の喫茶店、会社の事務所のある中華街1帯は、真っ先に攻撃目標になって、早い時期に廃虚化、瓦礫の山でした。私は当時マロスにいたので、爆撃の実状は知らずに過ごしました。 戦勝後のことを考えてか、住宅地帯は爆撃目標から外していたようです。

支店社員の推移

 あの時期,後が続いていたのだろうか? 1943年昭和18年4月1日現在の社員名簿があります。 支店長以下嘱託1名、書記5名、書記補6名、見習6名、傭9名合計28名でした。これだけの人で支店、パレパレ・センカン・ワタンポネ・ソッペンに米穀関連の店を出し、何万トンもの米を集め、マカッサルに送り、市民に配給し、前線にも送っていたのです。その他に野菜直営農場、委託契約栽培事業もやって居ました。勿論とても手不足だったでしょう。名簿を見ると私は傭の下から3番目、2番目は一緒に来た年下の人です。若い人間がこの一年に全然増えて居ません。支店が本社に要員の増強を求めなかったとは思えません。本社から要員をきちんと送り出して居たら、増えない理由はただ一つ、日本を出発しマカッサルに到達しない不幸な人逹が、相当数いたことになります。43年11月、新たに来た人を知っています。その頃まで、増員は届かなかったのでは無いでしょうか。

引き揚げ後

 1963年昭和38年7月28日現在、日本引き揚げ18年後のマカッサル支店所属旧社員名簿もあります。全国に108人帰ったことになっています。この人のほぼ半数は1944年から45年にかけ、パプアニュ−ギニア、アンボン、ハルマヘラなど東部方面から、マカッサルに苦難の逃避行の末、辿り着いた人逹ではなかったかと思うのです。1944年暮れ私の駐在したマロスに配置されたS君は、アメリカ機の爆撃に曝されたハルマヘラ島を逃れ、セレベス島の北から南へ歩き通し(千五百キロ余り)縦断、45年3月に来たRさんはニューギニアからアンボンを経て、海路マカッサルに向い、港を目の前に船が撃沈、漂流、救助された人でした。

センカンへ赴任

 1943年昭和18年春、南セレベスの丁度真中のるセンカンに駐在していたY主任に誘われ、そちらに赴任しました。始めての辺地勤務が始まったのです。この頃マカッサルに泣き別れする人はもう誰もいませんでした。