セレウェス滞在記(3)

 

永江 勝朗

knagae@topaz.plala.or.jp


目次
第8話 ジャラン拾い書き




第8話 ジャラン拾い書き

センカン

 1943年になりました。マカッサル事業所勤務もそろそろ飽きて来た頃です。センカンに駐在の安永さんから「一緒にセンカンに行かないか・・」声をかけられました。安永さんはセンカン駐在主任、台湾籍、戦前から南洋貿易会社支店に勤務、マライ語は達者、セレベスの事情に詳しい人でした。
「ぜひ連れていって下さい」飛び付きました。当時、私は東はマリノ高原、北はセゲリーまでしか行ったことがなく、田舎で働いてみたいと願っていたのです。センカンは南セレベスの丁度真中辺り、テンペ湖畔にあり、ワジョ分県行政の中心地です。センカンへ行くには、マカッサルから北上、マロスで右折(バンティモロンの滝を左に)チャンバ渓谷を上り詰め、ワタンポネの領域に入り北上、ポンパヌアからセンカンに至ります。距離おおよそ200キロ、マロス〜ポンパヌア間は未舗装でしたが、行き交う車は皆無、路盤は良く整備されていました。パレパレ経由は全部舗装でしたが、4〜5時間かかりました。安永さんの車は支店にも無かった「フオ−ド」乗用流線型です。乗用車の快適なドライブ、生まれて始めての経験、大感激でした。

 セカンでの宿舎は、街の東側、山の上のパッサングラハン(公共の宿泊所)です。会社の事務所も住宅もまだ決ませんでした。宿には他に綿花栽培調査の2人連れが滞在していました。

ラオチュウ

 安永さんの晩酌の相手をしました。彼は寝室に老酎(ラォチュウ)の大きな壷を数本たくわえていて、テンペ湖で採れる塩乾魚のカラ揚げを肴に一杯飲むのが常でした。私もおしょうばんに預かりました。でも、老酎は余りにもアルコ−ル分が強く、水割りの知恵もなかったので、ただ辛いだけ、味は分からずじまい、ラォチュウでは酒好きになれませんでした。

米の集荷

 会社の仕事は米の集荷です。戦前南セレベスの米は、集荷、精米、輸送、販売共に全面的に華系人の手にありました。それを接収する形で会社の仕事が行われたのです。センカンにも大きな華系の米商がいましたが、安永さんはそれを引き継ぎいよいよ自前の仕事を始めた所だったようです。

ラジャー

 センカンの住民はブギス族、ブギス語を話します。ワジョ分県は、全体を統括する酋長(ラジャー)は世襲ではなく、郡長間の選挙で選ばれていたようです。こういう自治領は珍しいらしい。一度ラジャー出席の「郡長=今は何と呼ぶのか知りません」会議に出たことがあります。日本の行政官「コントローラー・分県監理官」が赴任していない頃です。会場はラジャーの屋敷です。そこは国道からテンペ湖に望む一段低い平地に広いサッカ−コートがあり、右がラジャーの屋敷、左の一段上にコントローラーの事務所兼住宅がありました。ラジャー屋敷の大広間に、ラジャーを真中にして左右に群長たちが居並びます。私達日本人はラジャーのすぐ隣の椅子に座ります。郡長は3〜40人いて、厳格な身分・序列が決まっているらしく、椅子に座る人、床に座る人と別れていました。ここで「膝行」を始めて見ました。下級の郡長がラジャーに握手を求める時、まず郡長はラジャーの5〜6m前まで小腰を屈めて進みます。 右片膝を立て、右手を前に伸ばし、腕肘に左の手の平を隠し、右足を進め、左足をすべらせて寄せ、ラジャーの握手を貰います。これが当時の最高の儀礼だったのでしょう。私は左手をかくし右手をさしのべ握手を求められたことはありましたが、膝行された経験はありません。

土地と階級

 ソッペンのラジャー1族の1人に聞いたことがあります。見晴らしの良い高台に上がった時のことです。彼は眼下の広がる田畑を眺めながら「ソッペンでは田畑の4分の1は酋長一族が所有、4分の1は郡長1族、更に4分の1は部落長(カパラ・カンポン)1族、残り4分の1だけが一般庶民の所有地だが、これも金持ちの商人の持物になっている」と教えてくれました。結局耕作農民は、土地を持たない小作民でこれで身分、階級も決まっていたようです。

大酋長

 南セレベスには、傑出した3つの大酋長家がありました。
 第1はマカッサル郊外のスング・ミナサに住むゴア酋長、この酋長は明治の末期まで、オランダ支配に抵抗、抗争を続けたそうです。私はセンカン勤務の後、短期間勤務したスング・ミナサで、ゴア・ラジャーに何度かお会いしたことがあります。身体の大きい威厳のあるご老人でした。
 第2は、ジャランの南方ワタン・ポネのボネ酋長、
 第3は、ジャランの北パロポのルー酋長家です。これらの名家はそれぞれ婚姻関係で結ばれているそうでした。酋長の旅行はアメリカ製9人乗り大型乗用車、助手席に窓外に槍を突き出した従者が座り、後座席は向い合わせの席に、小姓が噛み煙草の箱や痰壷を持ち、その隣りに 侍従が座っていました。スングミナサに駐在した時、ゴア・ラジャーの車を半日私1人で乗り回したことがあります。たしか「行方不明になった兵隊を搜せ」と言うことでしたが、結局ただ管内を走り回っただけでしたが、バスの後部座席に座って前を見ている感じ、とても良い気分でした。従者の人逹はサロンの下に刃が蛇のようにくねった長さ4、50cmのクリス(短剣)をさしていました。南セレベスには沢山自治領があって、世襲のラジャー(酋長)が、オランダのコントローラの下で統治する形をとっていました。ラジャーのいる自治領で私の行ったのは、ラッパン、ピンラン、ワタン・ソッペンなどがあります。ピンランのラジャ−は女性でした。最終に赴任したマロスは、ラジャーのいない珍しい分県でした。

ジャラン jalang

 一通りセンカン(ワヂョ)管内を車であるきました。3月が過ぎ、1人海岸のジャランに赴任することになりました。ジャランはセンカンの北、パリアから枝道に入リ南下、ドゥッピンから東海岸に向って海に突き当たった港町で、センカンからは五十キロほど離れた処です。インドネシア語で「jalan」は道ですが、ここのジャランはgが付いています。ブギス語で別の意味があるかも知れません。人口は分からないけれど、集落の戸数は5〜60戸、4年制の小学校もあり、日本の村程度に見えました。この地方20キロの範囲の中心地、パッサル(市場)があり、ここに米が集まって来るのです。

 集落の住民は全てブギス人、自分達をオラン・ウギ、ウギ人と発音していました。華系人の銀細工の店がドゥッピンに一軒ありました。ブギス族はインドネシアの中で「勇敢な航海者」として知られていて、この村にも、シンガポールやジャワへ航海し、商売をやっている商人が沢山いました。船は帆船(プラウ)、平時だとこの辺りの米を仕入れ、先に東の島、ケンダリー、アンボン、パプアニューギニア、タルナテなどに運び、米と引替えに香料、コプラ (椰子の中実)珍しい鳥、貝などを仕入れ、ジャワ、シンガポールに運び、これを衣類、陶器等の工業製品に替え持ち帰える、こんな繰返しの商売だったようです。

 街の高台の辺りにそんな商人が多く住んでいて、1度招待を受けたことがあります。宴会は昼、野外の木の下で始まりました。 イスラム教徒は一切お酒抜きです。出された御馳走の一つ一つは忘れたけれど、黄色に煮込んだ鶏の足、スープに香料の丁字を浮かび、香味が強くそれに唐辛子の辛味で閉口し、そこそこに引き揚げたことを覚えています。

ハッジ

 イスラム圏で白い帽子をかぶった人をよく見かけます。ハッジです。ハッジはアラビア・メッカ巡礼を果たした人の尊称です。あの頃ですから、メッカ巡礼は船便で、莫大なお金と時間と困難を伴った旅だったでしょう。ジャランの商人にはハッジが沢山いました。

足の小さい郡長

 頻繁に接触した相手は郡長でした。彼の管轄の広さ、人口は日本の村位の規模だから、むしろ村長とよんだ方がぴったりだし、そんな風貌の人でした。35歳、ひょろっと背が高く痩せてかん高い声を出す、一寸いい男でした。父親が亡くなり後を継いだのが8ケ月前、上級小学校(6年制)を出た15歳の弟がいて、彼は来年マカッサルの中学に入りたいと言っていました。役場は8畳間ほどの部屋2つ、15畳の会議室、そこに群長の親族で30代の若者 5、6人いて事務をやっています。安永さんにいきなりここに置いて行かれ何も分からない私に、住居、使用人、食事の段取りなどまめまめしく世話をしてくれました。
「我々郡長階級の身体の特徴は、足の小さいこと、これを見れば見分けが付く」郡長だって普通人と同じに成長した筈なのに、彼なりの階級意識の現れだったかもしれません。たしかに群長の足は小さかったけれど、後に各地で沢山の郡長に出会ったが、そんな自慢話は一度も聞いたことはありません。ジャラン一般の人は靴をはく習慣がありません。足指は伸びるだけ伸び手指のように長く、自由に拡げたり地上のものを足指でつまんだりできました。

「笑い話」 罪人に靴を履かせて働かすとすぐ「靴ずれ」を起し、それが一番辛い怖い刑罰になるとのこと・・実際には靴は大変な貴重品です。汚れたらもったいないでしょう。

郡長の権限

 ジャランは自治領ワジョ国に属し、酋長の下の職種、でもとても大きな権限を持っています。

@行政権 税金を決め、取り立てる。道路修理の使役に人を動員する。 週一度開かれるパッサル(市場)の管理、監督、使用料を徴収します。

A警察権、裁判権を持ち、部下の巡査が三、四人います。普段は群長の使用人のように使っています。事件が起きると軽いものは群長が裁判、重いものはワジョ酋長に身柄を送ります。こんな時巡査は犯人の手をしばり、五十キロの道を共々歩いて送るのです。もちろん巡査も裸足です。

B道路の補修、公の仕事に住民を動員できる。

C郡長所有の田畑の作業に住民を使うことができる。 郡長は年3日労働の決めを勝手に5日に伸ばすることがあるそうです。 郡長も巡査も洋服は着ていましたが、中味は明治以前の殿様、家老、家来、庄屋、町人、百姓、階級制度が生きていたのです。

仕事

 ジャランは港街、ブギス帆船交易の拠点となっていました。パッサル(市場)には、周辺から米が集まります。私はこれを買い付け、船で大都市マカッサルに送ることだったはずですが、実際に買い付けしたことも、市場に立った記憶もありません。きっと安永さんの段取りで現地の誰かが全部やっていたのでしょうか。監督にならない監督でした。も、オートバイ1台が預けられ、多い日には1日130キロも走ったと手紙にあるけれど、どこへ行ったのか記憶がありません。運転は独り覚えです。免許制度もまだありませんでした。

 6月、27キロ先のパリアで巡回映画を見ました。ニュース、文化映画(都市、季節、スキー、愛国の花)など、少し里心がつき、終わって夜道27キロを帰るのが厭になったと書いています。

住まい

 海に向かう村の大通りの、左にパッサル、小学校、右に郡長の役所、警察・留置所(トロンコ)その隣りに高床の「ルマ・サハバット(友の家)」がありました。村の来客の泊める公共の建物ですが、そこが一時私の住いになりました。ラジャーのいる街には大抵「パッサングラハン・公共宿泊施設」があり、コックも常時いて快適な滞在ができました。「ルマサハバット」は六帖の部屋が2つ、その1つにベッドが2つぽつんとあるきり、後ろにトイレと水浴び場がありましたが、長いこと使っていないので、干乾びて いました。管理は郡長の役目、寝具一式、食器、食卓を持込み一応住めるようになりました。

 1943年(昭和18年)中心地センカンでさえ常住の日本人は私達だけ、そこからさらに50km先に住むのは、今考えると相当の冒険だったのです。度胸は良い私でも、大分心細かったに違いありません。気負った手紙を何通も書いています。小さな石油ランプでは暗いので、ペトロマックス(灯油を霧状にしマントルを使 う)を探しました。百ワットの明るさが出ますが、欠点は小さくできないので寝る時は消さなければなりません。消すと暗さが迫ってもっと気味が悪くなりました。

老僕、ジョンゴス・トゥア

 私の食事、洗濯など身の回りをさせると、郡長は一人の老人を連れてきました。昔オランダ人に仕えたと言うふれこみでしたが、郡長の失業対策にやられた感じでした。先ずほとんどマライ語が話せない、聞けわけられない。ブギス語・・しかもこの地方の方言しか話せないらしい。私だってセレベスまだ半年余り、マレー語も不十分、そのマライ語も彼には外国語、ほとほと疲れました。それに彼は、南方に多い「ふたなり(両性)」らしく、身体は小さく痩せてナヨナヨして、口は「シリ」を噛んで真っ赤、昔は髪も長かったらしいが、今は短い髪を色あせたソンコ(イスラムの黒い帽子)の下に押し込んでいます。年齢は40代でしょうか。用事ができると、私の膝下に1々すがりつくようににじり寄り「トゥアーン・旦那さん」猫のような黄色い声で呼かけて、ブギス言葉で話す。彼が努めれば努めるほど、気色が悪い・・

 いまいましくって仕方がないけれど、郡長に文句を云っても「今適任者は彼しかいない」取り合ってくれません。「そんなことはあるもんか・・」思ったけれど、当時の私にははどうにも手の出し様がありません。結局ジャラン滞在の間中イライラしっ放しでした。郡長が何故「これが適任・・」としたのか、後になって少し推察できました。

食事

 最大の悩みは食事でした。朝はコーヒーと卵位で済ましました。お米の食味と炊き方、仕事はここの米の集荷ですが、この地方は地勢の関係から雨量が少ない乾燥地帯で、地味も悪いせいか南セレベスでは最低の「バッカ」種しかとれません。炊くとバラバラ、粘りがなく、黒く小粒で、味わいが無く、食欲は良い方の私でも 食べられたものでありません。ここでは右手の指で食べるので、手にくっつかないように、炊いている途中で重湯を捨て、わざとばらばらに仕上げるのでしょうけれども・。 魚は毎食出ましたが、骨付き、皮の所々に切れ目を入れ、石の臼で摺った真っ赤な南蛮(唐辛子)を塗りつけ、椰子油で「から上げ」・・

 魚は変わっても料理も同じなら味は同じ、北海道の魚と違いこうでもしなければ身が締まらないのかも知れませんけれど・・。

 魚の塩気と南蛮の辛味、椰子油の匂い(特有・・・なれるのにこの後半年程かかった)の渾然一体の代物、醤油が欲しいと思いました。スープは、ただ辛かった記憶だけ、野菜は食べたかどうか覚えていません。日が経つにつれ、魚は南蛮の少ない処を少しつまむ程度、スープは塩味と辛味を減らし、御飯にかけて、流し込む食べ方を覚えました。下僕は食事付きの雇いですから、毎回大半を余す私の食事は老僕の味覚にあっているのですから、美味しく戴いていたのでしょう。

歌の会

 私の日々の困惑を察したか、郡長は1夜学校の先生を中心に4、5人の若者を集め、歌の会を設けました。お酒はもちろん出てきません。「ルマ・ソウバット」前の席で、私の覚えた歌はインドネシアの愛唱歌、皆んなでそれを歌い、新しい歌をいくつか教えて貰いました。男の子がギターを牽きました。「ディ・チャハヤ・ブラン」「テンペ湖にて」など、恋の歌です。若い時に仕入れた記憶は長持ちします。この夜の歌は今もどうにか歌えるし、歌うとその夜の情景が思い出されます。

 集まりに2人女の先生が来てくれましたが、ここでは特別のことだったようです。普通若い女性は家族以外の人に顔を見せません。道で会うとすばやくサロンで顔をかくします。イスラムの戒律と、外国人になれていないことのようです。郡長には始めての若い外国人の私を警戒し、超安全で物すごい老僕を張付けたのはこのせいだったかと思いました。

日本語講座

 ジャラン始めての日本人と言うので、日本語講座となったのですが、結局「文化放談」みたいになリました。週3回毎回1時間はしゃべりまくる・・私のマライ語の勉強に役立ちました。何を話したかこれは覚えていません。

水の話

 ジャランに行ったのは、ちょうど乾期でした。何ケ月も雨が無い。ジャランは水のない街になります。4キロ離れた処から運ぶのだそうで、1缶いくらの値段ができていました。暑い時生ぬるい水を飲むのは、情けないものです。

カマルクチル(トイレ)のビール瓶

 オートバイに乗るせいか野菜が少ないからか痔になりました。薬もなし、ビール瓶の水を使うことにしました。その効果抜群、痔は簡単に治りました。それからセレベスにいる間ビール瓶のお世話になりました。

ポットン・パディ

 小作料は、稲が収穫期になると田1枚毎に地主と小作が立毛まま2つに分け、地主、小作それぞれに稲の穂先を摘み(ポットンパディ・稲切り)竹の皮で束にし、3角の笠の上に載せ家に運びます。稲はパラパラ落ちない種類なので、天井裏に束のまま蓄えます。ポットン・パディは女性の仕事、摘み賃も稲で貰います。束の重さは地方毎にほぼ一定し、1束いくらとモミで取引されることもあります。

脱穀・精米(トゥンボック・パディ=稲を搗く)

 脱穀は、始め太い木に穿った矩形の4角な「きつ」に、稲穂をいれ手で掴める程の太さの長い竹杵で搗いて脱穀する。モミになったら同じ木の片方に穿ってあるもう1つの小さな臼状の穴で、長い重い木の杵で搗いて仕上げます。搗き上がった米は、特別な椰子の葉で編んだ袋に入れます。口を縫うひもも、同じ椰子から作ります。月の明るい夜は遅くまで、集落のあちこちから、ポン・ポン乾いた調子に乗ったトゥンボック(稲を搗く)の音が聞こえ、豊かさが伝わって来ました。

港・マングロープ

 街外れの海岸から沖合にかけ、4キロもの遠浅の海にマングロープの密林が出来ています。マングロープは根が「たこ」の足のように水中に伸び、海水でも塩分を排除して成長する南国特有の樹種です。幹は4〜5メートルの高さになり、硬く、良い木炭の材料で製品ははるばるマカッサルまで送られていました。マングロープの林の間に、幅15メートルほどの水路が開け、満潮時に拡がった水路を使って大きな外洋向け交易用の帆船が出入りします。 船の帆柱が高いので、マングロープの上を吹き抜ける風を受け移動します。風が無ければ竿で押します。干潮時水路は殆ど空になるので、少し広い処で、ゴロリ横になって満潮を待っています。大きな帆船(プラウ)には、米を3〜40トン積み込めるそうです。小さい5〜6人乗りのカヌーは干潮時でも往来できます。場所によって底がつかえ、1人2人が降りて押出すこともありました。

沖荷役

 私の仕事には、ジャランで買い付けた米を大型プラウに積み込みマカッサルに送ること、日本の機帆船(確か第1虎丸と云い、戦前からこの辺の交易航海をした)が来ると、地元のプラウを艀(はしけ)に仕立て、沖荷役で積み込む、その手配がありました。ジャランにいた間に何度か沖の荷役作業に立会いました。船酔いしない体質だと分かっていたので、その度に張り切って荷役の連中と小さなプラウで沖に出かけました。マングロープの狭い通路を通り抜け、広い海原に出て少し沖合に停泊している「第1虎丸」に向います。海には風もあり波も出ています。虎丸は随分大きな船に見えました。1日海の上にいました。多分昼は「第一虎丸」の日本式の食事を御馳走になったのではないでしょうか。 日本へ送った手紙には3、4回機会があったと書いています。

水上部落

 マングロープの水路の途中に、10軒ばかりの水上部落がありました。この人たちはマングロープの炭を焼いたり、林の中の魚を捕って暮らしていました。泥を積んで満潮でも少し地面が出るまで盛り上げ、石の台を置き、鉄木(カユ・ベッシィ)の柱を立て、高床の家を建てました。 普通の陸地なら10メ−トルも飛び回るインドネシアの鶏も狭い地面をうろうろするだけでした。干潮の時、床下で米を搗いていました。用をたすのは、家から少し突出した処ですまします。この部落では、街に行くのはもちろん、隣の家に行くのさえ小舟が足になります。子供逹は長さ2メートルほどの可愛いい丸木舟を軽快に扱って往来していました。この住人が、岡と同じブギス人か、違う人逹か聞くのを忘れました。海の帰り、日が落ち暗くなります。満潮に乗りプラウはこの部落にさしかかります。各家々からキラキラと灯火が洩れ、水面に映し出します。その灯火をかき乱しながら、私達の5、6人のこぎ手のかいが、舟ばたをコトーンコトーン、リズム音を刻みつつ漕ぎ進みます。船の後に座って、水面を見、暮れて行く空を見ていたら、毎日のひどい食事の不満も消えて、心地良い1時でした。漕ぎ手から歌が出ましたがどんな歌だったでしょう。

新居

 街からちょっと離れた高台に宿舎を建てていました。床下2mの高床、ニッパの屋根、竹の家です。応接ルーム・寝室・食堂・水浴室・台所・使用人室・トイレなど、窓から見ると田圃がづうっと続き、彼方に山がかすんで見えました。水牛はこないけれど、山羊、羊が家の回りの草を食べています。山羊は乳肉、羊は 肉用です。

別れ

 ジャランとの別れは意外に早く来ました。原因は私にありました。殺風景な「ルマ・サハバット」の住居環境を整えようと、無断で壁飾りや食器などを、交易船(プラウ)に頼んで、マカッサルから取り寄せ、飾り立て良い気分でいましたら、経済観念の強い「ボス安永」が、カンカンになって、即刻ジャラン引揚げを命じたのです。私もジャランに深いなじみも出来てはいなかったし、辛い料理には閉口していたから、内心ほっとしたのではないでしょうか。ただ、初めての単身赴任、思い掛けない辺境で体験した数々のカルチャ−ショック、滞在は6〜7ケ月の短期間でしたが、思い出の多い土地になりました。

 (注)ジャラン滞在の頃、日付け入りの手紙が出せ、何回も書き送りました。1952年に「思い出のジャランメモ」を書いています。

 「追記」

 1993年6月、昔の同僚6人がセレベスを訪れました。愛媛の井石坦さんは私より少し若い人で、この後センカンとジャランに駐在していましたが、旅の感想を寄せてくれました。『センカンは、昔のままの処もある。私達の南洋興発NKKの事務所は、大変古びて危ない状態のせいか無人だが、外見は昔通りだった。なつかしく、涙が出そうだった。住んで居た家は無くなり、イスラムの大きなモスクが建っていた。偶然昔を知っている人に会い、話を聞いたが、私の知人は皆死んだ様子だ。昔有った森は無く、田や畑が次ぎの町まで続いていた。もっと驚いたのは、海岸から何キロも繁っていたマングロープの林は、きれいに切り倒され、1本も見つける事が出来ない。跡は「うなぎ」や、「えび」の養殖場になっているとのことだ』