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戦時のマカッサル Stella Maris 病院

Rumah Sakit Stella Maris di Makassar selama perang Pasifik



マカッサルの海岸通りにひときわ目立つ STELLA MARIS 病院、ここはオランダ領植民地時代の 1939 年に、地元のキリスト教団体によって設立された由緒ある病院である。太平洋戦争中は日本海軍に接収され、マカッサル民政府のなかにあったマカッサル研究所の熱帯衛生部附属診療所「マカッサル病院」として運営されていた。

2014年2月15日、太平洋戦争の末期にこの病院の院長を務めた種村龍夫先生(1901-1964)のご遺族がこの病院を訪問し、現病院長と懇談、悲惨な太平洋戦争当時を追憶した。

終戦から70年を経過し、当時どのような病院であったのか知る人も少なくなってきた。そこでご参考までに; 1)日本側の資料として、旧海軍マカッサル研究所に勤務した方達の「職員想い出集」のなかの、当時病院の事務長を務めた板谷健吾氏の「マカッサル病院の思い出」 2)インドネシア側の資料として、1989年、STELLA MARIS 病院の創立50周年の記念誌 BUKU PERINGATAN に書かれた日本軍政時代の記事(記憶)を掲載させて頂きました。(日本語を学ぶインドネシア人学生の翻訳です。)

1)マカッサル病院の思い出

 マカッサル病院は、戦時中、セレベス島マカッサル市の海岸通りにあった病院で、正式には南西方面海軍民政府マカッサル研究所熱帯衛生部附属診療所であったが、一般にマカッサル病院と呼ばれていた。オランダ統治時代は、ステラマリス・ルマサキットで、今で言うオープンシステムの病院で、市内の開業医が、手術又は入院の場合、この施設を共通に使用していたもので、レントゲン装置はフィルップスのものであったし、手術室の照明は、自動的に電池に切替えができる等、施設は可なり進んだものであった。大きくはなかったが、小じんまりした清潔な病院であった。海岸にあって、道路一つ隔てた所は、マカッサル海の波打ちぎわで、風の強い、波の高い日は、しぶきが道路を隔てた病院の窓に雨のようにかかることもあった。併し又、波静かな好天の日は、コバルト色の海の面を、流れるように走るプラウ(帆船)、そして海の色にも勝る空の青さ、院長室、事務室の窓越しに見るこの海、この船、この空は、正に一幅の絵であった。

病院の棟と棟との空地には木々も、そして草花もあって、一年中花と葉で赤や緑の色の絶えることはなかった。赤い葉の美しかった植物、その名は何だったろう。 そして、この海岸通りは、夜のジャラン、ジャラン(散歩)の道でもあったが、星の一つ一つが色ずいて輝いていた。 月夜は新聞も読める明るさだった。南十字星、この星を仰いで、何、思ったことだろう。

この病院では、軍人以外の日本人や現地人の診療と臨床の研究、更には現地人の医師と看護人(マントリー)の教育も行われていた。生徒の中には仲々ピンタルな者も居て、医学用語を漢字で書けるようになった。 ここで診療し、研究し、教育する先生方は次のとおりであった。病院長 東陽一先生(東京厚生年金病院長)、内科医長 内藤比天夫先生(茨城県立友部中央病院長)、外科医長 吉永直胤先生(熊本大学医学部教授)、耳鼻咽喉科 種村龍夫先生(国立金沢病院長逝去)’皮膚泌尿器科 三木録三先生(金沢で医院開業)、産婦人科医長 岩井正二先生(信州大学医学部教授)、小児科医長 大谷敏夫先生(広島大学医学部教授)、眼科医長 高安晃先生(鹿児島大学医学部教授~別府赤十字病院部長)、歯科医長 山下浩先生(東京医科歯科大学教授)、薬局長 上妻先生、そして事務長は私というスタッフであった。この外に、看護婦さん、薬剤師の方、そして事務担当の方々がおったことは勿論であり、又、今川先生は大先輩で増田富士子先生、斎藤匡子先生、山賀たけの先生等の女医の先生方も診療に加わっていただいた。

この病院には、われわれ関係者以外の方でも、何かと想い出をお持ちの方も多いと思われる。病気とか、怪我で、入院又は外来にお出でになった方は勿論のこと、或いは病気の見舞いに来られた方、或いは空襲の度に病院の防空壕(トーチカに似たしっかりしたのがあった)に入りに来られた方!これは大川隊(料亭)の方が多かったようだが。

藤山一郎さんは、患者と職員の為、しばしば音楽会を開いて下さった。音楽好きの原地人の人々は、二階の講堂を花や、色美しい葉で巧に飾ってくれて、その中で歌とメロディーをどんなにか喜こんだ事だろう。

しばし、戦いのこと、苦しみ痛さも忘れて。そして、藤山さんに対するお礼、それはお礼の中には入らないで感謝の気持であるが、病院の賄いの人達が作ってくれたオンデオンデを食べていただくことであった。オンデオンデは、たしかタピオカ(澱粉)をこねて、だんごにし、その中にグラメラ(黒砂糖)を入れ、ゆで上げてから椰子の中身を、おろしですって粉状にした中に転がして衣をつけたお菓子で、口に入れ、かんだ瞬間に甘い黒砂糖の汁が、にじむという趣向の日本人向きのする美味しいお菓子であった。 藤山さんもこれを喜んでいただいた 。

終戦と共に、日本人の経営によるマカッサル病院は終止符を打ったが、その後、残ったわれわれは、マリンプン、狂人の村(カンポン・ギラー)と称するところの集団生活の中に、診療所を開いて診療を続けた。引揚の日まで。・・・・ (あれから二十年 第9号 昭和四十三年掲載) (癌研究会 附属病院 事務長)

2)病院に残された日本軍政時代の記憶

1939年に発足して、まだ子供が歩き始めたような、そんなに時間が経っていない、Stella Maris 病院は、母親から離れされた。日本の軍人がやって来て、その病院を奪い、支配し、日本の支配下においた。

オランダ国籍を持っている看護師は、「カンピリ敵性国婦女子収容所」に拘禁され、インドネシア国籍を持っている看護師はそれぞれの家族のもとに戻された。 Stella Maris 病院は、「マカッサル民政府病院」と日本語に改名された。それでも、病院の機能は変わらず、以前のように社会全体のために奉仕していた。その病院は患者の治療や世話するだけでなく、看護師教育の場所でもあった。

1942年から勤め始め、三つ時代(戦前・戦中・戦後)を経験している最古参の看護師である Abdullah Dg Marewa さんは、三年半の間、日本政府の支配下で得た、自らの貴重な経験を語ってくれた。

日本政府が宣言した東アジアの開発計画に従って、マカッサル民政部病院も一般外科や婦人科・内科・眼科・T.H.T(耳鼻科)などを設備し始めた。戦争の影響によって、この病院は最悪の状況を経験していた。薬が足りず、衣食も減っていった。あまり食べられなかったため、栄養が足りず、ガリガリの身体の患者が大勢来た。治療結果も良好とはいえなかった。

また同時に、看護師達や病院で仕事をしてる人々、いつでも自分の命を奪える戦争の恐ろしさに心安らかに仕事ができなかった。 マカッサル港、Soekarno-Hatta 基地を最初の標的として、1943年の始め、連合軍はマカッサルに爆弾を落とし、最悪の状況となっていた。 あちこちに死体が転がり、傷を負た人々が呻きを上げ、マカッサル民政部病院の患者はロッカにまで及んでいた。一晩で十人以上の重傷者が亡くなったため、缶につめられた魚のように、霊安室が死体で溢れかえった。

3)種村龍夫先生(1901-1964)の足跡を訪ねて



2014年2月15日、太平洋戦争の末期、1945年4月から終戦まで、東陽一先生の後任としてマカッサル病院の院長を務めた種村龍夫先生のご遺族がマカッサルの Stella Maris 病院を訪問し、院長の Dr.Thomas Soharto 氏と面談した。(左写真 撮影:粟竹章二氏)

この病院は 2014年9月に創立75周年を迎えるとのこと。会談の際、病院の創立50周年の記念誌 BUKU PERINGATAN を頂いた。その中の日本軍政 時代の部分については、2)「病院に残された日本軍政時代の記憶」 に記載された通りである。当時病院に勤務した日本の先生方も同じような気持ちであったと思う。

種村龍夫先生は終戦後、南スラウェシにあった日本人抑留キャンプ内でも海軍病院長を務め、昭和21年(1946年)6月17日、入院患者等とともに田辺港に復員された。

この病院はキリスト教団体による運営で、貧困層の人たちの病床を一定割合用意してあるという。種村家からは訪問の記念として伊万里焼を贈呈した。会談には戦時中マカッサル民生部に勤務し、また戦時中この病院に入院したことがある粟竹章二氏(88歳)も同席した。なお今回の種村家の病院訪問はHasanuddin 大学 の Agnes 先生のご尽力により実現した。

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