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1920年代の日本人セレベス進出

大正11年(1922年)の「蘭領セレベス島モロッカス群島及ニューギニア要覧」を読む

脇田 清之



1916年に完成したマカッサル市庁舎



1927年に完成したロサリ海岸の護岸工事

(1)1920年代のセレベス



オランダ領セレベス島は1910年代から20年代にかけて大きな発展の時期を迎える。1916年にはマカッサル市庁舎の完成(写真左上)、1920年にはランテパオとパロポ間の道路が完成。1922年にはマカッサルとタカラール間の農産物輸送のための鉄道が完成(写真下)。1927年にはマカッサルとランテパオ間、マカッサルとマリノ間の道路も完成する。同じ1927年にはマカッサルのロサリ海岸の護岸工事(写真右上)も完成している。マカッサルとタカラール間の鉄道はその後、1930年(昭和5年)に廃止になる。この時期は丁度世界恐慌の時代で、セレベス島も大きな影響を受けていたことが窺える。現在鉄路の痕跡は残っていないが、マカッサルからゴワ方面に向かう道路(ゴワ街道)に緩やかなカーブの箇所があるが、ここは鉄路の名残かもしれない。


タカラール駅 1923年

当時マカッサルは、英国、米国、ドイツ、フランス、ベルギー、デンマーク、ノルウェイ、ポルトガル、スウェーデンなどの領事が駐在する国際都市であったことが、大正11年に当時の農商務省臨時産業調査局が取り纏めた「蘭領セレベス島モロッカス群島及ニューギニア要覧」(写真右上)に書かれている。因みに、日本がマカッサルに領事館を開設するのは太平洋戦争開始直前の1941年の2月になってからである。この要覧には1905年時点のマカッサルの人口は26,145人、内訳として、日本人を含む欧州人が1,059人、中国人4,672人、その他東洋人95人、現地人20,178人と記載されている。当時日本は欧米列強の仲間に入った、との強い意識からこのような統計でも「日本人は欧州人」として仕分けられていたようだ。

一方セレベス島の北部首府メナドは「商業地としてはマカッサルに及ばざるも、我が台湾との直径距離僅か1300マイルに過ぎざれば将来日本・フィリピンとの直接貿易開始せるに至らば一層重要なる地位を占むるに至らんか」と書き、メナドの将来性を期待している。この要覧によると1905年時点のメナドの人口は10,344人、内訳は欧州人(日本人を含む)576人、中国人2,784人、その他東洋人15人、アラビア人300人、現地人6,669人となっている。ドイツ、デンマーク、ノルウェーなどが領事駐在と記されている。

ゴロンタローは「マカッサル、メナドに次ぐセレベス島三大要港の一つで、トミニ湾内海陸物産の集合地で商業繁盛」と紹介されている。当時のゴロンタローの地位は非常に高かったようだ。1905年時点のゴロンタローの人口は6,352人、内訳は日本人を含む欧州人145人、中国人606人、その他の東洋人27、土人5,247人、アラビア人327人となっている。日本人は森由五郎(雑貨商及び輸出商)を含めて5名であったと記載されている。 またミナハサは人口約20万人、養豚、雑貨商を営む日本人数名が在住と記録されている。

(2)マカッサルの日本人社会

 要覧には1916年(大正5年)末のマカッサル在留邦人数は約80人と記されている。内訳は輸出入商1、雑貨商2、旅館1、珈琲店約6、代表例として河原商店支店(輸出入商)、三浦商店の名が記載されている。この三浦商店は三浦襄が1912年に開業した店と思われる。その後、三浦襄は1918年(大正7年)に鶴間春二と共同出資で「日印貿易商会」を開業ている。三浦襄が日本人会の会長になったとき、日本人の会員数は140名であったと言う。わずかな期間に日本人は80人から140人へと急速に増加している様子が覗える。要覧によるとその当時、マカッサルには大阪商船及び南洋郵船の定期貨物船が寄港し、両海運会社の代理店があった。 大阪商船の運航経路は神戸、基隆、厦門、汕頭、香港、マニラ、サンダカン、シンガポール、バタビア、スマラン、マカッサル、バリクパパン、 一方、南洋郵船の運航経路は神戸、門司、香港、バタビア、チレボン、スマラン、スラバヤ、マカッサル、バリクパパンであった。日本の定期貨物船の入港はマカッサル在留邦人にとって大きな支えになっていたと思われる。

(3)メナドの日本人社会

1916年時点における日本人は約30名で雑貨商、売薬商、大工、南洋貿易㈱支店あり、と書かれている。山田正雄(雑貨商)、林商店の名前が記載されている。別の資料によれば1916年(大正5年)に南太平洋貿易株式会社がメナド支店を開設すると同時に各地に分店を置きコプラの買い付けを行っている。南太平洋貿易株式会社の創設者の一人、柴田鐵四郎氏の「スラウェシ島今昔」によると、大正5年5月にメナド支店を設け、サンギル群島タルナ、パタ、タマコシヤオ、ハルマヘラ群島のテルナテ、トミニ湾のゴロンタロー、ポソ、北部セレベスのケマ、アムラン、南のマカッサル等に分店を置き、コプラ買付機関とした。丁度第一次世界大戦(1914~1918)の最中で欧州へのコプラの販路が、ドイツ艦隊のインド洋封鎖によって閉鎖され、日本への輸出以外道が無かった。このような恵まれた機会に進出したのだから当時の蘭印政府や民衆から大いに歓迎されたと回顧している。

この要覧の統計ではゴロンタロー地域は含まれていない。 (参照:ゴロンタロー)

1930年代には日本の漁業関係企業がビツンに進出し、日本がメナドに領事館を開設するのは1937年(昭和12年)になってからである。

(4)その他地域の日本人

 要覧にはその他辺境在住の邦人名が出てくる。ゴロンタロ:5名、森由五郎(雑貨商及び輸出商)、パロポ:松村某、マリリー:山口、池田、松本、ブトン:小田(輸出商)ほか約10名。しかし詳細は書かれていない。
 本邦人に有望なる事業として椰子栽培、金鉱採掘、製材、真珠母貝採取、一般漁労と書かれていた。

(5)栽培企業

「蘭領セレベス島モロッカス群島及ニューギニア要覧」には栽培企業は含まれていないようだ。大正15年(1926年)に台湾総督官房調査課が編集した「南洋各地法人栽培企業要覧」(参考資料2)によると、セレベス島内では下記の12の企業が掲載されている。これらの栽培企業の進出時期は1919年から1921年にかけて集中している。その後1926年に珈琲、護謨、椰子園の買収が3件続いている。

1. マリリ( Malili )には「岩井古古椰子園」が1919年に創設、代表者は岩井清太夫、調査時点の1925年には未生産、間作物落花生、玉蜀黍と記載されている。
2. クンダリ( Kendari )には「大石農園」が1924年に創設、代表者「は大石保、調査時点の1925年では「未植付」と記載されている。
3. ポレワリ( Polewali )には川原農園が1921年創設、代表者は川原義六、栽培種別は古古椰子、投資十萬円、結実本数3500本生産(1924)9232個と記載されている。
4. ポレワリ( Polewali )には南斗農園( Nanto Noyen )も進出している。代表者佐野実、1920年創設、2園に分かれる。間作物はテフロシア、玉蜀黍、陸稲約十町歩、総資本金 250,000盾(円?)と記載されている。
5. この一覧表にはゴロンタローの雑貨商及び輸出商である森由五郎の名前も出てくる。森は森古古椰子園( Mori Coconut Plantation )も経営していたようだが、創設年度、規模などは空欄となっている。
6. 同じゴロンタローの Porigi には中村古古椰子園(Nakamura Coconut Plantation)の名前も記載されているが詳細は書かれていない。
7. メナドの糸永農園(Itonaga Estate) は1919年の創設、第一園から第四園まで4つの古古椰子の農園を所有。代表者は糸永太郎。資本金50,000円(?読みとり不可)
8. メナドの Nambaro の西野農園( Nishino Estate )は1920年の創設、栽培種別は古古椰子と水稲、代表者はT.NIshino。
9. 南洋貿易株式会社(社長 岡田荘四郎)は1918年、古古椰子園をマナドの Poenkol, Amooerang に創設。総資本金150万円、未生産、本社は川崎銀行と記載されている。同社はニューギニアのマノクワリのワレンにも古古椰子園を所有している。
10. メナドの Kelelondey, Noogan, Langowang のカレロンディ農園(珈琲農園)はジャワの蘭領印度農林工業株式会社の第4園なりしが最近(1926年)売却されたるものである、と記載されている。所有者不明と書かれている。
11. メナドの Kalasey にある護謨、椰子農園、カラセイ農園も1926年に買収。代表者 勝間順蔵、元南洋椰子会社のものなりしが破産後南洋貿易の手に移り、更に後、勝間氏経営となりたり。1926年時点での毎月のゴム製造30箱位(a百基瓦)、椰子2000本を有す、と記載されている。
12 ミナハサのBasan の古古椰子園は旧セレベス興業会社経営のものなりしが最近(1926年)南洋興業会社に組織変更あひ、柴田鐵四郎、長野智両氏経営となれり、未生産、他に製材業を営み毎月40噸を産す(販路日本)と記載されている。

参考資料 1

蘭領セレベス島モロツカス群島及ニユーギニア要覧

原本代替請求記号: YD5-H-9-456 (マイクロフィッシュ)
責任表示: 〔臨時産業調査局第四部第二課編〕
出版地 :東京
出版者: 臨時産業調査局第四部第二課∥リンジ サンギョウ チョウサキョク ダイ シブ ダイ ニカ
出版年: 〔大正--〕
全国書誌番号: 43000081
団体・会議名標目: 農商務省臨時産業調査局 ∥ノウショウムショウ リンジ サンギョウ チョウサキョク NDC(6) 292.4
書誌ID: 000000547781

参考資料 2

南洋各地邦人栽培企業要覧

原本代替請求記号 YD5-H-14.2イー478 (マイクロフィッシュ)
タイトル 南支那及南洋調査. 第121輯
責任表示 台湾総督官房調査課編
出版地 〔台北〕
出版者 台湾総督官房調査課∥タイワン ソウトク カンボウ チョウサカ
出版年 〔大正15〕
形態 2冊(附録共) ; 27cm
全国書誌番号 43001518
団体・会議名標目 台湾総督府 ∥タイワン ソウトクフ
NDC(6) 302.2
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000000549208

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