注) セレベス新聞
セレベス新聞は毎日新聞社が旧日本海軍の委託を受け、昭和17年12月8日から20年8月まで2年8ヶ月にわたって発行されました。マカッサル本社ではのべにして百人を超す日本人が編集や業務に携わり、発行部数は約8,000部。マナドにも支社がありました。セレベス新聞のことについては「戦時下の記者たちーセレベス新聞を読む」(衣笠周司著、向陽書房、平成9年12月発行、1,600円)に詳しく紹介されています。
コメント (2004-1-1)
松浦一男氏 (「1943年頃のマカッサル市街地図」制作)
ボクが「第一バー」と思い込んでいた「ナイトクラブ」は「大地」だったのですね。 今でも「第一バー」と思っては居りますが。 「大和ホテル」の位置も、根拠地隊の裏側になっておりますが、ボクの記憶では並んでいたような。
プール、パサール・イカンの場所は記憶どおりで安心しました。
「放送局」の場所ですが、ボクの記憶ではロッテルダムの海側に在ったと思います。 地図の「水族館」または「水警」と書かれている場所です。
クロンチョンの演奏を聴きに行った記憶が御座います。 (送信所は別として)。
マカッサル研究所はロッテルダムの中に在ったと記憶しております。 ロッテルダムの入り口に木の看板に「マカッサル研究所」と書いてあったと記憶しております。「熱帯医学研究所」とかの記憶も御座いまして、アヤフヤで
す。 「大川隊」の場所も少しずれている様な気がします。
コメント (2004-2-4)
脇田 清之
この地図では「オランダ式の 道路名」もあやふやな感じがしましたので、、、ところで日本よりはるかに長 かったオランダ統治時代の資料はあるのでしょうか。オランダ本国にはあると思います
が、マカッサルの博物館にあるかどうか確認したいです。
コメント (2004-2-20) 渡邉在マカッサル日本国総領事。
マカッサルのRRI放送局の歴史小冊子によるとマカッサルに最初に放送局ができたのは1942年12月8日。日本軍によって設立され、最初の番組は当時の海軍司政長官数藤鉄臣の講演であった。マカッサル放送局はMHKと呼称され東インドネシアで最初であった。放送専門家が
ソロ、ジョクジャから派遣指導にあたり、放送内容は、軍の宣撫だけではなく、音楽 (ガメラン、スンダ音楽)番組もあった。所在地は、地図の場所(Jalan
Rajawali No2のハジララ氏の民家を徴用した)で、ロッテルダムの前ではなかっ たようです。 (現在、ロッテルダム要塞の横にRRIがあるので、これとの関係を質問したと
ころ)現在の地には移ったのは、1970年。戦後蘭が放送局を接収した時も地図の 場所に所在してROM放送局と名前が変わったとのこと 。
コメント (2004-2-27)
松浦一男氏
昭和十七、八年当時には、各家庭にらラヂオ受信機は無かったと記憶しております。 街の所々に拡声器の付いた塔のようなものが在り、夕方になると、其処から大音声で放送を流しておりました。記憶に残っているのは、日本語の教育番組でした。簡単な日本語をインドネシア語で教えておりました。先生は、当時のマカッサル中学の先生で「Rondonuwu」と仰るメナド人の方でした。何時の間に、日本語が上達したのか知りませんが、会話に不自由はありませんでした。
コメント (2004-3-2) 渡邉在マカッサル日本国総領事。
ジャガタラ友の会会報(平成16年1月号)に神戸の平賀宏と言う方が、「マカッ サ ル物語(海軍地区)及び附記」のタイトルで寄稿された記事がありました.当時のことがかなり書かれていました.それによる
と、松浦さんのご記憶のとおり、大地は、第一バーの可能性があります.もっとも第一 バーも第二バーもあったようです。「民政府近くのプリンセンランストラート西端」
という点でも一致します。それから、地図の右端の菊正宗の上の字が読めなかったの ですが、高級料亭「きかく」のはずです。(地図は修正済)
その他
○第一広場の上のTRONKOは蘭語で、「留置場」です。(蘭語ではなくマカッサル語であるとアグネス先生から指摘ありました。2009年7月30日))
○当時の学校について、民政府 は現地の教育の充実には意を払っていたようです。
* 特別中学校(水交社の下の「文」マーク。45年頃にはルウ県に移動)
* 師範学校(敷島ときかくの間の「文」マーク。45年頃にはボネ県に移動、海軍 で も有名な南郷校長)
* 中学校(官邸の下の「文」マーク、45年頃にはシンジャイ県に移動)
* 兵補学校(地図の外側であるが、市南部、45年頃にはゴア県に移動)
* 初等学校(第二広場の右、移動の有無不明)
* 日本語学校(短期コース)(海軍病院の上)
* 大和工業学校(第一広場の正面でホスピタル道りを越えたところに会った模様で あるが、不詳)
コメント (2004-3-23) 渡邉在マカッサル日本国総領事。
地図上に、民政部が2箇所出てきます。 資料「海軍セレベス民政部の軍政」(太田弘毅著、天理南方文化研究所刊、「南方文
化」1980年12月号)によれば、 「海軍は、セレベス民政部のみではなく、他の地域にも民政部を設置し、海軍手担任地域を統治していたのであるが、特にセレベス島には、後に各民政部を統括する上部機関南西方面艦隊民政府も設置され、セレベス島は海軍南方占領統治の中心となったのである。」
とあり、注書で、「同民政府が設置されたのは昭和17年3月」とあり ます。 つまり、民政部の上に民政府があったと言う意味です。 そこから類推すると、地図の司令部の前にある「民政部」は「民政府」のことではないかと思われます。しかし、当時のどなたかに確認してみる必要があります。
コメント (2004-3-24) 松浦一男氏
民生府の件に付いては、渡辺様のご指摘どおり、民生部の上部組織でありま す。 当時の組織系統は書類上では下記の通りですが、小生の記憶では其の時期には
「南西方面艦隊」は存在せず、丁度此の時期の数ヶ月後に、第一と第二南遣艦 隊が南西方面艦隊の下部組織になったと思います。と言うのは昭和17年7月に
小生が辞令を受けたのは「第二南遣艦隊」で、一ヵ月後に赴任したら「南西方 面艦隊」に変わっていたからですが。其の頃に南西方面艦隊の本部はスラバヤ
に在り、第二南遣艦隊の長官を兼ねていたようです。 スラバヤでは「海軍本部」と言うビルの中に両艦隊司令部、根拠地隊が同居し ておりました。
マカッサルでは根拠地隊司令部を「司令部」とだけ呼んでおりました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昭17(1942). 4.10 聯合艦隊
南西方面艦隊 第二南遣艦隊
第21特別根拠地隊 スラバヤ
第22特別根拠地隊 バリックパパン
第23特別根拠地隊 マカッサル
第24特別根拠地隊 アンボン
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
其の第二南遣艦隊の民生部門が「海軍民政府」で、指揮下の特別根拠地隊(陸 戦隊)毎に「民生部」を設けていたと記憶致しております。 従って地図上の「司令部」とは、第23根拠地隊の司令部で、其の前が「民生府」です。
コメント (2004-4-5) 高橋弘行氏
マカッサル研究所について「蘭印滞在記(倉茂好雄著 清水弘文堂)」に以下の記述があります。 著者は、昭和19年2月から10月まで当時のマカッサル研究所に勤務しハマダラ蚊の研究をしていました。
******************************
今次大戦中南方占領地域において、陸軍軍政地であるマレーシアのクアラルンプール研究所やジャワのマラリア研究所などに対応すべき研究所のない海軍軍政地区では、昭和18年5月、
マカッサルに総合的な科学研究所が創設された。これがマカッサル研究所である。その目的とするところは、南方地域の統治・開発に必要な基本事項を調査研究することであった。
その組織は、総務・農林水産・地質鉱物・熱帯衛生・環境科学・慣行調査の六部よりなり、所長には 元東大農学部教授・薗部一郎博士が任命された。建物は既設のものが利用され、総務部・
農林水産部・地質鉱物部等は海岸近くの有名なロッテルダム要塞内に設けられた。<中略> 私(倉茂氏)の所属した熱帯衛生部は、その主体であるところの、研究を行なう「実験所」と、
現地の診療を行なう「病院」との二つからなっていた。 実験所は郊外の閑静な所にある現地の 研究所の建物が利用され、これとは離れて、病院は海岸近くに設けられた。
******************************
この記述からすると、マカッサル研究所は少なくとも、ロッテルダム要塞内・郊外の閑静な所・海岸近く の病院の3ヶ所あったようです。地図の下のほうにある「マ研」が上記の「郊外の閑静な所」なのでしょう。
また、病院は「マカッサル病院」をさすものと思われます。
|