マリノ
Malino
高原リゾート・マリノ
マリノ (Malino) はマカッサルの東南方向約70km、バワカラエン山 (Bawa Karaeng) の中腹、標高約500-1,000m、マカッサルから約1時間半の距離にある高原リゾート地である。マカッサルからゴワ街道を南下、スングミナサ(Sungguminasa) で左折、日本の援助によって建設されたビリビリ・ダム (Bilibili) を経由、道中は美しい山並み、川沿いの水田地帯などを眺めながら丘陵地帯のドライブを楽しむ事ができる。
オランダの植民地時代の1927年にマカッサルからマリノまでの道路が完成してから、オランダ人達は下界の熱気から逃避するためここを避暑地とした。広大な松林、滝など観光資源にも恵まれて、現在もマカッサルの上流階級の別荘地ともなっている。日曜の朝市も有名である。日曜は静かな町は一転して賑やかになる。ここを基点として登山する人も多い。山登りをしなくても広大な森林、二つの滝見物、乗馬体験、散策などひんやりしたした空気のなかで寛ぐことが出来る。ホテル、レストランも多い。
マリノは観光スポットであると同時にオランダ統治時代から数々の大きな会議の舞台ともなっている。1956年のマリノ会議や、最近では2001年にPoso問題の会議もここで開催されている。面積
3万平方キロ、一番高い地点で標高1200m、人口3万強、大半が農業である。この地域からキャベツなど大量の農産物がトラックで出荷され、遠くはマムジュ
(Mamuju) 港からフェリーで海峡を渡りカリマンタン島バリクパパン (Balikpapan) まで運ばれる。またマリノの中心部を抜けてさらに山を上がったところに三井農林(株)が1987年に開発した200haの広大な茶園がある。ここで生産されたお茶の大半は日本へ出荷されるが、一部はマカッサル市内で高級紅茶”マリノティ”(Malino
Tea) として販売されている。(写真 上)
太平洋戦争末期にはマリノに陣地構築
太平洋戦争末期の昭和20年、マカッサルは連日激しい空襲にさらされた。連合軍のマカッサル上陸を恐れた日本軍は艦砲の届かないこと、また、山岳地帯であるためマカッサルからの陸上攻撃も難しいと考えマリノに陣地を構築した。
「4月に入りマリノの進捗状況の視察と野戦病院設置の準備のため、兵隊を指揮して、トラックに包帯材料、消毒剤等を満載してマリノの陣地へ向かって出発した。途中猛烈なスコールに出会い山道が泥でぬかるみ始めてきた。運転手は苦労しながら曲がりくねった登り坂を運転していったが、何番目かのカーブに差し掛かった時にハンドルを取られ、曲がり切れずにその儘崖に突っ込んでしまった。、、、、」と秋山尚之氏の「海軍薬剤官の思い出」(p39)と書かれている。
幸いにも連合軍はマカッサルではなく対岸のカリマンタン島バリクパパンを攻撃、7月1日上陸している。この1ヶ月半後に終戦を迎えることになる。連合国の次の攻撃目標はマカッサルだったので、間一髪で戦渦を免れたことになる。マリノには現在も多数の陣地、物資格納などに使われた洞穴が残されている。
マリノ高原からマカッサルと反対方向(東方向)に下るとボネ湾側のシンジャイに到達するが、その間は大変な悪路である。しかしマリノ高原から車で1時間半くらい位ゆっくりと移動する(とても走れない
時速 5km/h 位か?)と、見事な棚田風景が展開する。これはバリ島の観光名所になっている棚田よりはるかに雄大である。将来この道路が改良されれば、マカッサルーマリノを経てシンジャイ、ブルクンバ(ビラ)へ至る有力な観光ルートになるだろう。
更新: 2008-9-16